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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第十二話:『濁流の底の分断』 第二節:砕波の海獣と、黒き元栓

 船倉を駆け上がり、甲板の敷板を蹴り抜いて外郭桟橋へと飛び出した四人の肺腑を、重金属と濃縮塩分の冷たい刺激臭が貫いた。 灰色の空の下、東の水平線を埋め尽くしていたのは、ポルト・ヴェルデ境界水門の崩落跡から押し寄せる、高さ十メートルに及ぶ高濃度排液の黒朱の段波だった。

 先刻の先遣隊が投下した小規模な燃焼弾とは比較にならない、数百万トンの質量を伴った濁流の壁。 だが、その奔流が向かっていたのは、貧しい人々が身を寄せる浮き小屋の密集区画ではなかった。

「違う、こっちじゃない!」

 甲板の欄干に手をかけたガラが、煙管を噛み締めて叫んだ。

「あいつらが狙っているのは、帝国軍がうちのシマを監視するために建てた石造りの砦と、神樹のヘドロを干潟に押し留めていた軍事防潮堤の『元栓』だ!」

 見下ろす水路の先、濁流の先頭を切り裂いて現れたのは、全身を藍黒色の強靭なキチン質甲殻で覆った屈強な巨漢――潮殻族の突撃隊長、カルノスだった。

  男は手綱を握り、背丈の三倍を超える巨大な海生甲殻獣の巨躯を、帝国軍の監視砦の石垣へと正面から叩きつけた。 何重にも組まれた厚さ二メートルの防壁が、衝撃に耐えきれず粉々に砕け散り、濁流の中へと崩落していく。 同時に、水面下の深い暗がりから、漆黒の蛇尾をしなやかにくねらせた淵鱗族ナディアの工作隊が浮上した。彼女らが口唇から放った青白い酸毒の飛沫が、軍事水門を固定していた極太の鉄杭を一瞬で融解させ、構造物の接合部を綺麗に両断していく。

 破壊は苛烈を極めていたが、無差別な殺戮では決してなかった。

 水門の基礎がへし折られたことで、逆流してきた黒い泥水は互助会の居住区を避けるように、外郭の排水深溝へと計算尽くで誘導されていたのだ。そして――砕け散る巨石堤防の頂点。 激しく吹き上がる黒い飛沫を浴びながら、逆光の中に音もなく佇む一つの影があった。

 漆黒の儀仗外套を潮風に翻し、微動だにせず立ち尽くす一人の青年。

  その肉体は二十歳を迎えたあの日の姿のまま完全に凍結し、白皙の顔貌には、怒りも憎悪も嘲笑すら浮かんでいない。 感情の起伏を示す表情筋の動きが完全に消失した、絶対零度の「死人の能面」。

  ただ胸元の心臓の真上にだけ、暗雲の下で息を呑むほど透き通る、痛切な真紅の宝石――『真紅の魔核』が、静かに、だが世界の誰よりも純粋な光を宿して脈動していた。

 背後には、重力を歪めて一本の漆黒の重金属柱――『黒骸の断罪柱』が自律浮遊している。

  その柱の深奥から、規則正しい金属の回転音が風に乗って落ちてきた。 チチチ……、チチチ……。 青年の心臓から漏れ出る世界を呑み込みかねない怨念の出力を、極限のドラグ機構によって冷徹に調律し続けている、乾いたクリック音。

「……な、何だ、あれは……」

 ルシアンが魔導眼鏡の単眼照準器を展開したまま、青白い顔で後退った。 レンズの内側に走る数理モデルが激しく乱れ、警告の赤い光が明滅を繰り返している。

「術式の励起反応がゼロ……!? 魔力の詠唱も、幾何学陣の展開も一切観測できません! 術式の構造そのものが、僕の知る学術理論の枠組みに存在しない……!」

「違う、術じゃねえ……!」

 隣で拳を構えたリンの全身から、かつて見たこともないほど濃密な青白い闘気――『蒼気功』が噴き上がっていた。 だが、その引き締まった両肩は、武芸者としての本能的な戦慄によって微かに震えている。 「魔力を練る前兆が欠片もねえんだ。それなのに……あの男の全身の筋腱と、あの十指の爪の先にだけ、常人の理解を完全に超えた生体マナが、絶対零度のまま淀みなく循環してやがる……! あいつ、魔導士なんかじゃねえ……何万回も修羅場を越えて、肉体の構造そのものを極限まで研ぎ澄まし抜いた、本物の現場の化け物だぞ……ッ!」

 フィリアは新調した白木の聖杖を両手で強く抱きしめ、エメラルドの瞳を潤ませてその影を見上げていた。

「あの方の胸の光……。とても冷たくて、恐ろしいのに……どうしてでしょう。胸が締め付けられるほどに哀しい祈りが、風に乗って流れてきます……」

 三人の言葉が、遠い雑音のようにアリアの耳を通り過ぎていった。アリアは、新調した直剣『アルビオン』のレザーグリップに右手をかけたまま、息をすることすら忘れてその青年の姿を見つめていた。 あの男が、西の大陸を更地に均すと宣戦布告した二代目魔王。 理屈では分かっている。敵であり、圧倒的な侵略者のはずだった。

 なのに――どうして。 首元の皮膚の奥で、七色の聖痕が、トクン、と熱を帯びて激しく疼いていた。 胸の奥底から、脈絡もなく込み上げてくる強烈な既視感。 そして、喉の奥を焼き焦がすような、理由の分からない切なさと悲哀。

 アリアの薄い唇が、震えながら小さく開かれた。 いつもなら勝ち気な光を宿す菫色の双眸が、いまにも零れ落ちそうな大粒の涙をいっぱいに溜め、迷子になった子供のように痛切に揺れている。 ぎゅっと眉尻を下げ、泣き出しそうなほど悲痛に歪むその顔は、冷徹な戦姫のものでは到底なかった。

(……誰……? なんで……?)

 黒髪の青年は、一度としてこちらを見ようとはしなかった。 ただ淡々と、障害物を片付けるように指先を動かしている。 その横顔は、恐ろしいほどに冷え切っているのに――見つめているだけで、なぜか自分の胸の奥が張り裂けそうに苦しくて、理由もなく涙が頬を伝いそうになる。

  アルス大河の船上で見た、あの夢の記憶。

 焚き火の温もりの中で、不器用に笑いながら魚の骨を外してくれた、あの優しい手の主と、目の前に立つ冷酷な魔王の影が、頭の中で激しく重なり合おうとしては、不協和音を立てて反発していた。

 その迷いと思案を、物理的な世界の崩壊が容赦なく引き裂いた。水門の頂で、青年が手首をわずかに返した。 音はなかった。 ただ、青年の十指から放たれた目に見えぬ極細の魔鋼糸が、空間そのものを切り裂くように奔流となって走り抜けたのだ。 川幅数百メートルに及ぶ帝国軍の軍事防潮堤が、まるで薄い紙を切り落とすかのように、水平の直線を描いて寸分の抵抗もなく真っ二つにスライスされた。

 要石を失った数万トンの巨石構造物が、重力を失ったようにメア・アビスの濁流へと滑落していく。 堰き止められていた莫大な水圧が一気に解放され、黒い激流がエスチュアリーの外郭澪筋へと雪崩れ込んだ。 その猛烈な水圧の直撃を受け、干潟の泥濘が一気に飽和状態へと達した。 大地に含まれていた水分が逃げ場を失い、足元の泥土全体が波打つように流動化を始める――大規模な液状化現象の胎動が、足元の桟橋を根こそぎ軋ませていた。

(第三節へ続く)


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