第十四話:『無垢なる聖域の輝き』 第一節:暗渠の突破と、再集結する四重奏
地上数十メートルの崩落土砂の上、ルシアン・ド・アイテールは膝を泥濘に突き、魔導眼鏡の単眼照準器を限界まで励起させていた。 レンズの内側に青白い等高線とマナ周波数が奔流となって渦を巻く。
「……深度28メートル、地下暗渠の空間反響を確認。生体波長、捕捉しました! ……アリア殿下です!」 叫びを上げたルシアンの表情が、次の瞬間、不審の色に歪んだ。
「……待ちなさい、これは何だ……? 殿下のすぐ傍らに、もう1つ……信じがたい密度の超高圧マナ熱源が同心円を描いて――」
「細かい理屈は後だ、ルシアン! 穴を開けるぞッ!」
リンが跳び上がり、右拳のバンデージを噛んで引き締めた。
ルシアンは思考の乱れを無理やりねじ伏せ、魔導杖の先端を泥の割れ目へと突き立てる。
「――【相転移連鎖・結晶脆化陣】!」
土砂の隙間に滞留していた高圧水分が、術式の干渉を受けて瞬時に氷結し、体積膨張によって強固な巨石の結合部を内側から破断させた。
そこへ、リンの全身を巡る『蒼気功』を乗せた渾身の掌底が撃ち込まれる。
打撃の音すら置き去りにする、装甲貫通の浸透打撃。 粉々に砕け散った土砂の層を突き破り、地上の光が1条の濁った帯となって、地下の暗黒空洞へと一気に突き抜けた。
◇
光が差し込んだ、その刹那だった。
中州の砂の上に立っていた黒髪の青年――レンは、天井の崩落を仰ぎ見ることもなく、静かに踵を返した。 濡れた漆黒の儀仗外套を翻し、暗渠の奥、深き闇が口を開ける澪筋へと音もなく足を踏み入れていく。
「あ――待って……!」
アリアの喉から、反射的に声が零れ落ちていた。
伸ばした右手の指先が、何もない冷たい空間を虚しく掴む。 敵のはずだった。
帝国を脅かす災厄の元凶のはずだった。
それなのに、なぜ背を向けるその人を引き留めようとしてしまうのか。
なぜ、行かないでと叫びたくなってしまうのか。 レンは立ち止まらなかった。 振り返ることすらなく、暗がりの中へその背中は溶け込み、ただ、水面を渡る微かな波紋だけを残して、青年の気配は完全に消え去っていた。
「アリアッ!」
直後、崩落した開口部から飛び降りてきたのは、リンだった。 泥にまみれた道着を震わせ、仁王立ちになった少女の琥珀色の瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
バンッ! 力任せに肩を小突かれ、アリアの上体が大きく揺れる。
「心配させんじゃねえよ、この大馬鹿野郎! あんたが落ちたとき、心臓が止まるかと思ったんだからな……!」
八重歯を剥き出しにし、怒声と安堵をない交ぜにしながら、リンは小柄な腕でアリアの首元を力いっぱいに抱きしめてきた。泥の匂いと、生きた親友の強烈な体温が首筋を包み込む。
「ごめんね、リン。ちゃんと生きてるわ」
苦笑しながら背中を叩き返すと、土砂の斜面を滑り降りてきたフィリアが、泥に濡れるのも構わずに膝をついた。
「アリア様……! よかった……本当によかった……!」
『神樹の白木聖杖』を投げ出すようにして伸ばされた、震える小さな掌。
淡い桜金の光が手のひらから溢れ出し、冷気に晒されていたアリアの身体を、春の陽だまりのような温もりで急速に満たしていく。
そこへ、乱れた身なりを整えながらルシアンが小走りに駆け寄ってきた。 額には冷や汗が滲み、銀縁眼鏡は斜めに傾き、片手は痛む胃の腑を強く押さえている。
だが、青年のネイビーブルーの瞳は、アリアの無事を確認した直後、油断なく周囲の暗がりを鋭く走っていた。
「……まったく、心臓に悪い方だ。僕の計算モデルが3度破綻しかけましたよ。……ですが殿下」
ルシアンは眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、中州の砂の上に残された、消えかけの小さな焚き火の灰へと視線の先を落とした。 その声に、冷徹な分析官の硬度が混ざる。
「上空からの探査で、貴女のすぐ隣に、明らかに人間離れした巨大なマナ熱源を感知しました。……ここに、誰かいたのですか? まさか……先刻の魔王が?」
鋭く突きつけられた問いに、リンとフィリアの視線が一斉にアリアへと集中した。
その瞬間――アリアの息が、喉の奥で小さく詰まった。
平静を装おうとしたものの、伏せられた長い睫毛がかすかに震え、唇の端が一瞬だけ強張る。
何より、その菫色の双眸の奥に、動揺を覆い隠しようとする微かな迷いと熱が走ったのを、ルシアンの怜悧な観察眼は見逃さなかった。
(……何か、隠している……?)
