幕間:『リフレクション・メモリー』
白亜防護壁を背にし、灰色の濁流の上を滑るように進む影があった。
水煙と黒煙が混ざり合う澪筋の上を、音もなく滑走する魔王レン。 背後には重力を歪めて従う『黒骸の断罪柱』。だが、その装甲の隙間から漏れ出る金属音は、先刻から微かな乱調を刻んだまま、かつての冷徹な静寂を取り戻せずにいた。
チ……チチッ……。
エルの魔導リールが、主の動揺をなぞるように不規則に跳ねる。
青年の網膜の奥に焼き付いて離れなかったのは、白亜壁の頂で自らの断罪を受け止めた、あの透明な光の波紋――そして、自分を真っ直ぐに射すくめた、愛おしいほどに澄んだ黄金の光芒だった。
レンは自らの右手を視界の隅に捉えた。 黒金の鋭利な鉤爪へと変貌した手甲を見つめるうち、指先の皮膜の奥底から、100年前の「最初の感触」が疼くように蘇ってくる。
魔鋼糸などではなく、ただの水生魔獣の筋腱ワイヤーを十指に仕込んでいた、18歳の頃の記憶。
情景は、淡い朝靄の底へと溶けていくように霞んでいた。
帝国の境界外縁、冷たく重い濃霧が立ち込め、神樹の未分解ヘドロが淀む沼沢地『最果ての水辺』。 魔境調査に同行させられていた神樹聖教の聖女隊が原生魔獣の奇襲を受けて壊滅し、保身を図る護衛騎士たちは、生贄の少女を冷たい泥の中に捨て置いて逃亡していた。
教会の拘束具によって能力を封じられたまま、泥に這いつくばり、鋭い爪牙に追い詰められていた瀕死の少女。
気配を殺して沼地に潜伏していた18歳のレンは、迷うことなく指先の鋼糸を放った。 アングラーの身体知が、魔獣の骨格や神経の継ぎ目を一瞬で見抜く。発動音も魔法光もない、無音の解体。襲いかかろうとした魔獣の首と四肢を瞬時に縛り上げ、一切の抵抗を許さずに無音で完全制圧した。
水煙と泥の匂いの中、レンは無言のまま歩み寄り、冷たい泥水に塗れた華奢で小さな少女の身体を両腕で抱き起こした。
首元には、神樹聖教の所有物たることを示す『聖別のロザリオ』と、喉仏の下に刻まれた痛々しい『聖別印』の焼印。
少女の意識は、途絶えてはいなかった。
過度の恐怖と極度の冷えによって朦朧としていたものの、薄紫の瞳はかろうじて開かれており、自分を抱き上げた見知らぬ少年の顔を、焦点の定まらぬ視線で必死に追っていた。
激しい咳き込みとともに泥水を吐き出し、歯の根も合わないほど顎を震わせながら、彼女はレンの泥だらけの服の胸元を、かじかんだ指先で縋るように弱々しく握りしめていた。
それは超常の力を誇る神の象徴などではなく、ただ死の恐怖に怯え、生きようと震えるだけの15歳の女の子だった。
抱き上げた瞬間、少年の胸元へ、少女の胸から伝わってきたものがあった。
トクン、トクン……。
凍てつく沼地の冷気とは裏腹な、儚くも確かな生命の鼓動と、生身の体温。 泥と草をそっと拭った隙間からこぼれ落ちたのは、深い瑠璃色のリボンで結ばれた、息を呑むほど美しい白銀の髪だった。 そして泥に汚れたその素顔を間近で直視した瞬間、レンの胸の奥で、心臓が跳ね上がった。
(……っ、なんだこいつ。めっちゃ、かわいいじゃねえか……)
荒くれ者の男たちばかりが怒鳴り合うスラムの泥干潟で育ち、同年代の女の子とまともに話したことすらほとんどなかった18歳の少年である。
腕の中にすっぽりと収まる身体のあまりの細さ、折れそうな手首の華奢さに圧倒され、あまりの愛らしさに息が詰まりそうになっていた。
道具として捨て置かれ、冷たい死を待つだけだった少女に、生まれて初めて「他者の生身の温もり」が伝わると同時に、助け起こした少年もまた、かつてないほどの激しい動揺と気恥ずかしさに耳まで真っ赤に染め上げていた。
だが、見つめ合っている場合ではなかった。 少女の唇は寒さで紫色に変色し、呼吸を刻むたびに全身が小刻みに痙攣している。 意識こそ保っているものの、このままでは魔獣に喰われる以前に、低体温症で確実に命を落としてしまう。 一刻も早く火を熾して身体を温めてやらなければ死ぬ――そう判断したレンは、冷たい雨風を凌げて乾いた枯れ枝が集めやすい、すぐ近くの水辺の岩陰の洞窟へと少女を抱きかかえて急いだ。
