第十話:『泥濘の掟と、黒潮の頭目』 第三節:灰色の羽音と、残された釣り針
大広間の空気が、ピリピリと張り詰めていた。ガラが懐の奥へ差し入れた手は、分厚い革袋の底をまさぐり、やがて一際古びた木製の小箱を掴み出して無造作に机の上へと置いた。
カチリ、と小さな留め金が外される。
中から転がり出たのは、太陽の光を浴びて鈍く白濁した、一本の粗末な「釣り針」だった。
水生魔獣の骨を無骨な刃物で削り出し、百年前の強靭な腱糸を縛り付けるための小さな環が穿たれている。お世辞にも職人の手による工芸品などではなく、生きるためにその場で泥まみれになりながら仕立てられた、剥き出しの生存の道具。
ダイナミックに変化する世界の中で、それだけが奇跡のように当時の手触りを残していた。
「……先々代のばあさんから聞かされてたのさ。昔、うちのシマにもいたんだよ。魚を獲らせりゃ天才のくせに、他人の痛みに首を突っ込んじゃ泥水を啜る、不器用なガキがな」
ガラはキセルをくゆらせ、その微かに青い煙の向こう側から、机の上の小さな骨針を静かに見据えた。
「そいつが旅立つ前に『荷物になるからちょっと預かっててくれ』って置いていったのさ。そんで、そのまま神託に連れちまわれて、二度と戻らなかった。……それ以来、うちじゃこの針を『いつか海へ行くための縁起物』ってことで大事に保管しててね」
その言葉を聞いた瞬間、アリアの全身から血の気がスッと引いた。
「……それ、は……」
吸い寄せられるように、少女は一歩、机へと歩み寄った。 震える白皙の指先が、古びた骨の表面にそっと触れる。 触れた刹那――前夜の微睡みの中で体験した『あの誰かの夢』の残響が、脳裏の奥底で強烈な閃光となってスパークした。
(――この針を削ったのは、あなたなの……? もしかしてあの夢はあの時彼をあんな優しい気持ちで見ていた誰かの記憶……?)
脳裏の隅で、あたたかな焚き火の匂いと、優しい横顔が幻影のように揺らめく。胸元で脈動する聖痕の熱が、現実の冷たい空気を忘れさせ、アリアの意識を眩暈のような切なさと郷愁で包み込んでいく。
ガラは灰皿の縁へキセルの吸い口をトントンと軽く叩きつけると、灰を落とし、煙の向こうからアリアの菫色の瞳をじっと据えた。
「……驚いたね。先々代から聞かされていた『あのガキ』にそっくりだ。あいつもいつも、自分の身の丈も考えずに、他人のために泥まみれになってやがったそうだよ」
シワの刻まれた女頭の口元に、どこか哀愁を含んだ不敵な笑みが浮かぶ。
「あたしがこれをアンタに見せたのはね……。その短剣を机に叩きつけたお嬢ちゃんが、口先だけの綺麗事で言ってるのか、それとも――」
ガラがその真意を告げようと、低く喉を鳴らした、その時――
頭上の天窓を支える肉厚なガラスが、外側から押し寄せた抗えない大気の圧縮圧力に負けて、蜘蛛の巣状に細やかな亀裂を広げ、次の瞬間には一斉に粉々へと砕け散った。 上空を高速滑空する何十もの巨大な翼膜が地表の空気を根こそぎ押し下げ、建物全体を真横から強烈に叩きつける暴風のうねり。地表のすべての空気が肺腑の底から一気に引き剥がされ、船倉全体の気圧が急激に跳ね上がって耳鳴りを引き起こす。
「なっ……!?」
リンが咄嗟に重心を落とし、身を構えた。 外の運河から飛び込んできたのは、集落の民たちの阿鼻叫喚と、頭蓋の骨を直接揺さぶるような獣の唸りのような重低音だった。
「きやがったな……!」
ガラは一瞬にして表情を凍りつかせ、咥えていたキセルを灰皿へ激しく叩きつけた。 女頭は腰に差した長大な解体包丁を柄ごと引き抜き、大机の木板を力任せに打ち鳴らした。
「いつまでもボケッとしてんじゃないかね! どこの空から飛んできた化け物だろうと、あたしたちのシマを踏み荒らす野郎は、頭から丸ごと解体してサメの餌にしてやりな!」
ガラの号令を待つまでもなく、アリアたちの身体はすでに反射的に動いていた。 「行くわよ!」と鋭く声を張り上げ、アリアたちは船腹の裂け目から迷うことなく外の干潟へと飛び出した。
頭上を覆い尽くしていた朝の蒼天は、すでに跡形もなく消え去っていた。 視野のすべてを黒く塗り潰していたのは、火山灰色の巨大な翼膜を羽ばたかせ、無数に旋回する有翼異形――灰翅族の先遣空爆部隊。 彼らの鋭利な鉤爪から、周辺の火山帯から採取された高熱の燃焼鉱石(マグマ弾)が、エスチュアリーの水上浮き小屋群へ向けて雨あられと投下されていた。
凄まじい水蒸気爆発の衝撃音が、湿地帯を揺るがした。 熱せられた溶岩鉱石が冷たい泥水や浮き小屋の木材に接触した瞬間、耳を塞ぎたくなるような轟音と共に周囲の水分が一気に沸騰し、高圧の白煙と爆風が水上集落を吹き飛ばす。着弾した小屋が激しい爆発炎上を起こし、黒マングローブの湿地帯が一瞬にして赤黒い地獄の火の海へと変貌した。
逃げ惑う人々の悲鳴と、燃え盛る木片が跳ね飛ぶ修羅場の中、アリアたち4人は互いにアイコンタクトを交わした。
ルシアンは開いた魔導書へ向けて魔導ペンを走らせ、上空の風向と気流の乱流データをコンマ数秒で弾き出す。 リンは船べりを強かに蹴り、青白い『蒼気功』の闘気を拳に纏いながら、上空へ跳躍するための最初の踏み込みを完了させる。 フィリアは両手で偏光クリスタルを頭上高く掲げ、燃え盛る爆風から逃げ遅れた子供たちを包み込むように、柔らかな桜金色の【聖域結界】を瞬時に展開した。
そして――アリアは。 胸元の聖痕を激しく脈動させながら、ホルダーから儀礼用白銀短剣を引き抜いた。 刃先に宿った清冽な始祖原水流の魔導光が、周囲の黒煙を白銀に照らし出す。
少女は燃え盛る空を睨みつけ、不敵に、どこまでも晴れやかに笑ってみせた。
「――話の続きは、あの空の化け物を全員叩き落してからよ!」
欺瞞の帝都を背負い、百年の因果が渦巻く汽水域の空を舞台に、新世代勇者パーティーと魔王軍先遣隊による、初めての本格的な迎撃戦がその切っ先を天へと突き上げた。
(第十話・完 / 第十一話へ続く)




