第十一話:『灰色の弾幕と、白銀の太刀筋』第三節:蕾の切っ先と、灰色の墜落
上空の黒煙を切り裂き、大気を根こそぎ押し潰すような凄まじい重圧が降り注いだ。暗雲の裂け目から現れたのは、部下たちをすべて泥濘へと沈められた灰翅族先遣隊長。
全長四メートルに迫るその巨躯は、黒朱の翼膜を限界まで広げたのち、矢の形へと鋭くすぼめた。大気との猛烈な摩擦熱によって羽毛の縁が赤熱し、先端から放たれる熱波が視界を陽炎のように歪ませる。重力加速度と自らの推進力を一点に束ねた、絶対の質量による急降下特攻。その鉄嘴が狙い定めていたのは――未だ広域防壁を維持し続けるフィリア、ただ一点だった。
「ルシアン、リン! あたしを跳ばしなさい!」
アリアの鋭利な声に、二人の身体は思考よりも早く動いていた。
「跳びなさい、殿下ッ! 垂直ベクトル、最大出力を合わせます!」
ルシアンが魔導書を両手で押し開き、魔導杖の切っ先を桟橋の敷板へと突き立てた。青白い数理陣が床板の木目に沿って一瞬で走り抜け、大気中の空気を極限まで圧縮した上昇噴流――【第十二連鎖・指向性気流噴射】が、アリアの靴底の直下から天を衝くように吹き荒れた。
「アリア、ぶちかましなッ!!」
横から身を滑り込ませたリンが、屈強な両掌でアリアの踏み込みを支え、強靭な背筋のバネで一気に直上へと押し上げた。
二重の加速を受けたアリアの身体は、重力を置き去りにし、白銀の弾丸となって天空へと撃ち出された。
急上昇する視界の先、目も眩むような速度で迫り来る灼熱の鉤爪。 熱風がアリアの前髪を激しく掻き乱し、皮膚をチリチリと焼き焦がす。 その極限の交錯の刹那――少女の首元の奥深くで、皮膚の下の『聖痕』が、トクンと微かな熱を帯びた。
視界が、ふっと緩やかに引き延ばされた。 世界が止まったわけではない。奇跡のような光が溢れたわけでもない。 ただ――荒れ狂う暴風と熱気の中、なぜかそこだけ、大気の流れが綺麗に淀み、風が止まって見えた気がした。
理屈ではなかった。学んだ剣技の型でもない。 水底を走る魚の通り道のように、敵の巨大な右翼の付け根、骨と筋腱が交差するわずかな隙間に、吸い込まれそうな一本の「裂け目」が、直感としてアリアの脳裏に浮かび上がっていた。
(――あそこ……!)
アリアは身をわずかに捻り、敵の放った灼熱の爪撃を紙一重の数ミリで見切った。空振りに終わった鉤爪が背後の空気を爆裂させる中、アリアは儀礼用短剣を逆手に返し、体幹を独楽のように鋭利に回旋させた。相手の突進速度と、己の身体の回転運動。二つの速度を寸分の淀みもなく刃先に乗せ、見えた隙間へと刃を滑り込ませる。
――始祖原水流・飛沫断。
手応えは、驚くほど軽やかだった。水面を撫でるように滑り抜けた白銀の刃先が、隊長の右翼を支える巨大な主腱と胸部装甲を、抵抗感すらなく綺麗に両断していた。
「……ギ、……ッ!?」
声にならない絶句を残し、先遣隊長の巨躯が大きく傾いだ。揚力を完全に奪われた巨鳥は、切り裂かれた右翼から激しい黒煙を噴き上げながら、抗えない自重に引かれて錐揉み回転を起こした。そのまま竜骨館の沖合、干潟の澪筋へと猛烈な勢いで激突し、周囲の泥水を何十メートルもの高さまで巻き上げて沈黙した。
頭上を覆っていた黒煙の向こうで、残存していた灰翅族の兵たちが恐慌をきたしたように甲高い警戒音を鳴らし合った。指揮官の墜落。それは絶対の制空権を誇っていた部隊にとって、致命的な戦線崩壊の合図だった。有翼の影たちは散り散りに羽ばたきを乱し、東の空の暗雲へ向けて、蜘蛛の子を散らすように逃走していった。
