第十二話:『濁流の底の分断』第一節:竜骨館の仕立て直しと、白木の杖
先遣隊を退けた干潟の熱気が、潮風とともに冷え込み始めていた。打ち捨てられた灰翅族の投下鉱石がくすぶり、微かな煙を立ち上らせている。だが、その灰色の空の下で、まつろわぬ民の視線は完全に塗り替えられていた。
「おい、本当に追い払っちまったぞ……!」 「うちのシマを守り抜いたんだ!」
泥濘のあちこちで、若衆たちが泥にまみれた鯨打ち銛を掲げて肩を組み合い、咆哮のような歓声を上げている。命を救われた母親たちが子供を抱きしめて涙を拭い、老いた漁師たちが互いの無事を確かめ合って固く拳を合わせる。守られるだけの弱者から、自らの手でこの泥濘を守り抜いた者たちへ。干潟の隅々まで広がった達成感と誇らしげな笑顔の熱気に触れ、アリアたち四人の口元にも、自然と誇らしく温かな笑みがこぼれていた。
その歓喜の輪を抜け、竜骨館の舳先からガラのしゃがれた声が落ちてきた。
「浮かれるのはそこまでだ、若衆。……おい、お前さんたち。ついてきな」
案内されたのは、竜骨館の最も深い階層――沈没した古代巨船の背骨をそのまま天井の梁として渡した、薄暗く広大な船倉だった。魚油のランプが柔らかな橙色の光を投げかけ、壁一面には所狭しと鯨打ちの銛、鞣された水生獣の革、腱ワイヤーの束が整然と並んでいる。
ガラは頑丈な丸太の卓へ腰を下ろし、煙管の煙をふわりと吐き出した。
「さて、さっきは勢いで協力してやると言ったがね。うちは慈善事業じゃない。まつろわぬ民の掟は『契約の絶対厳守』だ。互いの利害をきっちり擦り合わせようじゃないかい」
アリアは頷き、一歩前へ進み出た。
「望むところよ。あたしたちが欲しいのは三つ。追手を撒くための安全な潜伏拠点、補給物資と食料の調達、そして――海の手合いに立ち向かうための、まともな装備よ」
アリアは苦笑交じりに自らの肩口を指差した。帝都から逃れて以来、切り裂いたドレスの残骸に応急処置の布を巻きつけただけの姿は、さすがに限界を迎えていた。
「ふん、察しがいいね。なら、こちらの要求は一つだ」
ガラは煙管の吸い口で、アリアたち四人を順番に指した。
「あんたたちの飛び抜けた個体戦闘力と、その小娘の毒素を遮断する結界だ。このエスチュアリーが魔王軍の濁流に呑まれるのを防ぐための『盾』になってほしいのさ。……前線で戦う仲間には、うちのシマが持てる最高の補給を回してやる。異存はないね?」
「ええ、成立ね。頼りにしてるわ、頭目」
アリアが手を差し出すと、ガラはそのタコだらけの掌を力強く握り返した。
「話が決まりゃ早い。……おいアリア、いつまでそのボロ雑巾を着てんだい。戦う前に風邪を引いちまうよ。まずは身繕いだ」
ガラは作業台の奥から、無造作に一抱えの布地と革装具を引っ張り出し、作業台の上へ放り出した。
「ほら、うちの仕立て屋が誂えた水夫の跳躍着だ。……そこの麻布の陰で着替えてきな」
「助かるわ!」
アリアは革束を抱え、更衣用の衝立の奥へと駆け込んだ。
布地が擦れ合う小気味よい摩擦音と、バックルが噛み合う硬質な金属音が数度。
やがて、麻布を勢いよく跳ね除けて飛び出してきたその姿に、作業台の前にいた全員の目が丸く見開かれた。
「――軽い! これならいくらでも跳べるわ!」
アリアは両手を左右に大きく広げ、満面の笑みを咲かせながら、甲板の上を思い切り飛び跳ねてみせた。
宮廷の窮屈なコルセットも、足首を絡め取っていたシルクの残骸も、もはや欠片すら残っていない。
身に纏っているのは、深藍とオフホワイトのツートンカラーで仕立てられた、軽量のフード付きショートジャケット。引き締まったウエストと、日々の素振りで鍛え抜かれたしなやかな腹筋が惜しげもなく覗いている。 下衣には、跳躍の機動性を極限まで高めた白のショートパンツと、二重の革ベルト。 そして右太ももには、あの儀礼用白銀短剣が専用の革ホルダーへとぴったりと収められ、足元には干潟の泥をものともしない鋲打ちのレースアップタクティカルブーツが、力強く船板を踏みしめていた。
