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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第十二話:『濁流の底の分断』 第四節:引き裂かれた裾と、地下水脈の底

 指先が布地を捕らえた瞬間、アリアの五指に強烈な摩擦熱が走った。それは上質な夜会服のシルクなどでは断じてない。極限の海溝水圧を弾く魔獣の皮膜を、極細の繊維で緻密に織り上げた、鋼板のように重く頑強な儀仗外套の質感。 渦の吸引力に引きずり込まれまいと、アリアは全身の筋繊維に『蒼血』を沸き立たせ、その黒い裾を無我夢中で引き絞った。

 その掌から、レンの神経系へと熱が奔流となって逆流した。百年間、一度として触れることのなかった、生きた人間の剥き出しの体温。 絶対零度の氷晶宮で、二度と温もるはずのない白銀の亡骸を前に立ち尽くし続けてきた青年の中枢へ、泥に塗れた少女の指先が、暴力的なまでの生体熱を叩き込んだのだ。 しかもその熱は、かつて過酷な魔境で焚き火を囲み、自らの不器用な手を包み込んで「あったかい手」と笑いかけてくれた、あの最愛の少女の魂の波長と寸分の狂いもなく同期していた。

(……嘘だろ……クレア……? お前……なのか……?)

 百年間、死人の能面として凍結させていた青年の胸の奥底で、固く閉ざされていたはずの記憶の氷壁が、音を立てて激しく軋みを上げた。 あり得ないはずだった。彼女の遺体は、いまも東の果て、永久氷晶の中で眠り続けている。魂などとうに輪廻へと還り、二度と温もりを取り戻すことはないと、誰よりも自分自身が絶望とともに知悉していたはずだった。 それなのに――なぜ、この掌から伝わる熱は、あの日のクレアそのものなのか。なぜ、泣き出しそうな瞳で自分に縋り付いてくるのか。

 青年の思考に生じた、致命的な一瞬の空白。 その激しい動揺が、水底の巨大閉塞弁と結ばれていた糸の張力を狂わせた。 均衡を失った数百トンの逆流水圧が、土台となっていた岩盤の亀裂を一気に押し広げる。

 支えを失った岩の突端が、轟音とともに真っ二つにへし折れた。 足場ごと、二人の身体が重力を喪失し、暗黒の縦穴へと真っ逆さまに滑落していく。

 落ちていく視界の中で、レンの思考は冷徹に状況を演算していた。 背後の『黒骸の断罪柱』から不可視の糸を打ち出し、上層の岩肌にアンカーを掛ければ、自らだけが空中で姿勢を立て直して生還することは造作もない。あるいは、外套を掴むその細い腕を切り離し、落下傘の要領で離脱することすら可能だった。 だが、巻き上がる激流の飛沫の隙間から、必死に自分を見上げる少女の顔が見えた。

 水に濡れて額に張り付いた白銀の髪。 怯えを押し殺し、生き抜こうと歯を食いしばる菫色の瞳。 首元で痛烈に脈打つ、かつて自分も宿していた七色の聖痕。

 ――切れなかった。 その手を払い落とし、泥の底へ沈めることだけは、たとえ世界を更地にする魔王へと反転していようとも、青年の魂の芯が絶対に拒絶した。

 レンは無言のまま、十指の糸を反転させた。 アンカーを打つためではない。 真上から降り注ぐ数千トンの泥水と巨石の破片を、背後の断罪柱の装甲で受け止め、少女の華奢な頭上から直撃の水圧を逸らすための障壁として。 激しい水煙と激流の質量が全身を叩き、アリアの意識は、冷たい闇の中へと急速に呑み込まれていった。

 ◇

 頬を打つ冷たい滴の感触で、アリアは息を吹き返した。

  「……っ、げほっ……! こほっ、う……!」

 肺腑に溜まりかけた泥水を吐き出し、激しく咳き込みながら四つん両手をついて上体を起こす。

 呼吸のたびに喉の奥が焼けるように熱い。だが、全身の骨格や内臓を確認するが、不思議と骨折や致命的な打撲の痛みはなかった。あれだけの高さから激流とともに縦穴を滑落したというのに、叩きつけるような水圧の直撃を何者かに庇われたかのように、奇跡的に五体は無傷のまま保たれていたのだ。 新調された『黒潮の跳躍軽装』はぐっしょりと水を吸っていたが、互助会が仕立てた耐水革のおかげで、重たく肌にまとわりつくことはない。右太ももの白銀短剣、そして左腰の『蒼水直剣・アルビオン』も、脱落することなくホルダーに収まっている。

