第九話:『東方逆流と泥濘の邂逅』第三節:黒潮の干潟と、最前線の煙
東の地平が薄藍色から鉛色の白へと移ろう時刻、大河を滑るボートの周囲を、濃密な白い帳が音もなく呑み込んでいった。
視界をわずか数歩先まで奪い去る、冷たい塩霧。 水面の抵抗が急激に重くなり、船底を擦る泥の粘性が増していく。大聖堂が誇る神水の清澄さは完全に消え去り、鼻腔を満たしたのは、重金属の沈殿した泥濘と、肌を刺すような濃厚な潮の臭気だった。
船底から這い上がってきたルシアンが、冷気に肩を竦めながら銀縁眼鏡の曇りを布で拭った。
「……アルス大河の終端を越え、河口三角州へ達しました。帝国の水文工務局が『エスチュア川のドブ溜まり』と忌み嫌う、完全な汽水域です」
「着いたんだな」
舵を握るリンの引き締まった横顔に、緊張が走る。 風が吹き抜け、霧のカーテンが裂けた瞬間――四人の眼前に、息を呑むような異形の異境がその全貌を現した。
見渡す限りの泥濘の干潟。 黒鉛色に濁る水面から、怪物の肋骨のように幾重にも絡み合って天へと突き立つ、黒マングローブの奇怪な巨根群。その泥の海を埋め尽くしていたのは、朽ち果てた大型軍船の竜骨や廃材を骨組みにして、水面の上に強引に組み上げられた、無数の「浮き小屋」の連なりだった。
帝国の法も、教皇庁の教理も届かない暗黒水域。 泥水を掻き分けて進む粗末な平底舟。干潟の濃縮汽水を大釜で煮沸し、濛々と立ち上らせる密造塩の白い蒸気。軒先にびっしりと吊るされた、黒ずんだ怪魚の干物。 神樹の排液を浴びながら、泥水の中で力強く命を繋ぎ止めてきた「まつろわぬ民」の自治集落――『エスチュアリー』。
「これが……外の、街……」
フィリアがエメラルドの瞳を見開き、舳先から身を乗り出すようにしてその光景を見つめた。 大聖堂の白亜の回廊とは対照的な、泥にまみれた生命の熱気。
アリアは、胸元を静かに押さえていた。 立ち込める魚の脂と、煙の匂い。 泥濘の冷たさを孕んだその湿気は、先刻の夢の中で、あの黒髪の少年が焚き火の傍らで魚の骨を外してくれた、あの懐かしい匂いと不思議なほど重なり合っていた。
(……あの人は、この泥の匂いの中で、生きていたの……?)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
だが、集落の佇まいに、安息の気配は微塵もなかった。
ポルト・ヴェルデの決壊に伴う水位の乱高下により、干潟の水路は激しく波立ち、浮き小屋同士を繋ぐ太い麻縄が引きちぎれんばかりに悲鳴を上げていた。 泥濘の桟橋には、粗末な革鎧をまとい、銛や解体用の大包丁を手にした異形の風貌の男たちが群がり、騒然と怒号を交わし合っている。
集落の誰もが、恐れと戦慄の視線を同じ方角へと向けていた。
東の地平――ポルト・ヴェルデの方角。 そこには、天を衝く数条の太い黒煙の柱が立ち上り、朝焼けの光を分厚い鉛色で塗り潰していた。
雲の下を旋回するのは、火山灰に耐える黒褐色の翼を広げた、灰翅族の斥候と思われる不吉な影。そして、遥か遠くの大地をすり潰すような無数の行軍の重圧が、風に乗って微かな震動となって水面を揺らしていた。
「……帝国軍の十万が駐屯していたはずの防潮関所が、完全に沈黙したんだな」
リンが奥歯を噛み締め、手首のバンデージを強く握り直した。 あの映像の奥にいた、絶対零度の災厄――魔王軍の先遣隊が、すでに目と鼻の先まで迫っているのだ。
「リン、あの桟橋へ着けて!」 アリアの指示に、リンが舵棒を巧みに当て、木製の快速ボートを傾いた桟橋の杭へと滑り込ませた。
アリアは迷いなく先頭を切って飛び降りると、泥に濡れて滑る木板の上へ、自らの足でしっかりと踏み留まった。 腰に佩いた儀礼用白銀短剣の鞘を指先で確かめ、続けて手を伸ばしてフィリアを抱き下ろし、船底から這い上がってきたルシアンの腕を引いて桟橋の上へ引き上げる。
「……気をつけてください殿下」 ルシアンがフード深く顔を隠し、周囲の荒くれ者たちの刺すような視線を警戒しながら、声を潜めて警告した。 「ここは帝国の世俗法も教会の権威も一切通用しない、水上シンジケートの暗黒街です。下手に身元を明かせば、身代金目当ての格好の獲物になりますよ」
桟橋を取り囲むまつろわぬ民の男たちが、血走った眼で抜き身の刃物を握り、異邦人の四人を値踏みするように間合いを詰めてくる。
だが、アリアは身を縮こまらせるどころか、フードを勢いよく後ろへ跳ね除けた。 露わになったのは、朝の光を浴びて煌めく白銀の髪と、何者にも屈しない爛々たる菫色の双眸。
少女は一歩、濡れた桟橋を踏み鳴らし、威風堂々と胸を張って言い放った。
「コソコソ隠れてる時間なんてないわ! 東の煙がここまで届く前に、この街を束ねてる一番偉い奴――親玉のところへ案内しなさい!」
冷たい潮風が、少女の白銀の髪を激しく煽り、東の空に渦巻く黒煙へと向けて吹き抜けていく。 百年の因果の眠る泥濘の街で、新世代の戦いが、いま新たな一歩を踏み出そうとしていた。
(第九話 完 / 第十話へ続く)