洞窟の奥、風の当たらない平らな場所に少女を座らせると、レンは集めてきた流木で手早く焚き火を熾した。 パチパチと赤い火の粉が爆ぜ、冷え切っていた空間に確かな熱が広がり始める。 温もりに触れたことで強張っていた緊張が解けたのか、少女の瞳に少しずつ確かな光が戻り始め、パチパチと揺れる炎を安心したように見つめていた。
レンは湧き出る清水に漬けて徹底的に泥抜きを施した汽水魚を手際よく捌き、血抜きをして臭みを消すと、遠火で皮目が香ばしく爆ぜるまでじっくりと焼き上げた。
焼き上がった魚を手に取ると、無骨な指先で小骨を1本ずつ念入りに抜き取っていく。 喉に刺さる危険をすべて取り除き、一番柔らかく脂の乗ったハラスの身だけを丁寧に外し、自らの吐息でフーフーと念入りに冷ましてから、震える少女の小さな両手の上へと優しく手渡した。
無菌室の配給粥や、味気のない精進食しか知らなかった少女。 香ばしい塩気とふっくらとした身を口に含んだ瞬間、少女の薄紫の瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。 頬を濡らす涙を拭おうともせず、声を詰まらせて魚を頬張る。 それは、生まれて初めて「自分のためだけに手間と時間をかけられた」という、この世界で最初の味覚と優しさだった。
「……おいしい、です……すごく……温かいです……」
「……お前、名前はなんて言うんだ?」
少女は濡れた袖で涙を拭い、消え入るような声で答えた。
「……クラリス。教会では、そう呼ばれていました……」
「クラリスか。……俺はレンだ。泥水啜りの釣り師だよ」
教会の肩書も、首筋の焼印も関係ない。一人の女の子として名前を呼ばれた少女は、くしゃくしゃになった泣き顔のまま、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。
「……レンさん」
その澄んだ声が、少年の胸に生涯消えぬ火を灯した。
ただ、泥沼の中で出逢ったこの小さくて可愛い女の子を、無事に都の安全な場所へ送り届けてやる――
当時のレンにあったのは、ただそれだけの、不器用で真っ直ぐな思いだった。
それが、ふたりを世界の欺瞞と血塗られた因果の渦へと巻き込んでいく、すべての始まりだとも知らずに。
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冷たい濁流の飛沫が頬を打ち、レンの知覚が現在へと引き戻された。
水門の裂け目から吹き抜ける風が、青年の漆黒の前髪を激しく揺らす。
胸元の『真紅の魔核』が、激しい拍動とともに痛烈な熱を放ち、肋骨の内側を焼き焦がしていた。
脳裏から消え去らない、白亜防護壁の瓦礫の上に立っていた少女・アリアの姿。 あの透き通る白銀の髪、潤んだ菫色の瞳。 そして、自分にだけ届くように囁かれた、あの掠れた問いかけ。
『……あなた、本当にこの街の人たちを殺すつもりなの?』
同じ容姿、同じ体質、そして何より――かつてクラリスが自分に向けていたものと寸分の狂いもない、あの真っ直ぐな黄金の光芒。
(……あいつは、何者だ)
100年間、世界を更地に均すためだけに凍結させてきた青年の心臓が、耐えがたい軋みを上げて軋轢を刻む。
魔王の「死人の能面」の奥深くに、拭い去れぬ迷いと激震を刻み込んだまま、青年は黒煙の向こうへと姿を消していった。
(第十五話『黒潮互助会の痕跡と奇妙な平穏』へ続く)
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SD4コマ レンとクラリスの出会い
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