第十五話:『黒潮互助会の痕跡と奇妙な平穏』 第二節:黒潮互助会の痕跡と、アングラーの影
ガラの先導で足を踏み入れたのは、水上集落の中央に位置する吹きさらしの共同解体場だった。
板敷きの床には無数の傷が刻まれ、海水と魚脂の混ざり合った濃密な気配が漂っている。
奥に据えられた大きな平釜からは、干潟の泥水を煮沸して抽出している純白の天然塩から、熱い湯気が立ち上っていた。
天井の梁からは、泥抜きを終えたばかりの巨大な汽水怪魚や水生魔獣の半身が何頭も吊るされ、太い前腕を持った漁師たちが無駄のない所作で刃を走らせている。
歩みを進めていたリンが、ふいにその足を止めた。 琥珀色の瞳を鋭く眇め、視線をある一点へと釘付けにしている。
その先――作業台に向かい合っていた老漁師の手元だった。
まな板の上で暴れ狂う全長2メートル近い濁泥魚の頭部を、老人は力でねじ伏せることなく、ただ手のひらの自重を預けるようにして軽く押さえていた。 次の刹那。 老人は無骨な右手で細く鋭い金属針を握ると、迷いなく魚の頭部へと突き立てた。
狙ったのは、魚の眼のすぐ斜め後ろ上方――側線と頭骨が交差する、いわゆる魚のこめかみにあたる急所だった。 硬い骨の継ぎ目を的確に貫いた一針が、脳神経の中枢を一瞬で破壊する。
暴れていた怪魚の巨躯から、すべての運動の緊張が抜け落ち、瞳孔の色が白く濁って動かなくなった。 だが、老人の手は止まらない。 間髪を容れず、頭骨の刺し穴からさらに細くしなる極細のワイヤーを滑り込ませ、背骨に沿って走る脊柱管の奥深くまで滑らかに通線させた。 神経締め――末梢の筋繊維に遺る痙攣の信号までをも根こそぎ遮断する、極限の処理。 尾の付け根に軽く刃を入れて血を抜く頃には、魚の全身からは死後硬直を招く余計な筋緊張が跡形もなく消え去っていた。
「……おい」
リンの低い呟きが落ちた。
琥珀色の瞳孔が細まり、先刻まで白亜防護壁の上で戦っていた野生の勘が、その指先を微かに強張らせている。
「力任せに叩き割ってんじゃねえ。こめかみの一撃で脳を落として、ワイヤーで脊髄の信号まで一瞬で根こそぎ抜き取ってやがる。……おいルシアン、見ろよ。さっき防壁の上で、あたしが飛び込んだ瞬間に肩の腱と首の神経を外されて、全身の自由を奪われたあの感触と……まったく同じだ」
「……ええ」
ルシアンもまた、歪んだ眼鏡を指先で押し上げながら、その怜悧な視線を老漁師の手元から離そうとしなかった。
「生体の中枢神経と運動伝達を物理的に絶つ技法です。あのような精密な急所破壊は、帝立アカデミーの執刀外科医ですら数十年の修練を要するはずですが……」
ふたりの戦慄を聞き流すように、先頭を歩いていたガラが煙管の先を軽く振った。
「よく気がついたね、小娘」
灰紫色の煙を吐き出しながら、女傑は吊るされた魚の群れを見上げて、自嘲混じりに目を細めた。
「そいつは、この泥干潟に生きる連中が代々叩き込まれてきた『活け締め』の技だよ。……もっとも、その締め方をこの集落に持ち込んで広めたのは、100年前にここにいた1人のクソガキなんだがね」
「100年前に……?」
アリアが思わず一歩前へと詰め寄った。 ガラは煙管をくわえ直し、手首に巻かれた古びた藍染めの布を指先でなぞった。
「身寄りもねえ孤児のくせに、糸と竿を握らせたら干潟の誰よりも魚を獲るのが上手え、変な小僧がいてさ。魔法の適性なんて欠片もねえ無属性の落ちこぼれだったが、泥底の起伏や潮の変わり目を聞く耳だけは、大人顔負けだったよ」