ポニーテールを揺らし、くるりと風を孕んで一回転する少女の姿は、神話の絵画に押し込められていた皇女などではなく、まさに泥濘の空へと飛び立つ自由な風そのものだった。
「へへっ! サマになってんじゃねえか、アリア!」
真っ先に吹き出したのはリンだった。野生児の少女は八重歯を覗かせてニシシと笑うと、着替えたばかりのアリアの細い背中を景気よくバシィンと叩いた。
「ようっと、あたしの隣に立つ戦士らしい面構えになったぜ!」
「ちょ……痛いってばリン! せっかくいい気分だったのに!」 「痛えのは生きてる証拠だろ!」
「……だ、大体ですね、殿下ッ!」
背後から、裏返った青年の悲鳴が割り込んだ。 ルシアンだった。
青年は青革の魔導書を胸元に抱え込み、視線のやり場に困り果てたように天井の梁を凝視しながら、首筋から耳たぶの先まで沸騰したように真っ赤に染め上げていた。震える指先で銀縁眼鏡を押し上げるが、動揺は隠しようもない。
「な、何ですかその破廉恥極まりない露出度は! 動きやすさは認めますが、皇女としての威厳という概念はどこへ消滅したのですか! 僕の視界の安全係数が完全に破綻しています!」
「何言ってんのよ嫌味眼鏡! 命懸けで戦うのに、体裁なんて気にしてられるわけないでしょ!」
アリアが腰に手を当ててケロッと言い放つと、作業台の脇で控えめに手を合わせていたフィリアから、鈴を転がすような笑い声が零れた。
「ふふっ……とってもお似合いです、アリア様。青い海を渡る、風の妖精さんみたいです……」
「妖精ってガラじゃないけど……ありがとう、フィリア!」
アリアが相好を崩すと、ガラが煙管の煙をふわりと吐き出しながら、棚の奥へと歩み寄った。
「やれやれ、賑やかなガキ共だね。……おい、お嬢ちゃん。次はあんただ」
ガラが布に包んで取り出してきたのは、曲がりくねった一本の木材だった。長さはフィリアの背丈ほど。装飾らしい装飾はなく、自然の枝振りを活かした滑らかな白木の杖。先端が若木の枝のように二股に分かれ、静かに佇んでいる。
「大聖堂の小娘にゃ、安っぽい流木に見えるかい? ……そいつはね、大河の上流から流れてきて干潟の澪筋に沈んでいた、神樹の沈木をうちの爺さんが削り出した代物さ」
「神樹の……沈木……?」
フィリアはおずおずと両手を伸ばし、その白木を受け取った。掌に触れた瞬間、少女の双眸が息を呑むように見開かれた。 冷たさはない。荒削りに見える木肌の奥から、大地の底を流れる清らかな水のような、温かく穏やかな脈動が伝わってくる。 フィリアは胸元に提げていた小さな偏光クリスタルを取り外すと、杖の先端、二股に分かれた枝の窪みへとそっと添えた。
微かな摩擦音とともに、鉱石は吸い込まれるように木肌の隙間へと収まった。 その刹那―― 杖全体を、若草色の淡く清冽な燐光がすうっと駆け抜けた。 それは大聖堂の抽出器のような暴力的な吸い上げではなかった。 神樹本来の強靭な生体繊維が、フィリアの体内を巡る過敏なマナを優しく受け止め、自然な流水のように整流していく。
「……あ……」
フィリアの薄い唇から、柔らかな吐息が漏れた。
「不思議です……。いつもなら、結界を紡ぐたびに頭の奥が締め付けられるように痛むのに……この杖を通すと、胸の奥の泉が、静かに澄んでいくように巡ります……」
過酷な生贄として、痛みに耐えることだけを強いられてきた少女。
その瞳に大粒の涙が浮かび、フィリアは白木の杖をぎゅっと抱きしめると、ガラへ向けて深々と頭を下げた。
「ありがとうございます……! 大切に、大切に使わせていただきます……!」
「礼なんざいいよ。……さて、最後はこれだ」
ガラは船倉の床板を足先で蹴り上げ、隠し金庫となっていた頑丈な鉄張りの木箱を露出させた。腰から外した真鍮の重い鍵を差し込み、軋み音とともに蓋を押し開く。中から引き揚げられたのは、深い群青色の耐水レザーで包まれた、一振りの両刃直剣だった。
「短剣一本で飛び回る度胸は認めるがね。海の手合いを相手にするにゃ、いかんせん間合いが足りまい」 差し出された鞘を、アリアは息を詰めて受け取った。