ルシアンの眼鏡の奥で、数理の疑念がチリッと音を立てて跳ね上がる。
(……言えない)
アリアは胸の奥で奥歯を噛み締めていた。 あの男がここにいて、自分を激流から守り、冷えた身体のために火を起こし、丁寧に魚の骨を外してくれたなどと、どうして仲間に告げられるだろうか。
ましてや、「レン」というあの一言で、あの絶対の魔王が激しく動揺したことなど。
話せば、仲間たちはあの人を完全に排除すべき脅威として認識し、追撃の陣を敷くだろう。
だが、アリアの魂の芯は、あの哀しげな青年を、ただの討伐対象として敵対させることを激しく拒絶していた。
「……ううん」
アリアは視線をわずかに伏せ、何事もなかったかのように首を横に振ってみせた。
「落ちてきた水流の乱れか、水底にいた大型の汽水魚の反応じゃないかしら。あたしが目を覚ましたときには、誰もいなかったわ。この火も……あたしが持っていた火打ち石で、暖を取るために起こしただけよ」
平静を取り繕ったその返答に、ルシアンは眼鏡のフレームに添えた指を静かに止めた。
(汽水魚……? あの質量と密度が、ただの魚であるはずがない。それに、火打ち石だと? 殿下の指先に火口を擦った煤の汚れなどどこにもない。……何を隠しているのです、アリア殿下)
学者特有の緻密な疑念が青年の胸中に深く澱のように沈殿したが、それを追及する時間は、1秒たりとも残されていなかった。 頭上――地上のエスチュアリーから、大地を物理的に揺るがす地鳴りと、無数の生体兵器が上げる軋みが雪崩れ込んできたのだ。
「嬢ちゃんたち、無事かい! 早く上へ上がりな!」
開口部の縁から顔を覗かせたのは、泥と煤にまみれたガラだった。
その手には血糊を浴びた銛が握られ、切迫した声が地下へ木霊する。
「水門跡の『白亜防護壁』が限界だ! 潮殻族の海獣部隊と、淵鱗族の酸毒部隊が前線を完全に食い破りやがった! ……このままじゃ、互助会の居住区ごと、干潟の民が全部泥水に呑まれるぞッ!」
アリアの瞳から、先刻までの迷いが綺麗に削ぎ落とされた。 腰の『蒼水直剣・アルビオン』の柄を強く握り締め、地上から差し込む濁った光を見上げる。 あの暗闇で、魚の骨を外してくれた青年―― その男が率いる軍勢が、いま、地上の人々を呑み込もうとしている。 胸を締め付ける痛みを力ずくで奥底へと押し込め、アリアは地を蹴った。
「行くわよ、みんな! 白亜壁を死守するわ!」
(第二節へ続く)
改めて再投稿です。
気づいてた方、申し訳ございませんでした……




