第十四話:『無垢なる聖域の輝き』 第三節:断罪の一撃と、『無垢なる聖域』
超音速で突き進む破城杭の先端が、防護壁の直前数十メートルの大気を平らに押し潰した。
逃げ場はなかった。 直径3メートル、全長40メートルを超える漆黒の質量塊が、真空の渦を従えて頭上から雪崩れ込んでくる。
ルシアンが喉を引き裂いて叫び、魔導杖の先端から30重の幾何学障壁を扇状に多重展開させたが、杭の先端が放つ絶対零度の負圧に触れた瞬間、数式コードは接触の猶予すら与えられず、ガラス細工のように儚く四散した。
背後でフィリアが痛むリンを抱きかかえ、震える両手で聖杖を握り締めて祈りを紡ぐが、あまりにも絶望的な質量差を前に、青白いマナの光膜は瞬時に吹き飛ばされようとしていた。
「アリア、逃げろッ!!」
リンの絶叫が、真空の底へと吸い込まれていく。
だが――その死線の最前線へと、白銀の髪を翻して滑り出た影があった。アリアだった。
少女は左腰の『蒼水直剣・アルビオン』の柄に添えていた手を、迷いなく離した。
剣を抜いて切り結ぶのではない。力を力で押し返すのでもない。
脳裏を駆け巡っていたのは、帝都の冷たい離宮を抜け出した夜、下町の酒場で泥にまみれて笑い合ったリンの拳。 自分の保身をかなぐり捨て、胃を痛めながら仲間の生存だけを計算し抜いてくれたルシアンの横顔。 地下の祈祷室で、誰かのためにと泣きながら笑っていたフィリアの尊い温もり。
そして―― あの冷たく閉ざされた暗渠の水脈で、無言のまま焚き火を熾し、不器用なほど優しく魚の骨を外してくれた、あの黒髪の青年の煤けた指先。
(あの人は……あたしたちを殺したいんじゃない)
アリアの奥歯が、ギリと強く噛み合わされた。
(ただ、この壁を壊して、何かを終わらせようとしているだけだ)
(なら――あたしが止める。あいつらも、この街も、あの人が火をくれたこの命も、絶対に誰一人壊させない!)
その無私の覚悟が、魂の深奥を撃ち抜いた、まさにその刹那だった。
首元のスカーフの奥深く、皮膚の下に眠っていた『原初の勇者の聖痕』が、トクン、と激しく熱を帯びて七色の極光を爆ぜさせた。
少女の全身を巡る『蒼血』が、神樹の定めたあらゆる属性法則を軽やかにすり抜け、沸騰するように原初の無属性マナを大気へと解き放っていく。
アリア本人は、気づく余裕すらなかった。
だが、戦場を満たしていた排液の腐臭と冷気が、一瞬にして千切れ飛んでいた。
神樹の偽りの秩序を嘲笑い、新世代の真の勇者の開花を世界そのものが祝福するかのように――アリアの足元から、清冽で気高い【蒼銀の旋風】が、螺旋を描いて天へと駆け上がったのだ。
荒れ狂う風が、少女の白銀の長髪を翼のように激しく舞い上がらせる。
アリアは両腕を胸の前から外側へと、包み込むように柔らかく広げた。 『無垢なる聖域』。
かつて離宮の結界をすり抜けたあの不可思議な無負荷化の波紋が、いま、白亜防護壁の天頂から背後のエスチュアリーの街区全体へと、巨大な透明の球殻となって一気に展開された。 放たれたのは、威圧的な魔力光ではない。 ただ空間そのものを絶対の平穏で満たす、名もなき透明な波動。
直後――音速の質量杭が、その光の膜へと正面から突入した。
激突の瞬間。鼓膜を破るはずの轟音も、大気を吹き飛ばすはずの衝撃波も、石材の爆砕すらも、ただの1つとして発生しなかった。 音のない接触。
数十万トンの質量を宿した黒鉄の巨杭が、透明な光の波紋に触れたコンマ数秒――断罪柱に込められていた音速の推進力、空気を切り裂く真空の圧力、空間を両断するはずだった凶悪な張力そのものが、まるで最初から存在しなかったかのように、瞬時に「運動量ゼロ・張力ゼロ」へと解体されていったのだ。
荒れ狂っていた真空の渦がふわりと霧散し、大気を引き裂いていた衝撃波のドームが、ただの穏やかな薫風へと変調して防壁の上を優しく撫で抜けていく。
あれほど獰猛に迫っていた巨大な黒鉄杭は、アリアの差し出した小さな手のひらのわずか数十センチ手前で、完全にその運動エネルギーを喪失し、空中にピタリと静止していた。 防壁の敷石は、欠片1つ崩れていなかった。
「……な、んだ……これ……」
後ろでへたり込んでいたリンの喉から、掠れた声が零れ落ちる。
ルシアンは魔導眼鏡の数値が全てゼロを示しているのを見つめ、息を呑んだまま硬直していた。
フィリアは胸の前で聖杖を抱きしめ、菫色の瞳を見開くアリアの後ろ姿を、涙に濡れた瞳で見つめていた。
だが――この場にいた誰よりも凄まじい衝撃に打ちのめされていたのは、水門の頂に立つ青年だった。 レンの全身が、鉄の棒のように凍りついていた。
青年の「死人の能面」が、百年の沈黙を破り、剥き出しの戦慄と悲痛によって激しく崩壊していく。
光を反射しないはずの虚無の双眸孔が、カッと極限まで見開かれていた。
霧散した光の粒子から漂ってきたのは、神樹の淡水ではない、太古の外海が放つ「濃密な潮の匂い」。 そして――正面から自らの断罪を包み込み、無へと還したその波長は。
百年前、魔王レヴィアの悪意すら命懸けで抱き止め、自らの命を燃やし尽くして散っていった、あの最愛の少女――クラリスが放っていた『奇跡』と、寸分の狂いもなく完全に同一の光だったのだ。
「……な、ぜ……だ……」
レンの薄い唇から、百年間一度として零れ落ちることのなかった、掠れた呼気が漏れ出した。 瓦礫の上に立つ少女の、風に舞う白銀の髪。 凛として自分を射すくめる、潤んだ菫色の瞳。 自分に向けられた、その愛おしいほどに真っ直ぐな黄金の光芒。
(……なぜ、お前が……その光を持っている……!?)
胸元の『真紅の魔核』が、激しい動揺に耐えかねたように、ドクン、ドクンと痛烈な熱を帯びて激しく脈動する。 世界を更地に均すという冷徹な鉄の意志が、一人の少女が放った奇跡の前に、根底から引き裂かれようとしていた。
(第四節へ続く)




