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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第十一話:『灰色の弾幕と、白銀の太刀筋』 第二節:蒼の飛燕と、風の幾何学

 上空の旋回軌道が、不穏に歪んだ。

 高高度からの燃焼鉱石投下が桜金の光幕によって阻まれたと知るや、灰翅族の編隊は瞬時に陣形を崩し、翼膜を細く窄めて滑空角を鋭く落としてきた。 狙いは結界の頂点ではない。地面と光幕が接する境界線、そして防壁の死角となる桟橋の真下。 地表すれすれの低空を薙ぎ払うように、三対の黒朱の翼が空気を裂いて突進してくる。

「フィリアの足元は通さないわよ!」

 アリアの白銀短剣が鞘走った。 広域結界の維持に全神経を注ぐフィリアは、いま指一本動かせない。 アリアはその小さな背中を庇うように立ち塞がると、低空から滑り込んできた先頭の一機が繰り出した鋼鉄の鉤爪に対し、体幹をわずかに沈めて紙一重で見切った。 刃先を垂直に立て、すれ違いざまに敵の足首の太い腱を断ち割る。 バランスを崩した鳥人が泥濘へと滑落する間にも、アリアの菫色の双眸は上空を睨み据えていた。 狙うべき本命――あの空の奥で異様な熱気を孕んで旋回する隊長機が動き出す瞬間を、少女は冷徹に計り続けている。

「上は任せたわよ、リン!」

「おうよッ! ――おい眼鏡、予定通りだ、踏み台を寄越しな!」

「言われなくとも……ッ! 仰角三十五度、第三ステップへ跳びなさい! 気流足場の維持限界は二分四秒です!」

 ルシアンの青革の魔導書から、幾何学の光輪が連鎖して空間へ射出された。 大気中の酸素と窒素が局所的に急激な圧縮を受け、中空に目に見えぬ三段の高圧空気の足場――【多重圧縮気流板】が現出する。

 リンの足元から、大気を踏み抜く強烈な衝撃波が同心円状に広がった。 『瞬歩・飛燕脚』。

 少女の身体は垂直の矢となって虚空へ駆け上がった。一段、二段と不可視の気流板を拳法靴の爪先で蹴り抜け、瞬き二つの間に低空掃射を仕掛けていた二機の直上を奪い取る。

「逃がすかよッ!」

 リンは中空で身を水平に倒し、体内の生体気流を四肢の末端へと爆発的に循環させた。 全身を軸にして、独楽のように高速で連続回旋する。 ――『旋風連脚・散華』。

  放たれたのは打撃の質量だけではない。鋭利な青白い気刃を帯びた無数の蹴りの軌跡が、花弁のように全方位へ乱れ咲いた。 挟撃を仕掛けようとしていた左右二機の翼膜と、風を掴む主腱が、寸分の狂いもなくまとめて切り裂かれる。 両翼の揚力を一瞬で喪失した二体の巨躯は、失速の悲鳴を上げる間もなく錐揉み回転を起こして干潟へと落下していった。

 だが、その直下――後続から突進してきたのは、ひときわ分厚い耐火羽毛を纏った巨漢の戦士だった。 仲間の墜落をものともせず、頭突きを喰らわせる勢いでリンの着地点へ突進してくる。 空中で足場を失った無防備な標的を、真正面から轢き潰す質量攻撃。

 リンの琥珀色の瞳孔が、獲物を待ち構える野獣のように細められた。 逃げない。身を引くことすらない。 落下速度と相手の突進速度が交差する絶対の刹那、リンは空中で身体をわずかに半身へ開き、右肘の先端へ全身の『蒼気功』を針のように鋭く収束させた。 相手の胸郭の中央――胸骨と心臓を繋ぐ急所へ、自ら飛び込むように肘をねじ込む。 ――『蒼気功・崩角突』。

 接触の瞬間、大気が一度だけ不自然に収縮した。 巨漢の胸当てに外傷は一切つかない。だが、相手の猛烈な前進力とリンの鋭利な踏み込みが衝突したエネルギーは、すべて浸透波となって敵の体内を駆け抜けた。 次の瞬間、巨漢の背中側の耐火羽毛が、円形に吹き飛んで宙を舞った。 内側から肺腑と呼吸気嚢を完全に破砕された巨漢の白目が剥かれ、突進の運動量をゼロへ押し戻されて垂直に泥濘へと沈んでいく。

「な、……なにいッ!?」

  残る最後の一機が、僚機の瞬時沈黙に動揺して急制動をかけようとした。 だが、リンの野生の猛攻は止まらない。 巨漢の肩を蹴り台にしてさらに跳躍したリンは、退避しようとした最後の一機の鉄仮面を、両掌で左右から挟み込むように密着させた。

  『浸透勁』の不可視の振動が頭蓋骨を直接揺さぶり、敵の平衡感覚を完全に奪い去る。 そのまま空中で敵の巨大な首筋を支点にし、リンの華奢な身体が鮮やかに後方反転した。 重力と遠心力のすべてを乗せ、敵の巨躯を頭から大地へ引きずり落とす。 ――『浸透勁・天地返し』。