潮風が、静かに干潟を吹き抜けていく。
「……ふぅ、っ……」
フィリアの薄い唇から、微かな吐息が漏れた。役目を終えた桜金の防壁が、柔らかな光の粒子となって朝の光の中に溶け、淡く霧散していく。広域結界を一人で維持し続けた疲労から、フィリアの膝ががくりと折れかけた。
「フィリア!」
泥濘へ軽やかに着地したアリアが、即座に駆け寄り、倒れ込みそうになった少女の華奢な肩を両腕でしっかりと抱き留めた。
「大丈夫!? 怪我はない!?」
「はい……アリア様……。皆さん、ご無事で……本当によかった……」
煤で汚れたアリアの胸元に顔を埋め、フィリアはエメラルドの瞳を潤ませてふわりと微笑んだ。触れ合う互いの体温が、過酷な初陣を乗り越えた安堵をじんわりと伝えていく。
「ぎゃはは! 見たかよ、あいつらの慌てっぷり! ざまあみやがれってんだ!」
泥だらけの道着の裾を払いながら、リンが豪快に八重歯を覗かせて近づいてきた。
「アリア、最後の一撃、最高だったぜ!」
と快活に親指を立てると、隣でへたり込んでいたルシアンの細い背中を景気よくバシィンと叩いた。
「ぐふっ……痛い、だから叩くなと……眼鏡が飛び散るでしょうが……ッ!」
歪んだ銀縁眼鏡を押さえながら呻くルシアン。息も絶え絶えに懐の胃薬の包みを握りしめていたが、全員が無傷で生き残った事実を確かめると、深くため息を吐き出し、口元に微かな安堵の笑みを漏らした。
「まったく……全員揃って無茶な軌道を飛びすぎです。僕の寿命がどれだけ縮んでいると思っているのですか」
そんな四人の姿を、周囲を取り囲んでいた黒潮互助会の漁師や若衆たちが、呆然と見つめていた。泥にまみれ、息を切らし、互いに笑い合っている年若い少年少女たち。帝都のお飾りでも、逃げ出してきたお姫様でもない。自らの足で泥濘に立ち、他人のために命を張って空の怪物を叩き落とした、本物の戦士たち。
「……おい、勝ったぞ……!」 「すげえ……あいつら、本当に追っ払いやがった……!」
一人の若衆の呟きを皮切りに、干潟全体から割れんばかりの地鳴りのような歓声と拍手が爆発した。荒くれ者たちが拳を突き上げ、口笛を鳴らし、命を救われた母親が涙を流して頭を垂れる。蔑まれてきたまつろわぬ民の視線の中に、侮りや警戒の色は欠片もなく、ただ純粋な熱狂と、深い敬意だけが満ちていた。
その歓声の中央を、ゆっくりと割って進み出る影があった。ガラだった。
年季の入った革靴で泥を踏みしめ、腰の鞘へと巨大な解体包丁を音もなく納める。女頭は咥えていた煙管から、微かに青い煙をふわりと朝空へ吐き出した。その皺の刻まれた顔に浮かんでいたのは、からかうような冷笑ではない。百年の歴史を背負い、泥濘の掟を守り続けてきた頭目としての、研ぎ澄まされた真剣な眼差し。
ガラはアリアの正面で足を止めると、菫色の瞳をじっと据え、短く喉を鳴らした。
「……認めてやるよ、バカ皇女。あんたたちは口先だけの飾りじゃない。泥の匂いのする、本物の阿呆だ」
不敵な笑みが、女頭の唇の端に刻まれる。
「気に入ったよ。――黒潮互助会は、あんたたちと協力させてもらうよ!」
泥濘の乾かぬ汽水域の空の下、新世代勇者パーティーとまつろわぬ民の間に、確固たる真の同盟が結ばれた。
(第十一話・完 / 第十二話へ続く)