 アリアは荒い呼吸を整えながら、周囲を見渡した。 そこは、外界の光が一切届かない、太古の巨石が天井を閉ざした巨大な地下空洞だった。

 頭上数十メートルには、崩落した土砂と巨石がぎっしりと詰まり、地上のエスチュアリーへと繋がっていた縦穴は完全に塞がれている。 仲間たちの声も、地上の喧騒も、もはや何一つ届かない。ただ、遠くの暗渠から流れ落ちる冷たい水の反響音だけが、黒々とした石灰岩の壁に低く木霊していた。

 自分は今、黒い水たまりに囲まれた、冷たい砂礫の中州に横たわっている。 そして――アリアの視線が、わずか五歩ほど先の暗がりに捉えられた瞬間、喉の呼吸が凍りついた。

 そこに、立っていた。

 ずぶ濡れの漆黒の儀仗外套を纏い、砂礫の上に音もなく佇む影。

 濡れた黒髪の毛先から、冷たい水滴をポタリ、ポタリと中州の砂へ落としながら、その青年――二代目魔王レンは、感情の一切を削ぎ落とした「死人の能面」のまま、静かにアリアを見下ろしていた。

 身長は170cm半ばほど。 筋骨隆々の巨漢でもなければ、血に飢えた異形の怪物でもない。

 どこか線が細く、過酷な現場をくぐり抜けてきた職人のような、引き締まった体躯。 だが、その佇まいが放つ絶対零度の静寂は、この地下空洞全体の空気を肌が痛むほどに冷え切らせていた。

 背後には、重力を歪めて浮遊する『黒骸(コキュートス)の断罪柱(オベリスク)』。 柱の奥から、エルの遺した魔導リールが、チチチ……、チチチ……と、乾いた金属クリック音を規則正しく刻み続けている。 自由な青年の胸元――漆黒の装束の隙間から、あの息を呑むほど透き通る『真紅の魔核(ブラッド・ステラ)』が、暗闇の中で痛切な紅の燐光を放っていた。

(……この人が、魔王……)

 アリアの背筋を、冷たい汗が伝い落ちた。 完全に退路のない、外界から隔絶された地下の密室。 自分は今、国家を更地に均すと宣戦布告した絶対の捕食者と、たった二人きりで対峙しているのだ。

 腰のアルビオンの柄に指を掛けようとした。戦わなければならない。敵なのだから、武器を抜かなければならないはずだった。 だが――どうしても、その切っ先を向ける腕が動かなかった。 見下ろしてくる青年の瞳。 光を一切反射しない漆黒の双眸孔の奥底に宿っていたのは、冷酷な殺意などではなかった。 それは、世界中を凍りつかせ、すべてを諦め果てた者だけが湛える、底知れぬ孤独と哀愁。 なぜかその無機質な視線に射抜かれているだけで、アリアの胸の奥が張り裂けそうなほど締め付けられ、喉の奥がツンと熱くなってしまう。

 一方のレンもまた、ピクリとも身じろぎをせず、濡れた砂の上に座り込む少女を見据えていた。 感情を殺したはずの脳裏に、百年間決して消えることのなかった激しい不協和音の残像が渦を巻いている。

 目の前で肩を震わせ、今にも泣きそうな菫色の瞳で自分を見つめ返してくる、白銀の髪の少女。

 その首元には、かつて自分が胸を張って世界を救おうとしていた日々の、あの懐かしい聖痕が淡く光っていた。

 敵だった。帝国が用意した、次の世代の勇者のはずだった。

 首を刎ねるべき障害物であり、迷わず排除すべき西の亡霊の神輿。

 それなのに――なぜ、この少女はあんな顔をして自分を見るのか。

 なぜ、憎悪ではなく、迷子のように痛ましい眼差しを向けてくるのか。

 言葉は、ない。

 暗闇の地下水脈に響くのは、断罪柱のリールが刻む冷徹なクリック音と、中州の砂に落ちる冷たい水滴の音だけだった。 百年の断絶と因果を越え、二人の運命が、外界の誰も知らぬ地の底で、静かに交錯しようとしていた。

(第十二話 完 / 第十三話『エングラム・メモリー / 身体の記憶』へ続く)


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