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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第十二話:『濁流の底の分断』 第三節:液状化の干潟と、カルテットの分断

大地の奥底からせり上がった水圧が、干潟の泥土を限界まで押し広げていた。

軍事堤防の分厚い巨石が崩れ去ったことで、外郭の澪筋へと一気に雪崩れ込んできた数百万トンの高濃度排液。その猛烈な質量を受け止めた粘土層は、土粒子を繋ぎ止めていた摩擦力を一瞬で喪失していた。間隙水圧の上昇に伴う、急速な液状化現象。 先刻まで硬く引き締まっていたはずの地盤が、まるで沸き立つ泥のスープのように粘性を失い、足元から支持力を奪っていく。

「足を取られるなッ! 桟橋の親柱が保たないよ!」

ガラの鋭い怒号が飛ぶと同時に、互助会の舟を係留していた太い木杭が、自重に耐えかねて斜めへと大きく傾いだ。 避難路へ殺到する民衆の足が、膝の深さまで重たい泥水の中へと沈み込んでいく。荷物を抱えたまま身動きを封じられた若衆の頭上へ、上流から押し流されてきた監視砦の丸太の残骸が、濁流の勢いに乗って容赦なく迫っていた。

「フィリア、結界を! ルシアン、足場の確保を頼むわ!」

アリアの叫びが飛ぶより早く、三人はすでに動いていた。

「――主の慈雨、濁りなき境界をここに!」

フィリアが両手で掲げたのは、先刻授かったばかりの『神樹の白木聖杖』。 先端の二股に収まる偏光クリスタルが、息を呑むほど透き通る若草色の燐光を放ち、周囲数十メートルを覆う半球状の【広域神聖結界】が瞬時に展開された。 飛散していた高濃度の有毒排液が光の幕に触れた瞬間、猛毒の刺激臭と腐食性が綺麗に中和され、無害な水蒸気となって霧散していく。 大聖堂の抽出器に命を削られていた頃のような、頭蓋を締め付ける激痛も吐血もない。神樹の沈木が反動の乱れを大地へと逃がし、少女の呼吸は驚くほど静かに保たれていた。

「……僕に指示を出さないでください、すでに着手しています!」

ルシアンが青革の魔導書をめくり、左手の魔導杖を泥濘の表面へ向けて鋭く薙ぎ払った。 放たれたのは、土属性の急速結晶化式。 「――【地脈凝固・即席硬化陣】!」 液状化してドロドロに泡立っていた泥土から、術式の力学によって水分が一瞬で強制排出される。 泥の上に現れたのは、厚さ三十センチ、直径数メートルに及ぶ頑丈な石板の浮島――人が駆け抜けられる飛び石の列だった。

「目に見える石板の上を走りなさい! 一般人の靴底でも滑らないよう表面を粗く加工してあります! 早く高台へ!」

「へへっ、話が早くて助かるぜ!」

泥濘の抵抗を『瞬歩』の生体気流で完全に無力化したリンが、水面を跳ねるように低空を滑走した。 身動きの取れなくなっていた若衆二人の襟首を両腕で鷲掴みにし、怪力一本で引っこ抜くと、ルシアンが錬成した石板の上へ力任せに放り出す。

「ほら、さっさと走れ! 後ろを振り返るな!」

カルテットの機能美が、泥濘の混乱を完璧に押し留めていた。 だが、前線で避難路の正面に立っていたアリアの前には、なおも崩壊した巨石構造物の破片が津波のように押し寄せていた。

「通すわけ、ないでしょ……ッ!」

アリアは低く身を沈め、腰の『蒼水直剣・アルビオン』を一閃させた。 刀身の周囲を螺旋状に包む清冽な水膜が、激流の圧力と正面から衝突する。 流体抵抗の完全なゼロ化。 押し寄せていた数トンの巨木が、まるで柔らかい果実でも断ち切るかのように、抵抗なく真っ二つに両断されて左右へと弾け飛んだ。 新調された跳躍着の軽快さ、そしてアルビオンの吸い付くような刃筋。 これなら防ぎ切れる――そう確信したアリアの足元を、世界の理を覆す絶対の暴力が襲った。

