第十三話:『エングラム・メモリー / 身体の記憶』 第一節:地下の冷気と、灯る小さな火
大気が、急速に熱を奪い去っていった。
外界の光を遮断した地下空洞は、石灰岩の冷湿な気配に満たされている。
上層から流れ込んだ水滴が天井の突起を伝い、砂礫の縁へ落ちるかすかな摩擦音だけが、耳底を打っていた。 濡れそぼった跳躍着が皮膚に貼りつき、冷気が毛細血管を締め上げる。アリアの奥歯が微かに鳴り、吐き出す息が白い輪郭を結んで消えた。
自分がいま身を置く狭い砂礫の中州、そのわずか五歩ほどの先。
踏み込めば一瞬で刃が届き、相手が一歩間合いを詰めれば即座に首を刎ねられる至近の距離に、濡れそぼった黒外套の青年――レンが佇んでいた。
敵だ。
目の前にいるのは、帝国軍の巨石水門を一撃で両断し、この汽水域に災厄の泥を呼び込んだ二代目魔王。 完全な閉鎖空間。退路はなく、加勢もない。生き延びるためには、この抜刀の一瞬で間合いを詰めるしかないはずだった。
アリアは中州の湿った砂の上に膝を立て、濡れた前髪の隙間から、左腰の直剣『アルビオン』の柄へ右手を滑らせた。 だが、青年は武器を取らなかった。
立ち尽くしていたレンは、アリアの殺気に満ちた視線をただ受け止めることもなく、背後の『黒骸の断罪柱』をわずかに傾けた。
青年は静かに身をかがめると、水流によって中州へ打ち上げられていた流木の枝を、無言のまま拾い集め始めたのだ。
泥にまみれ、湿気を吸って重くなった雑木。
レンはその中から、比較的乾いた芯を持つ硬い木片だけを指先の感覚で見極め、手際よく砂の上に組み上げていく。
無駄のない、あまりにも手慣れた野営の所作。 そこに殺気は微塵もなく、敵を威圧する魔王の傲慢さすら欠片も存在しなかった。
アリアは、冷徹な戦士の眼差しで相手を睨み据えているつもりだった。
しかし、本人の自覚とは裏腹に、その薄い唇は寒さと心細さで小さくわなわなと震え、見開かれた菫色の瞳には、いまにも零れ落ちそうな涙の膜が痛々しく滲んでいた。
底知れぬ暗闇の恐怖と、頼れる仲間を失った途方もない孤独。
そして何より、目の前の青年の背中を見つめているだけで胸の奥を激しく締め付けてくる、泣き叫びたくなるほどの切なさ。
それらが濁流のように混ざり合い、少女の顔は、敵を前にした戦姫などではなく、迷子になって泣きじゃくる直前の幼子のそれへと無防備に崩れてしまっていたのだ。
(……どうして? 隙だらけじゃない……。斬りかかってこないの? あたしを、殺さないの……?)
アリアの指先が、アルビオンの革巻きの上で躊躇うように強張った。
首元の聖痕が、トクン、と熱を帯びて微かに脈打っている。
理屈では斬るべき相手なのに、木を拾い集めるその骨ばった背中を見つめているだけで、胸の奥底から理由の分からない痛痒がせり上がり、抜刀の踏み込みを縛り付けていた。
一方のレンもまた、伏せた双眸の奥で、冷え切った自問を繰り返していた。
(……敵だ。西の欺瞞が祭り上げた、次の時代の勇者のはずだ)
首を刎ねればいい。
先刻の縦穴で手を振り払い、泥の底へと沈めてしまえば、この先の更地化に立ち塞がる障害物を一つ排除できたはずだった。
それなのに、なぜ自分はこの冷たい中州で、流木の皮を剥いているのか。 濡れた服で震え、今にも泣き出しそうな目で自分を見つめてくるあの少女を前にして、なぜ、殺意の代わりに――かつて人間らしさの残っていた、あの頃の自分のようになってしまうのか。
レンは白く骨ばった右手を伸ばし、親指と人差し指の腹を合わせた。 指先から伸びた不可視の極細鋼糸が、二本の指の間で猛烈な速度で擦れ合う。 超高周波の摩擦。 火花すら散らさず、木片の隙間に押し込まれた枯草の火口が、内側から小さな煙を立ち上らせた。
レンが身を屈め、薄い唇から微かな呼気を吹きかける。 ふわりと、小さな橙色の火が灯った。
流木の隙間を舐めるように炎が広がり、パチリと爆ぜる微かな熱が、暗く湿った中州の砂礫を柔らかく照らし出す。 そのささやかな光の中に、二人の濡れた輪郭が、静かに浮かび上がっていた。
(第二節へ続く)




