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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第十四話:『無垢なる聖域の輝き』 第四節:波長の残響、そして撤退の背中

 空中に完全に静止していた全長40メートルの漆黒の巨杭から、運動の余韻すら消え去っていた。

 アリアの掌から解き放たれた透明な静謐が、杭の先端を包み込む膜となって揺らめいている。

  やがて、内部の逆転シリンダーが自律的に作動を開始し、多段階に突き出していたブランクス構造が、静かに節の内側へと滑り戻り始めた。

 ダンカンの金砕棒を鍛え直した外装装甲板が花弁を閉じるように重なり合い、巨杭は元の2.5メートルほどの重金属柱へと姿を戻していく。

  重力を歪めて主の背後へと戻った『黒骸の断罪柱』。

 だが――その内部から響く金属音は、先刻までの冷徹な規則性を完全に喪失していた。

 チ……チチッ……チ……。

 エルの魔導リールが、不規則に跳ねるような乱調のクリック音を刻んでいた。

 100年間、世界を更地に均すためだけに極限のドラグテンションで調律されてきた怨念の出力が、いま、大気を満たす太古の外海の潮の香りと、少女が放った光の残熱に触れ、激しく狂わされていたのだ。 レンは自らの右手を視界の隅に捉えた。 数千の軍勢の息の根を一瞬で止めてきたはずの不可視の糸が、弛緩したように張力を失い、青年の指先から力なく垂れ落ちていた。

 肉体が、命令を拒絶していた。

 青年の前に広がるのは、神樹の排液の腐臭を完全に払拭され、澄み切った大気に包まれた白亜防護壁の天頂。 瓦礫の段差を挟み、互いの距離はわずか数メートル。 両手をゆっくりと下ろしたアリアが、肩で息を整えながら、すり足で半歩前へと足を踏み出した。

 敵に対する怒号も、武器を構える威嚇もない。 後ろでへたり込む仲間たちにすら届かないほどの、ただ目の前の青年の耳朶だけを揺らすような、掠れた密やかな声だった。

「……あなた、本当にこの街の人たちを殺すつもりなの?」

 静かに落とされたその問いに、青年の無表情に異変が走った。 完璧に固められていた「死人の能面」の端が、微かに引き攣る。

 わずかに寄せられた眉根、そしてアリアの姿を捉えたまま、迷うように細かく揺らいだ黒い瞳孔。

  冷酷に排除を告げるはずの青年の舌が、重い鉛を流し込まれたように固まって動かない。

 脳裏を過るのは、敵対する帝国の皇女という記号ではない。

 先刻の暗渠の底、火の粉が爆ぜる薄暗がりの中で、丁寧に骨を外した魚の身を差し出した際、

「美味しかったよ、レン」

 と無防備に微笑んだ、あの泥だらけの少女の温もり。

 その張り詰めた沈黙を破るように、青年の頭蓋の内奥へ、星詠族の総参謀オディロンからの長距離精神感応が直接届いた。

『――我が主。外海の潮汐が反転期に入りました。水門基部の要石破断に伴い、神樹排液の排水バイパスはすでに十分な流量を確保。魔大陸側海溝における圧力の減衰、確認いたしました』

 老魔族の報告は、冷徹な事実を告げていた。

 そもそも、魔王軍がこの防衛線を強襲した最大の軍事目的は、下層の民の虐殺などではない。

 帝国が築いた旧水門は、上流から押し寄せる高濃度の重金属排液をダムのように堰き止め、その毒水を魔大陸側の海溝へと逆流させていた。

 海底の同胞たちを窒息死から救うためには、水門の根元にある巨大な「要石」を粉砕し、滞留した毒水を外海へと逃がす抜け道――排水バイパスを開通させる土木作業こそが本命だったのだ。

 先刻の破壊と地下暗渠の貫通によって、黒濁水はすでに新たな水路へと勢いよく吸い込まれ、海溝への逆流圧力は消え去っていた。

 これ以上、白亜防護壁そのものを完全に更地へと均し、干潟のスラム街を泥水に沈める必然性は、工学的にも軍事戦略的にも、最初からどこにも存在していなかったのだ。

 レンは薄い唇をきつく引き結び、感情を押し殺すように目を細めた。

 そして――何一つ言葉を返すことなく、静かに踵を返した。

 立ち去る刹那。

 青年は肩越しに、ただ1度だけ、瓦礫の上に立つアリアの姿を射抜いた。

  乱れた漆黒の前髪の隙間から向けられたその瞳には、絶対の捕食者としての冷酷さではなく、底知れぬ孤独と、理解を超えた存在に対する痛切な光が宿っていた。

 漆黒の儀仗外套が濁流の風を孕んで翻り、青年は水門の裂け目から立ち上る黒煙と水煙の向こうへと、音もなく姿を消していった。

 主の離脱に呼応するように、防壁の下に群がっていた潮殻族の海獣部隊や淵鱗族の潜水兵たちも、引き潮のように一斉に深みへと身を引いていく。

 嵐のような圧力が、潮の引く音とともに去っていく。

 エスチュアリーの街は、守り抜かれていた。

 緊張の糸が切れた瞬間、アリアの膝から急速に力が抜け落ちた。

 前のめりに崩れ落ちかけた華奢な身体を、痛む右肩を庇いながら駆け寄ったリンと、フィリアの両腕がしっかりと受け止める。

「……おいアリア! 無茶しやがって……!」

「アリア様……! よかった、皆さん……ご無事で……!」

 親友たちの体温に包まれながら、アリアは荒い呼吸の合間に、小さく息を吐き出した。 その視線の先――防壁の縁に、ルシアンが1人佇んでいた。 青年は歪んだ眼鏡の位置を直すことも忘れ、魔王軍が消え去った東の澪筋を、鋭い観察眼で見つめ続けている。

(水門の基部を破断させ、排水バイパスを確保した……それが奴らの第一目標だったのか。……だが、それだけではない)

 ルシアンの怜悧な思考が、先刻の光景を幾何学のように組み立て直していた。

(あの魔王は、アリア殿下の光を目にした瞬間、明らかに肉体の調律を乱していた。そしてアリア殿下もまた、あの怪物を前にして……)

 暗渠の底でアリアが口にした「汽水魚の反応」という不自然な嘘。

 そして、先刻二人の間に流れていた、言葉のない異様な空気。

 ルシアンのネイビーブルーの双眸の奥で、疑惑の輪郭が静かに、だが確実に深まっていた。

 泥濘と排液の臭気が漂う防衛線の上に、束の間の静寂が降りていた。 だが、その平穏の裏側で、百年の因果をめぐる歯車は、二度と止まらぬ速度で噛み合い始めていた。

(第十四話 完 / 第十五話へ続く)


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