第十五話:『黒潮互助会の痕跡と奇妙な平穏』第一節:引く潮と、奇妙な無傷
防壁の天頂を吹き抜けていた突風が、嘘のように凪いでいた。 先刻まで大気を押し潰していた超音速の衝撃波も、空間を凍結させていた絶対零度の負圧も、いまは跡形もなく消え去っている。
アリアは肩を上下させて荒い息を吐きながら、両膝に手をついた。
極限の集中によって展開した『無垢なる聖域』の反動が、遅れて全身の関節を鉛のように重く軋ませている。 その背中を、駆け寄ってきたフィリアがそっと抱きとめた。
「アリア様……! もう大丈夫です、呼吸を整えてください……」
フィリアの小さな両の手のひらから、淡く温かな桜金色の光が溢れ出し、アリアの背中と首筋を包み込んでいく。 荒れ狂っていた血液の巡りが穏やかな拍動へと整えられ、皮膚の奥で熱を帯びていた『原初の勇者の聖痕』が、静かにその極光を潜めていった。
その隣では、リンが八重歯を覗かせながら不敵な笑みを浮かべ、肩を大きく回して首の関節を小さく鳴らしていた。 額に滲んだ汗を手の甲で豪快に拭うその表情には、死線を越えた充実感と、野生児らしい強気な輝きが戻っている。 先刻まで完全に脱臼し、神経を麻痺させられていた右腕だったが、フィリアの集中的な神聖治癒光によって骨格も筋繊維も完全に元の位置へと整復されていた。
「助かったぜ、フィリア。……腕がもげたかと思ったが、元通りだ」
「本当によかったです、リン様……無茶ばかりなさるのですから」
ふたりが言葉を交わす傍らで、ルシアンだけは腰を下ろすこともなく、眉間に深い皺を刻んで防壁の縁へと歩み寄っていた。 整った眉根をこれ以上ないほど険しく引き絞り、苦虫を噛み潰したような小難しい表情を浮かべたまま、眼下の濁流を睨みつけている。 ルシアンは歪んだ魔導眼鏡のフレームを神経質に押し上げると、抱え込んだ厚いグリモワール(魔導書)を開き、大気中に残留する術式波長を精密にスキャンし始めた。 レンズの奥、青白い幾何学の計測コードが目まぐるしく更新されていく。
「……信じられませんね」
吐き捨てられたルシアンの声には、安堵ではなく、張り詰めた戦慄と困惑が濃く滲んでいた。
フィリアの癒やしの光によって全身の鉛のような疲労が急速に抜け、青ざめていた頬に健康的な赤みが戻ったアリアが、すっきりと澄んだ顔色で立ち上がった。
「ルシアン? 何かまずいことでも分かったの?」
アリアが訝しげに歩み寄ると、ルシアンはグリモワールを閉じることもせず、眼下に広がる光景を指差した。
「見てみなさい。防壁の外側――東の澪筋の水位です」
言われて3人が防壁の縁から身を乗り出すと、そこには異様な光景が広がっていた。
先刻まで白亜防護壁の基部を激しく叩き、今にも街を呑み込もうと荒れ狂っていたはずの黒濁水が、目に見える速度で急速に干上がっていたのだ。
その濁流のすべては、レンが初撃で粉砕した巨石水門の断裂面――地下深くへと口を開けた巨大なバイパス水路へと、巨大な渦を巻いて吸い込まれていく。
神樹が垂れ流し続けていた猛毒の排液は、街へと押し寄せることなく、新しく穿たれた抜け道を通って外海側の深海溝へと勢いよく逃げ去っている。
「水位の低下速度、毎秒およそ400立方メートル。滞留していた重金属ヘドロの濃度も、外海へのバイパス流出によってすでに半減しています。……最初から、これが奴の狙いだったのですよ」
ルシアンの怜悧な声が、冷たい風に乗って落ちた。
「あの魔王が狙っていたのは、この白亜防護壁の完全粉砕でも、エスチュアリーのスラム街を水没させることでもなかった。帝国が上流で堰き止め、魔大陸へ逆流させていた毒水の元栓――水門基部の要石を両断し、水路をバイパス開通させることこそが、奴らの唯一の軍事目的だったのです」
「……最初から、土木作業だったってわけかよ」