ガラの声音には、厳しい風雪を耐え抜いてきた者特有の、誇りと哀愁が混ざり合っていた。
「ある日、あの小僧は向こうの泥沼から、置き去りにされて死にかけてた貴族のお嬢ちゃんを糸で引き揚げてきやがったんだ。着るものも言葉遣いも違う、いかにも都の深窓の姫さんだったよ。周りの大人は関わるなと止めたんだがね、あいつは『こんな華奢な奴、放っておいたら死んじまう』って言って聞きやしねえ。都の安全な場所まで送り届けてやるって、粗末な小舟にその娘を乗せて、川を漕ぎ出していったのさ」
「……送り届けるために、帝都へ……」
アリアの喉の奥が、ぎゅっと締め付けられた。 ガラは薄く口元を歪め、煙管の吸い口を噛んだ。
「それっきり、帰ってこなかったよ。都へ着いた後、あの小僧がどんな目に遭ったのかは知らねえ。だが、しばらくして東の魔王が倒されたって報せが届いた時、都の連中は『教会の聖女と宮廷騎士が魔王を討伐した』って、大々的なおとぎ話をでっち上げたのさ」
吐き捨てるようなガラの声に、乾いた冷笑が滲む。
「本当の勇者はあの小僧さね。国の偉い騎士様なんかじゃねぇ。それがなんでこんな、よくわからんおとぎ話になったのか……大方、お国の事情なんだろうがね」
「……っ」
ルシアンが息を呑み、抱え込んだグリモワールを握る指先を白く硬直させた。 若き参謀の頭脳の中で、アカデミーで叩き込まれてきた帝国の公式神話と、目の前で語られた泥臭い証言が、真っ向から衝突していた。
(教典に記された討伐譚の主役は、神樹の託宣を受けた宮廷の正統騎士と聖女だったはずだ。……なぜ、伝承がこれほど根本から食い違っているのだ? なぜ国家は、名もなき平民のアングラーの存在を完全に塗り潰した……?)
フィリアもまた、両手を胸の前で固く握りしめ、震える唇を引き結んでいた。 真実を知る由もなく、ただ利用され、歴史の闇へと葬られた少年の痛みが、少女の胸を鋭く貫いていた。
だが、誰よりも激しい衝撃に打たれていたのは、アリアだった。
少女の脳裏を、記憶の断片が激流となって駆け巡っていた。 帝都を脱出し、大河を下る小舟の上で見た、あの温かな焚き火の夢。 煤けた手で丁寧に魚の骨を外し、「ほら、一番うまいとこだ」と笑いかけてくれた、人懐っこい黒髪の青年。 書籍や教典ではなく、先刻の暗渠の底、火の粉の舞う薄暗がりの中で、無言のまま骨を外した魚を差し出してくれた、あの泥だらけの手。
『……あなた、本当にこの街の人たちを殺すつもりなの?』防壁の頂でそう問いかけた時、あの魔王の「死人の能面」の奥で、確かに揺らいだ哀しい瞳孔。
すべてが、1本の糸で結ばれようとしていた。 あの人は、最初から世界を滅ぼすだけの怪物などではなかった。 この泥濘で生まれ育ち、誰かのために小舟を出し、そしてすべてを奪われた――
作業場の隙間から、傾いた夕陽の光が赤黒く差し込んできた。 泥濘の水面が、血のような茜色に染まり始めている。
「……あたしが話せるのは、ここまでさ。日も暮れてきた。お前さんたちも、身体を休める場所を探しな」
背を向けたガラの言葉を、アリアは聞いていなかった。 胸の奥を激しく突き上げる衝動に突き動かされるように、少女は踵を返し、解体場を飛び出していった。 赤く染まる夕暮れの空の下、外海へと続く澪筋の突端――木造の桟橋へ向けて、足早に駆け出していく。
「……殿下!」
取り残されたルシアンが、歪んだ眼鏡を直しながら、その華奢な背中を追って歩み出した。
(第三節へ続く)




