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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第十三話:『エングラム・メモリー / 身体の記憶』 第二節:袖口の指先と、奇妙な停戦

お詫び

13話途中なのに誤って14話をあげてました・・・

修正しておりますので、改めて2節からお楽しみください。

 小さな炎が、パチ、と爆ぜた。 立ち上る橙色の熱気が、冷え切っていた二人の間の空気をかすかに揺らす。 石灰岩の冷湿な天井から落ちる水滴が、炎の縁でジュッと微小な蒸気となって消えていく。

  煙は上層のわずかな隙間へと吸い込まれ、中州にはただ、乾いた木材が燻る素朴で温かな匂いだけが漂い始めていた。

 レンは炎の前に膝を折り、濡れた漆黒の儀仗外套を軽く払うと、感情の起伏を一切見せない横顔のまま、静かに火元を見つめ続けた。 アリアに背を向けるでもなく、かといって正面から見据えるでもない。 ただ、そこに火があるから当たり、暖を取る。それ以上の作為を微塵も感じさせない、あまりにも平然とした無防備な佇まい。

(……嘘でしょ。本当に、何もしないつもりなの……?)

 アリアは座り込んだまま、抜刀しかけていた右手をそっと柄から離した。

  敵意を向けられていないのに、こちらから斬りかかる理由を見出せない。

 何より、あの男の全身から漂う「絶対零度の静寂」は、暴力でねじ伏せようとする悪意とはあまりに対照的だった。

 冷え切った身体が、本能的に熱を求めていた。アリアは砂礫を擦るようにして、少しずつ、焚き火のそばへと身を寄せていく。炎から放たれる熱が、濡れそぼった跳躍着の表面を乾かし、凍えていた肌の毛穴をじんわりと緩めていくのが分かった。生き返るような心地よさ。

 だが――ふと顔を上げた瞬間、周囲を取り囲む漆黒の闇が、重たく視界を圧迫した。 頭上数十メートルを埋め尽くした巨石と土砂の残骸。 仲間たちの声は届かない。外の光も、風の匂いすらも完全に断たれている。 生き埋めになったという冷厳な事実が、遅れて心臓を鷲掴みにした。

(……あたし、本当に一人なんだ)

 リンの豪快な笑い声も、ルシアンの小言も、フィリアの柔らかな祈りもない。 宮廷にいた頃の息詰まる孤独とは違う。暗黒の地の底に、ただ一人生きている実感を失いそうになるような、果てしない心細さ。 震えが、寒さとは別の理由で指先へ戻ってきた。

 その時、目の前に揺らめく火の粉の向こうに、レンの濡れた黒外套の袖口が見えた。

 冷徹な魔王の衣。触れれば命を刈り取られるかもしれない漆黒の布地。 頭では分かっている。警告の鐘が脳裏で激しく鳴り響いている。 なのに――どうしてだろう。 この青年のすぐ隣にいるだけで、なぜか、帝都のどの豪奢な離宮よりも、胸の奥底が不思議なほど穏やかに澄み渡っていく。 守られているような。遠い昔、ずっと知っていた温もりの隣に、ようやく帰り着いたかのような――。

 気付けば、アリアの右手の指先が、無意識に伸びていた。

 ギュッ、と。

 アリアは、レンの濡れた黒外套の右袖の端を、小さな指先で引き絞るように掴み取っていた。

 その瞬間。 レンの背筋が、硬質な鉄の棒のようにピクリと強張った。

 青年の視線が、伏せられたまま、自らの右袖へと向けられる。 そこには、泥と水に汚れた、白く華奢な少女の小さな手が、縋るように食い込んでいた。

(……離せ)

 心の中で、そう命じればいい。 手首をわずかに返し、不可視の鋼糸を張り巡らせてその腕を払い落とせば、一瞬で拒絶できるはずだった。 触れさせてはならない。自分は西大陸を更地に均す魔王であり、この娘は討ち果たすべき偽りの勇者なのだから。

 だが――レンの右腕は、ピクリとも動かなかった。

 袖口の布地を通じて、じわりと伝わってくる少女の体温。 微かに震える指先の力加減。 暗闇の底で、一人きりで取り残されることを本能的に恐れ、誰かの温もりに縋り付かずにはいられない、痛切なまでの怯えと甘え。

 百年前、過酷な魔境の闇夜で、焚き火の明かりが弱まるたびに、同じように震える手で自分の袖をつまんで離さなかった、あの少女の温もりが―― 寸分の違いもなく、青年の凍りついた心臓を貫いていた。

(……なぜだ。なぜ、払えない……)

 レンは奥歯を噛み締め、光を反射しない漆黒の双眸をぎゅっと細めた。 拒絶できない。 百年間、一度として熱を通さなかったはずの肉体が、この少女の手のひらの温もりだけを、どうしても冷たく突き放すことができなかった。

 アリアもまた、自分が何を掴んでいるのかを自覚しながら、どうしてもその指を解くことができずにいた。

(……冷たい人なのに)

 青年の横顔を盗み見ながら、アリアの胸の奥で、切ない痛みがじんわりと広がっていく。 表情筋は死人のように動かない。言葉も、視線すら返してくれない。 それなのに、袖をつまむ自分の手を、この人は決して振り払おうとはしなかった。 拒絶されないというただそれだけの事実が、冷え切っていたアリアの心の芯を、焚き火の炎よりも深く、優しく包み込んでいく。

(この手を離したら、二度と会えなくなる気がする……)

 二人は一言も言葉を交わさなかった。 ただ、パチリ、と薪の爆ぜるかすかな音が、冷たい地下の空洞に響く。 袖口を繋ぎ止めた一つの小さな指先を起点にして、外界の誰も知らない奇妙で静謐な停戦が、二人の間にゆっくりと降りていた。

(第三節へ続く)


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