第十一話:『灰色の弾幕と、白銀の太刀筋』 第一節:炎上の干潟と、桜金の防壁
船腹の裂け目を蹴破り、泥濘の桟橋へと躍り出た刹那、突き刺さるような熱風が四人の皮膚を激しく焼いた。
先刻までの竜骨館の静寂は、跡形もなく消え去っていた。 視界を埋め尽くしていたのは、赤黒い炎と立ち込める濃密な白煙、そして天地を揺るがす暴力的な破壊の奔流だった。
頭上を覆い尽くすのは、火山灰色の巨大な翼膜を幾重にも広げた有翼の異形たち――魔王軍空爆軍団、灰翅族の先遣部隊。 黒煙と火山礫を弾き飛ばす黒朱の耐火羽毛を波打たせ、鋭利な鉄マスクの奥から琥珀色の双眸を冷酷に光らせている。彼らの鉤爪から、周辺の火山帯深部より切り出された高熱の燃焼鉱石が、無造作に地表へ向けて投下されていた。
百年前、一人の少年が泥水をすすり、命を繋ぎ止めるために魚を追った原点の干潟。 手入れの行き届いた網、天日で干されていた密造塩の木樽、煮炊きの大鍋、そして生きるために組まれた粗末な浮き小屋の数々――名もなき民が営んしてきた泥臭い生活の痕跡が、今まさにその少年の率いる軍勢の手によって、容赦なく均され、焼き潰されていく。
「ひ、火が……! 誰か、助けてくれ……!」 「母ちゃん! 母ちゃん、どこだぁッ!」
逃げ惑うスラムの民の悲鳴が、濁流と猛火の唸りに呑み込まれていく。 竜骨館から飛び出してきた互助会の若衆や漁師たちも、あまりの空からの暴力に足を止め、呆然と息を呑んでいた。水路の争いには慣れていても、空から降り注ぐ天災のような爆撃を前にしては、歴戦の荒くれ者たちですら初動の足取りを奪われる。
その混乱の只中、崩れ落ちた小屋の梁の下で、幼子を胸に抱きかかえて泥濘にへたり込む一人の母親の姿があった。 母子の直上――頭上五十メートル。 放り出された大型の燃焼鉱石が、空気との摩擦で火花を散らしながら、一直線に彼女たちの頭上へと落下を開始していた。
「しまっ……!」
アリアの奥歯が激しく軋みを上げた。 足元の泥を蹴って地を滑るように踏み込もうとするが、距離はおよそ三十メートル。 『蒼血』による瞬発力をもってしても、重力加速度を味方につけた落下の質量には、コンマ数秒及ばない。
(あたしが……勇者!? 目の前の子供一人すら、救えないっていうのに……ッ!)
ポルト・ヴェルデで十万の軍勢が一瞬にして沈黙したあの絶望の光景が、脳裏を掠める。届かない。少女の菫色の瞳が焦燥に染まりかけた、その瞬間――
「――させません……っ!」
鈴の音のように透き通り、それでいて凛とした強い声が、熱風を切り裂いて響いた。
アリアの視界の端を、純白のローブの裾が翻った。 泥水に躊躇なく足を踏み入れ、迷いのない足取りで前に進み出たのは――フィリアだった。 大聖堂の地下深く、過保護な檻の中でただ痛みに耐えて首を垂れるだけだった少女ではない。 誰かの身代わりにされるためでも、言われるがままに消費されるためでもない。自らの足で立ち、目の前で脅かされる命を救うために、少女は両手で偏光クリスタルを天へと高く掲げた。
『――深緑の揺籃、災禍を拒む平らかなる星よ!』
少女の唇から紡ぎ出された祈りに呼応し、胸元の鉱石が眩いばかりの光を放った。 それは大聖堂で強いられていた苦痛の搾取ではない。自らの意志で解き放たれた、純粋で温かな神聖マナの奔流。
柔らかな桜金色の燐光が、同心円状の波紋を描いて爆発的に拡散した。 光の粒子は瞬時に何重もの幾何学模様を編み上げ、直径四十メートルを超える巨大な半球状の天蓋――【聖域結界】となって、桟橋と逃げ遅れた民の頭上を包み込んだ。
直後、落下の極致に達した燃焼鉱石が、結界の頂点へと激突した。 強烈な衝撃が光の膜の表面を激しく波打たせ、周囲の空気を白熱させるほどの熱量が撒き散らされる。だが――結界の表面に浮かび上がった無数の聖樹の紋様が、その凶暴な運動エネルギーと高熱を瞬時に吸収、中和し、ただの冷えた白い灰の粉末へと還元して宙へと散らした。 熱風も、有毒な排液の飛沫も、その光の膜を一枚たりとも透過することはできない。 結界の内側に満ちていたのは、焦げ臭い煙すら遮断された、陽だまりの春風のような清冽な静寂だった。
「……あ、あ……」
抱き合って震えていた親子が、頭上に広がる奇跡の桜色の光を見上げ、呆然と息を呑む。 それを取り囲んでいた互助会の男たちもまた、目を見張っていた。
「おい……帝都のお嬢ちゃんが……あたしたちを、庇ったのか……!?」
驚愕と、魂を揺さぶられたような動揺が、荒くれ者たちの間に走る。
結界を維持するフィリアは、広域防壁を一人で支える負荷に小さく息を乱し、陶器のような白い額に薄い汗を滲ませていたが、その表情に曇りはなかった。 自らの力で誰かを守り抜いているという確かな実感が、エメラルドの瞳に揺るぎない芯となって宿っている。
「……っ、見事です、フィリア様!」
その絶対の安全圏の中で、喉元までせり上がりかけた吐き気を気迫で飲み下した青年の声が落ちた。
周囲を薙ぎ払った急激な熱波と水蒸気爆発の圧力に、三半規管は激しく軋み、胃壁が締め上げられるような不快感に襲われていた。だが、青年は懐の胃薬に手を伸ばすことすら己に禁じ、銀縁眼鏡の右フレームを指先で弾いて単眼照準器を展開させた。
(落ち着きなさい、ルシアン……! 恐怖も混乱も、すべては演算のノイズに過ぎない……!)
抱え込んだ青革の魔導書を宙へ浮かせ、手元の魔導ペンを高速で走らせる。 レンズの内側に、上空の風向、熱上昇気流の乱れ、そして灰翅族の旋回周期が、青白い数理モデルとなってリアルタイムに構築されていく。
その言葉が落ちるや否や、隣で身を屈めていたリンの全身から、爆発的な生体気流の波紋が立ち上った。 引き締まった小麦色の四肢に、青白い『蒼気功』の火花がチリチリと鋭く散る。 袖なしの拳闘ベストの胸元、さらしで締め上げた体幹を低く沈み込ませ、猫科の肉食獣のようにしなやかな重心を桟橋の板一枚に預けていた。 手首に巻かれた厚いバンデージの端を力任せに歯で噛み、ギリリと締め直す。 耳元で跳ねる朱色の房飾りが熱風に揺れる中、細められた琥珀色の双眸は、獲物の急所を品定めするように上空の旋回軌道を捉えて離さない。 尖った八重歯を剥き出しにし、唇の端を獰猛に吊り上げて嗤うその姿には、空からの天災に対する恐れなど微塵もなかった。あるのは、己の拳が届く間合いへと敵を引きずり下ろさんとする、純度百パーセントの野生の闘志。
「言われなくてもな! ――おい眼鏡、足場を作りな! あたしが全員、頭から叩き割ってやるよッ!」 (第二節へ続く)




