第十三話:『エングラム・メモリー / 身体の記憶』 第四節:記憶の激震
時が、完全に静止していた。
アリアの唇のすぐ前に差し出された、白く湯気を立てる魚の身。
その身をつまむ自らの骨ばった指先を見つめたまま、レンの全身が、雷に打たれたように凍りついていた。
(……俺は……何を、している……?)
思考が、全身の毛穴から血の気が引いていくような戦慄とともに悲鳴を上げていた。
我に返った青年の脳裏を、冷酷な現実が容赦なく殴りつける。 この少女はクレアではない。
帝国の欺瞞が仕立て上げた、次の時代の勇者であり、討ち果たすべき西の神輿のはずだ。
それなのに、なぜだ。 なぜ己の肉体は、百年間感情を殺し、世界を均す魔王として君臨してきた誇りすら置き去りにして、勝手に動いたのか。
魚を奪い、骨を外し、口元で冷まして差し出す――あの日々の、血の滲むような過酷な旅路で刻み込まれた無条件の反射。 身体の記憶が、青年の理性と憎悪を嘲笑うかのように、泥臭い釣り師としての魂を勝手に暴発させていたのだ。
差し出した指先が、微かに震える。 引っ込めなければならない。
この手を払い、冷徹な能面を取り戻さなければならない。
そう命じているのに、目の前の少女の潤んだ菫色の瞳を見つめた瞬間、どうしても指を引くことができなかった。
アリアの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
頬を伝い、顎の先から中州の砂へと静かに落ちていく雫。 恐れからではなかった。 目の前で硬直する青年の、死人のように冷え切っていたはずの横顔に、いま、隠しようもない動揺と戸惑いが走っている。 あの夢だ。 アルス大河の船上で見た、焚き火の前で笑いかけてくれたあの黒髪の青年。 そして、エスチュアリーのスラムでガラが語ってくれた、かつてこの泥濘で命を繋ぎ、仲間とともに海を目指したという、哀しき釣り師の面影。
すべてが、この一筋の記憶で完全に繋がっていた。
「……っ」
アリアは震える両手を伸ばし、レンの指先から、その柔らかな魚の身をそっと受け取った。
口元へと運び、小さく口に含む。
香ばしい皮の風味と、ふっくらとした白身の甘み。
小骨の欠片すら当たらない、慈しむような優しさに満ちた味。
噛み締めるたび、胸の奥底から込み上げてくる熱い痛みが、視界を滲ませていく。
アリアは袖で涙を拭うこともせず、濡れた瞳で青年を真っ直ぐに見つめ返した。 ――震える唇を開き、かすれた、だが透き通るような声で、静かに呟いたのだ。
「……ごちそうさま。……美味しかったよ、レン」
アリアも無自覚にその名を口にしていた。
その瞬間。
百年間、一度として感情の光を宿さなかったレンの漆黒の双眸孔が、カッと大きく見開かれた。
呼ばれるはずのない名。
この西大陸の誰もが忘れ去り、歴史の闇へと葬り去ったはずの、ただの泥臭い平民の釣り師の名。
胸元の『真紅の魔核』が、激しい動揺に呼応するように、ドクン、と熱を帯びて激しく脈動する。 青年の薄い唇が、かすかに何かを紡ごうと震え――
その張り詰めた静寂を、頭上から届いた鈍い衝撃が激しく引き裂いた。
天井を塞いでいた巨石の隙間から、青白い幾何学の光条が稲妻のように幾筋も走り抜けたのだ。 続いて、崩落した土砂を透過して響いてきたのは、肺腑から絞り出されたような、馴染み深い少女の絶叫。
『――アリアッ!! 聞こえないのか、アリアァァッ!!』
リンの声だった。 それに重なるように、魔導眼鏡の数理励起音とともに響くルシアンの切迫した怒号。 『空間反応を感知……! 直下二十五メートル、生体マナを二点捕捉しました! 瓦礫を液状化させて掘削します、下がっていなさい!』
さらに、エメラルドの光とともに染み出してくる、フィリアの必死な神聖光の波動。
仲間たちの足音が、すぐ頭上まで迫っていた。 外界の現実が、容赦なく二人の閉ざされた世界を抉じ開けようとしていた。
レンはハッと我に返ると、ゆっくりとアリアから半歩、間合いを引いた。
その白皙の顔貌には、先刻までの激しい揺らぎが嘘のように消え去り、再び感情を削ぎ落とした絶対零度の「死人の能面」が張り付いていた。
だが、背後に浮かぶ『黒骸の断罪柱』から漏れ出るクリック音だけが、青年の心臓の乱れを告げるように、微かに速いテンポを刻んでいる。
二人はそれ以上、言葉を交わすことはなかった。
焚き火の残り火が、二人の足元で静かに白い灰へと崩れていく。
奇跡のような停戦の時間は終わりを告げ、二人は再び、「魔王」と「勇者」という抗えぬ宿命の舞台へと押し戻されようとしていた。
(第十三話 完 / 第十四話『無垢なる聖域の輝き』へ続く)