水門の頂に立っていた黒髪の青年――レンが、右手の十指を干潟の深奥へと振り下ろしたのだ。

名乗りも、怒号もない。 ただ、予定されていた排水バイパスを掘削する土木作業として。 放たれた不可視の魔鋼糸が、干潟の基盤岩を深さ数十メートルにわたって一文字にスライスした。 水平に両断された大地の裂け目の底から、太古の地下暗渠水脈が巨大な空洞となって露出し、地表の濁流と泥土が、津波のような勢いでその縦穴へと一気に吸い込まれ始めたのだ。

大地の崩落。 直径数十メートルに及ぶ、凄まじい泥の吸い込み渦が発生した。

「――っ、しまっ……!?」

激流の猛烈な吸引力に耐えきれず、アリアの立っていた前線の岩盤が、本土から完全に引き千切られた。 足場ごと、巨大な泥の渦潮の中央へと引きずり込まれていく。

「アリアッ!!」

リンが叫び、手を伸ばして泥を蹴るが、足元の土石が次々と陥没して前進を阻まれる。 ルシアンが咄嗟に魔導書から射出した風のワイヤーも、数百トンの水圧の前に一瞬で引き千切られた。 フィリアの悲鳴も、濁流が大地を呑み込む重低音の前にかき消えていく。

仲間たちが、急速に遠ざかっていく。 崩れ落ちる岩盤とともに大渦の深淵へと滑落していくアリアの視界のすぐ先に、水流の要所を押さえるため岩場の突端に立っていた、あの漆黒の青年の足元と、風にたなびく黒外套の裾が飛び込んできた。

その時―― 突端に立つレンの知覚もまた、自らの真下へと急速に迫る質量の接近を捉えていた。

青年は地下暗渠の底深く、水流を塞いでいた太古の巨大閉塞弁を自らの十指から伸ばした極細魔鋼糸で絡め取り、背後の『黒骸の断罪柱』を支点にして、逆流する数百トンの水圧に抗いながら力任せに引き抜いている真っ最中だった。 アングラーとしての限界ファイト。 糸にかかる張力(テンション)は極限まで張り詰め、指先ひとつ、重心の傾きひとつ乱せば、引き抜いていた巨石弁が水圧で跳ね返り、排水バイパス全体が破綻しかねない硬直の瞬間。

知覚の端、崩れゆく岩盤に乗って自らの足元へ滑落してくる影。 普段のレンであれば、指先をわずかに弾き、不可視の糸でその障害物をコンマ一秒のうちに両断して排除していただろう。

だが――視界に入ったのは、魔獣でも帝国の兵でもなく、泥水に呑まれかけた小柄な少女の姿だった。 民を殺さぬという絶対の冷徹。その掟が、反射的な迎撃の選択肢を瞬時に青年の脳裏から消し去った。

ならば、糸を切り、自ら後ろへ跳躍して回避するか。 そう思考が傾いた刹那だった。 巻き上がる水飛沫の向こう側。 泥にまみれ、必死に手を伸ばしてきた少女の姿が、レンの双眸にあまりにも鮮烈に焼き付けられた。

月光をそのまま紡いだような、乱れた白銀の髪。

朝焼けを宿した、濡れた菫色の双眸。

そして――首元の皮膚の奥で、かつて青年自身も宿していた太古の光――『原初の勇者の聖痕』が、激流の中で痛烈に脈動していた。

「……っ!?」

百年間、一度として動くことのなかったレンの表情筋が、凍りついたように硬直した。

感情を削ぎ落とした死人の能面に、走馬灯のような戦慄が突き抜ける。

あり得ないはずの面影。

永久凍土の氷の中で眠らせてきたはずの少女の色彩が、幻影のように網膜を射抜いたのだ。

神域の判断速度を誇る青年の思考が、そのコンマ一秒、完全に停止した。 そしてその一瞬の空白へ、必死に伸ばされたアリアの指先が、レンの黒外套の裾へと力任せに食い込んだ。

(第四節へ続く)


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