ずしりと、腕を軋ませるほどの重量。普通の鋼鉄ではない。
高密度の深海鉱石を幾重にも鍛え上げた、常人であれば両手で構えることすら覚束ないほどの鉄塊の質量。
「うちの先代がメア・アビスの海底から引き揚げてね。筋の通った奴にしか抜かせねえって、ずっと鍵をかけてた代物さ。……銘は『アルビオン』。潮穿ちの剣だよ」
アリアは唾を飲み込み、握りに巻かれたダークネイビーの革を右手の指先で包み込んだ。
そして――皮膚の下を巡る『蒼血』を、柄へとわずかに通す。
その瞬間、重力の法則が音もなく崩壊した。刃の中央に刻まれた極細の溝に青白い光の奔流が走り、鉛のように重かった刀身が、羽毛のように手元へと吸い付いたのだ。 シャリ、と。滑らかな摩擦音を残し、白銀の刀身が鞘を滑り出た。刃渡り八十センチ。プラチナシルバーの美しい地金の上を、幾重にも重なる青い波紋が走っている。そして刀身の周囲には、清冽な水膜が螺旋を描くように纏わりつき、微細な光の飛沫を空気中へと放ち始めた。 左腰には新調されたアルビオンの革鞘、右太ももには慣れ親しんだ白銀短剣。 間合いを支配する直剣と、急所を抉る短剣。 完璧な二刀の調和をその身に宿し、アリアの菫色の双眸に、戦士としての鋭利な光が灯った。
「……すごい。吸い付くみたいに、あたしの血と呼吸に合わせてくれる……!」
「へっ、やっぱりね。そいつはお前の血を待ってたのさ」
ガラは満足そうに口角を吊り上げ、煙管の灰を木鉢へトントンと落とした。 ふと、その皺の刻まれた瞳が、遠い過去を見つめるように細められる。
「……百年前もそうだったよ。帝国のお偉いさん方は、金ピカの騎士様が世界を救ったとお伽話で教えてるんだろうがね。あんなのは真っ赤な嘘さ」
ガラの静かな声が、薄暗い船倉に低く木霊した。
「あたしのばあさん――先々代の頭目から聞かされた話だよ。百年前、世界を救っちまった本物の勇者はね……この干潟で泥水をすすりながら、潮の脈動を指先ひとつで読み切り、並ぶ者のない神業で獲物を仕留めていた、うちのシマ出身の貧乏釣り師だったんだ。……まあ、釣った魚の小骨を外すのだけが無駄に上手い、お人好しの阿呆でもあったらしいがね」
その言葉が落ちた瞬間。アリアの心臓が、トクンと激しく跳ね上がった。
神業の釣り師。
そして、魚の、小骨。 脳裏をよぎったのは、アルス大河の船上で微睡んだ時に見た、あの鮮烈な夢の情景だった。
温かな焚き火の爆ぜる音。
頑丈な網を前に呆れ顔で笑う大男と眼鏡の女性。
そして――目の前に、丁寧に小骨を外した白身魚の焼き身を、フーフーと冷まして差し出してくれた、煤で汚れた優しい手。
(……嘘。あの夢の男の人……この干潟の、人だったの……? 彼が、その勇者……?)
思考が急速に加速していく。
だが、教会の神話で語り継がれる「初代勇者」は、神樹の託宣を受け、黄金の鎧に身を包んだ宮廷の正統騎士のはずだった。それなのに、なぜガラの語る勇者は、この泥濘で魚を追っていた名もなき平民なのか。そしてなぜ、自分はその男の記憶を、まるで自らの体験のように懐かしく覚えているのか――。
謎の糸が絡まり合い、アリアが更なる思案の深淵へ踏み込もうとした、まさにその時だった。 竜骨館の船底を支える巨大な梁が、軋んだ悲鳴を上げた。前触れのない激震。水深数十メートルの水圧が急激に跳ね上がり、分厚い船底の板材を直接突き上げるような凄まじい衝撃が、地下船倉全体を襲ったのだ。吊り下げられていた魚油ランプが一斉に大きく弧を描き、壁の装甲板へ激突して火の粉を散らす。
『――頭目ッ! 外だ、水門がッ!!』
船倉の階段を転がり落ちてきた見張りの若衆が、血相を変えて絶叫した。
『ポルト・ヴェルデの瓦礫の向こうから……海獣の群れと、黒い津波が押し寄せてきやがったッ!!』
思考の糸は無残に引き千切られた。 東の海の底から、世界を均す本物の災厄が、いま牙を剥こうとしていた。
(第二節へ続く)
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アリア新装備のイメージイラストです。