 凄まじい衝撃が泥濘を叩き割った。 首の関節を極められた鳥人戦士は、上下を完全に逆転させられ、干潟の澪筋へと脳天から深々と突き刺さった。

「おいおい……嘘だろ……ッ!?」

  桟橋の陰で息を詰めていた互助会の男たちから、掠れた声が漏れた。

  帝都から逃げてきたはずの小柄な娘が、空を飛ぶ魔王軍の戦士を、たった一人で、素手で四機まとめて叩き落としたのだ。

 その静寂を破り、竜骨館の上層甲板から、重厚な鉄の扉が乱暴に蹴り開けられる軋み音が響いた。 年季の入った鋲打ちの革靴が、船板を力任せに踏み鳴らしながら前に進み出る。手摺りに叩きつけられたのは、分厚い刃を持つ巨大な解体包丁の腹。金属と木材がぶつかる合う硬質な衝撃とともに、煙管の煙を吐き捨てたガラの胴間声が、干潟の隅々まで轟き渡った。

「いつまで口を開けて突っ立ってんだい、間抜け面どもが!」

  女頭の怒号に、男たちの背筋が一斉に跳ね上がる。

「空を飛んでる間は化け物でも、泥に落ちりゃただの肉だ! 若衆、網を引いて銛を打ちな! うちのシマに落ちた獲物は、骨の一本まで回収するよ!」

「「――おうッ!!」」

  男たちの目の色が変わった。 恐怖は一瞬で漁師たちの狩猟本能へと塗り替えられた。 泥下駄を履いた若衆たちが滑るように泥濘を疾走し、もがく鳥人たちへ向け、大型の鯨打ち銛を撃ち込み、強靭な腱ワイヤーで編まれた重い投網を次々と被せていく。 生きるために泥水を啜ってきたスラムの民の結束が、防衛の網となって敵を確実に縛り上げていった。

 ――だが。 その圧倒的な撃墜劇の代償は、空中に残されていた。 三連続の大技を繰り出し、敵の巨体を力任せに投げ飛ばした反動で、リンの身体はルシアンの編んだ気流板の有効範囲を大きく飛び出していた。 上空十数メートル。 足場はない。跳躍のための生体気流も、技の直後で一瞬の弛緩を迎えている。

「あ……っ、やべっ!?」

  完璧な戦士の仮面が一瞬で剥がれ落ちた。 琥珀色の目をまん丸に見開き、口をへの字に曲げて手足をバタつかせる、年相応の少女らしい情けない表情。

 勢いを失った華奢な身体が、引力に引かれるまま、硬い木組みの桟橋へ向けて真っ逆さまに落下を開始した。受け身を取るには高度が高すぎる。このまま板張りに叩きつけられれば、いかに鍛え上げた骨格であっても両足の骨折は免れない。

「ああっもう、無茶苦茶だ! 計算外の跳躍軌道ですよ、この野蛮人はッ!!」

  悲鳴のような怒声が響いた。

  ルシアンだった。 青年は額の脂汗を拭う暇もなく、手元の細身の魔導杖を水平に振り抜いていた。 魔導眼鏡のレンズの奥で、青白い数式が狂ったような速度で展開される。 虚空へ向けて射出されたのは、幾重もの不可視の魔導ワイヤー。 落下するリンの細い腰帯を柔らかく絡め取り、振り子の運動へと逃がしながら、足元へ向けて多重の緩衝気流を滑り込ませる。

 落下のエネルギーが急激に殺され、リンの身体が桟橋すれすれまで引き寄せられた、その刹那―― ルシアンは一切の打算を捨て、自らの両腕を前へと突き出していた。

 衝撃が二人を襲った。 運動不足のインテリに、宙から降ってきた少女の質量を綺麗に受け止める筋力などあるはずもなかった。 息を詰まらせたルシアンは、リンの身体を抱き留めた勢いのまま後ろへ派手につんのめり、二人は絡まり合うように桟橋の板の上を滑って転がり込んだ。

 木材の擦れる鈍い音ののち、訪れた静寂。 桟橋の上、完全に重なり合う二つの影。 リンの引き締まった腹部がルシアンの胸板の上に乗り、互いの荒い呼気が至近距離で触れ合っていた。 鼻先が触れそうなほどの距離。 乱れたオレンジブロンドの隙間から覗く、わずかに汗ばんだ小麦色の素肌。 荒い息とともに上下する胸元と、上気してほんのり朱を帯びた両頬。 いつもは見せない、どこか潤みを帯びた琥珀色の瞳が、困惑と驚き、そして「やるじゃないか」という素直な感心を湛えて、ルシアンのネイビーブルーの瞳を真っ直ぐに射抜いていた。 野性味を滲ませながらも、助けられたことへの飾らない感謝が滲む、息を呑むほど魅力的な表情。

「……じ、重いですよ野蛮人……っ! 僕の肋骨の安全係数が完全に破綻しました……それに、か、顔が近すぎます……!!」

 動揺を隠すように喚き散らし、ルシアンは慌てて視線を横へと逸らした。 その取り乱しぶりを目にしたリンも、不意に自らの胸の奥がトクンと妙な熱を帯びたのを感じ、居心地悪そうに「……悪ぃな」と呟いて、乱れた前髪を無造作に払った。 普段の小突き合いでは決して生じない、甘く奇妙な沈黙が二人の間に落ちかけた――その瞬間。

 上空の黒煙を切り裂き、大気を根こそぎ押し潰すような、凄まじい重圧が降り注いだ。

「――来たわね!」

 結界の縁で短剣を構え直したアリアの、鋭利な声が響いた。 見上げる空の暗雲の裂け目。

  部下たちをすべて泥に沈められた灰翅族先遣隊長が、その巨大な翼膜を全開に広げ、激しい摩擦熱の紅蓮を宿しながら、旋回をピタリと停止させていた。

 その鉄嘴の狙いは――光膜を維持し続けるフィリア、ただ一点。

「ルシアン、リン! あたしを跳ばしなさい!」 アリアの菫色の双眸が、天を貫くように閃いた。

(第三節へ続く)


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