第十三話:『エングラム・メモリー / 身体の記憶』 第三節:汽水魚の塩焼きと、勝手に動いた指先
暗渠水脈の黒い水面を、わずかな乱反射が横切った。
レンの視線が、伏せられたまま鋭く動く。
暗がりの中州を取り囲む水たまりの深み――激流の底から逃れて淀みに身を潜めていた、体長三十センチほどの銀鱗の影。 青年は左腕をわずかに動かし、小指の先端から一本の不可視の魔鋼糸を滑らせた。
水音すら立てない、電光石火の投擲。
糸の先端に結ばれた微小なフックが、水底を回遊していた汽水魚の顎下を正確無比に捉え、一息のテンションで空中へと跳ね上げた。
暴れる獲物が中州の砂へ落ちる刹那、レンの中指から放たれた針糸が、魚の眉間――延髄の急所を一突きで貫いていた。 ピクリと全身を硬直させ、即座に動かなくなる銀鱗。 血を一滴も散らさず、身を傷めず、苦痛すら与えずに生体機能を停止させる、神域の活け締め。
レンは外套の裾を掴んでいたアリアの手を優しく外すように腰を上げると、焚き火の傍らで魚を手早く捌き始めた。 指先のエッジでエラ蓋を押し広げ、内臓を一息に掻き出す。
削り出した流木の枝を魚の口から背骨に沿って滑らかに突き通し、焚き火の縁――直火の届かない遠火の砂の上へ斜めに突き刺した。
薪の芯が小さく爆ぜて火の粉を散らし、赤い熾火の穏やかな熱が、濡れた魚の表面を包み込んでいく。 熱に晒された皮目が縮み、滴り落ちた脂が熱い灰に触れるたび、香ばしく芳醇な白煙がふわりと立ち上った。
暗く冷え切った地下空洞を満たしていく、魚の焼ける懐かしく甘い香気。
アリアは膝を抱えたまま、瞬きも忘れてその光景を見つめていた。
炎の明かりに照らされた、青年の横顔。 感情を殺したはずの冷たい白皙の肌が、柔らかな橙色の陰影に染まり、かつてアルス大河の船上で微睡みの中に現れた――あの夢の中の黒髪の青年と、あまりにも残酷なほど美しく重なり合っていたのだ。
あの夜、夢の中で嗅いだ、焚き火と魚の脂が混ざり合う温かな匂い。 胸の奥を激しく掻き乱す切なさに、アリアの喉が小さく鳴った。
やがて、飴色にじっくりと焼き上がった魚串を、レンが無言のまま引き抜いた。 青年の骨ばった手が、湯気を立てる串をアリアの前へと差し出す。
(……あたしに、くれるの……?)
アリアは恐る恐る手を伸ばし、熱い木串を受け取った。
香ばしい皮の匂いと、ふっくらと膨らんだ白身。
一口かじりつきたい衝動が湧き上がる。 だが――
(……あっ)
アリアの手が、串の直前でピタリと止まった。 箸はない。串に刺さったままの焼き魚。
日頃の訓練で培った剣術なら寸分の狂いもなく標的を両断できるのに、魚の身から骨を外すことだけは、どうしても指先が追いつかない。
アリアは困惑しながら、親指と人差し指で恐る恐る皮をめくろうとした。 だが、力加減を誤って柔らかな白身がボロボロと崩れ、細い小骨があちこちに剥き出しになって身の中に埋もれてしまう。 無理に口に運ぼうとすれば、鋭い骨が唇や舌に突き刺さりそうになる。
(うぅ……また崩れちゃった……。なんで魚の骨って、こんなにいっぱいあるのよ……)
身をグチャグチャにしてしまい、唇をへの字に曲げ、涙目で魚串と睨み合うアリア。 下町の大衆食堂でリンに大笑いされたあの情けない姿そのものの、無防備な膨れ面。
その時だった。炎の向こうから、漆黒の影が音もなく間合いを詰めていた。 アリアが息を呑む暇すらなく、レンの右手が、少女の小さな手から無言で魚串を奪い去っていたのだ。
「あ――」
奪われた、とアリアが抗議の声を上げかけた瞬間。 青年の指先が、目にも留まらぬ速さで魚の身の上を滑った。
刃物すら使わない、ただの指の腹の動き。
レンの親指と人差し指が、背骨の結節点をわずかに撫でた瞬間、魚の頭部から尾びれまでを繋ぐ太い中骨が、まるで魔法のようにスルスルと一本丸ごと引き抜かれた。 間髪を入れず、身の隙間に潜んでいた無数の細い小骨が、レンの器用な指先によってミリ単位の狂いもなく弾き飛ばされ、砂の上へと払い落とされていく。
完璧な解体。 残されたのは、骨が一本も残されていない、純白で柔らかな極上の焼き身だけだった。
そして――レンは、その魚の中で最も脂が乗り、一番柔らかいハラスの身を親指でそっとちぎり取ると、自らの口元へ運び――
「――ふぅ、ふぅ」
熱い身を冷ますように、二度、優しく息を吹きかけた。 そして、そのまま何のためらいもなく、アリアの唇の前へとその身を差し出したのだ。
百年前、過酷な魔境の焚き火の前で、毎夜のように繰り返されていた、あの愛しいルーティンのままに。
「……っ」
目の前に差し出された、湯気を立てる柔らかな魚の身。レンの煤けた指先。 その所作を目にした瞬間、アリアの全身に、雷に打たれたような衝撃が駆け抜けた。
(……あ……っ)
息が止まりそうだった。あの夢だ。
アルス大河の夜、焚き火の温もりの中で、魚と喧嘩して泣きそうになっていた自分に、優しく骨を外して冷まし、差し出してくれた――あの煤けた手。
目の前にいるのは、帝国を更地にする冷酷な魔王のはずなのに。
なぜ、この人はあんなに自然に、まるで何千回もそうしてきたかのように、あたしのために骨を外してくれたのか。 どうして、こんなにも愛おしそうに、慈しむような手つきで差し出してくるのか。 胸の奥が張り裂けそうなほどの甘い痛みが込み上げ、アリアの菫色の双眸が、信じられないものを見るように見開かれていた。
(第四節へ続く)
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