リンが苦々しく吐き捨てた、その時だった。
防壁の昇降階段から、重厚な革靴の足音が規則正しく響いてきた。 現れたのは、黒潮互助会の当代総頭、『鉄鍋のガラ』だった。 50代後半の引き締まった身体に、水生魔獣の鞣し革の上着を羽織り、銀髪の混ざった短い髪を無造作に後ろで束ねている。腰に年季の入った大型の解体出刃包丁を差した女傑は、細めた双眸で防壁の上を見回すと、静かに歩み寄ってきた。
「……派手にやり合ったね、お前さんたち」
煙管の灰を敷石に落としながら、ガラが低くハスキーな声を落とした。
「ガラさん! ええ、なんとか壁を守り切ったわよ」
アリアが胸を張って応じると、ガラは崩れ落ちた水門の断裂面、そして濁流が吸い込まれていく澪筋を鋭い眼光で見据え、ふっと口元に薄い笑みを浮かべた。
「防壁の石垣は無傷、毒水はバイパスへ綺麗に抜けた。……あの化け物どもの大軍を前にして、大した肝っ玉だよ。だがね」
ガラは煙管をくわえ直し、顎先で背後の階段を指し示した。
「感心するのは、下を見てからにしな。お前さんたちの目で、直接確かめてみる価値があるよ」
4人は顔を見合わせ、ガラの促しに従って防壁の内側へと続く狭い石階段を駆け下りた。
白亜防護壁の根元を抜け、エスチュアリーの水上集落へと足を踏み入れた瞬間―― アリアたちの足が、揃って止まった。
異様な光景だった。
帝国の教典や神樹聖教の説法によれば、魔王軍が通った地は例外なく焦土と化し、民は生きたまま解体され、草木1本すら残らないと教え込まれてきたはずだった。 だが、目の前に広がっていたのは、そんな地獄絵図とは似ても似つかない、あまりにも整然とした現実だった。
破壊されていたのは、帝国がスラムの貧民を監視するために突き出させていた石造りの「軍事監視塔」、そして神水税を取り立てるために頑丈に築かれていた「帝国徴税所」の2棟だけだった。 その堅牢な建造物だけが、まるで精密な刃物で関節を切り落とされたかのように、土台ごと綺麗に両断されて瓦礫の山へと変わり果てていた。
一方で―― その監視塔のすぐ足元に密集していた、貧民たちの粗末な木造の浮き小屋群。
むしろを張っただけの掘っ立て小屋、干潟の泥をすくうための粗末な塩田、板子一枚の小舟に至るまで、驚くべきことに、ただの1つとして破壊されていなかったのだ。 破城杭の突風で屋根の筵が数枚吹き飛んだ程度の痕跡こそあれど、民の生活基盤は、文字通り無傷のまま残されていた。
さらにアリアたちを驚かせたのは、そこに生きる住民たちの姿だった。 逃げ惑うこともなく、怯えて泣き叫ぶこともなく、水が引き始めた干潟へ長靴を履いた漁師たちが次々と降り立ち、手際よく網の補修や散乱した樽の回収を始めていたのだ。
「おい、潮が引いたぞ! 今のうちに網を繕いな!」 「水門の栓が抜けたおかげで、ここ数年で一番潮通しがいいぞ!」
そんな威勢のいい怒号すら、泥濘のあちこちから飛び交っている。
「……なんなの、これ……」
アリアの唇から、呆然とした呟きが零れ落ちた。 フィリアも胸の前で聖杖を握りしめたまま、信じられないものを見るように緑の瞳を瞬かせている。
「帝国の兵舎や徴税所だけが粉砕され……民の家や船は、何1つ壊されていない……?」
「……ええ」
ルシアンがグリモワールの余白に鋭いペン先を走らせ、唇を固く引き結んだ。
「意図的な、外科手術のような選別破壊です。魔王軍は、最初からこの街の民を標的にしてなどいなかった。……帝国の教理が説く『無差別な殺戮者』という魔王の姿は、この現場のどこにも存在しませんよ」
冷たい潮風が、泥濘の隙間を吹き抜けていく。 帝国の欺瞞を切り裂くような奇妙な平穏の真ん中で、アリアの胸の奥に、かつてないほど強烈な違和感の波紋が広がり始めていた。
(第二節へ続く)




