第九話:『東方逆流と泥濘の邂逅』幕間・断片追憶:『フリッカー・メモリー』
夜の帳が降りたアルス大河は、先刻までの荒れ狂う泥の海嘯が嘘であったかのように、鏡のような静寂を取り戻していた。
頭上には、白亜の帝都では決して見ることのできなかった満天の星々が瞬いている。 船底では、丸太の敷板に毛布を幾重にも巻き付けたルシアンが、眼鏡を外した寝顔で小さく息を立てていた。知性を極限まで酷使し、舟の横転を数理で食い止めた青年の身体は、とうに限界を迎えていたのだ。
舵棒を片手で器用に押さえ、夜の川面を見据えていたリンが、ふと視線を落とした。 舳先の縁、船べりの木枠に頭を預けて深く微睡むアリア。その隣には、純白のローブの裾を小さく整え、寄り添うように腰掛けているフィリアの姿があった。
「……寒くねえか、フィリア」
低く落とされた声。 大聖堂で出会ったばかりの頃の、どこか腫れ物に触るような「お嬢ちゃん」という呼び方ではない。幾重もの死線を背中合わせで潜り抜け、互いの命を預け合った仲間へ向ける、自然な響きだった。
フィリアはエメラルドの瞳を瞬かせ、ふわりと首を横に振った。 肩に掛けていた自らのケープは、冷たい川風から守るように、アリアの背中へと優しく掛けられている。
「寒くありませんよ、リン様。……大聖堂の地下深くでは、決して知ることのなかった夜の冷たさも、こうして水面を渡る風の匂いも……すべてが、私に生きてここにいるのだと教えてくれますから」
少女の白い指先が、眠るアリアの白銀の前髪をそっと撫で上げた。 月光に照らし出されたアリアの横顔は、昼間の演壇で堂々と帝国に啖呵を切り、短剣一本で大蛇の急所を射抜いた戦姫の鋭さなど欠片も残していない。ただ、年相応のあどけなさを滲ませた、無防備な寝顔だった。
「アリア様は……本当に、真っ直ぐな方ですね」 フィリアの唇から、あたたかな吐息が零れ落ちる。 「ご自分の立場も、命の危険も顧みず……暗い檻の底にいた私の手を、力いっぱいに握り締めてくださいました」
「ああ。……あいつとは出会ってまだ日も浅いし、頭より先に身体が突っ込む野生のバカだがよ」
リンは口元を緩め、八重歯を覗かせて小さく笑った。
「他人の痛みにだけは、妙に敏感で放っておけねえのさ。自分が傷つくことなんざ、これっぽっちも計算に入れちゃいねえんだ」
二人の柔らかな囁きが、夜の波間に溶けていく。
その、すぐ傍らで。 微睡むアリアの首元、ルシアンの濃紺の外套端切れで巻かれたスカーフの奥深くで、皮膚の繊維が微かに淡い熱を帯び始めていた。
心臓の脈動と呼応するように。 トクン、トクン、と。 皮膚の奥に刻まれた『原初の勇者の聖痕』が、肉眼では捉えきれぬ七色の虹の光彩となって、静かに明滅を刻む。
リンの声が遠ざかる。 フィリアの衣擦れの気配が、深い霧の彼方へと薄れていく。 アリアの意識は、底のない深い淵へと吸い込まれるように、百年の時間の澱を越えて、記憶の深淵へと沈降していった。
◇
目を開けた瞬間、網膜を灼いたのは、赤々と燃え盛る夜営の炎だった。
暗闇を押し返すように広がる、本物の火の粉の舞い散る熱気。 鼻腔をくすぐるのは、湿った黒土と野草の匂い、そして――炭となった薪の上で、魚の脂が落ちて煙を立ち上らせる、暴力的なまでに香ばしい薫香だった。
アリアは、そこにいた。 だが――何かがおかしかった。
目線が、いつもよりずっと低い。 膝の上に置かれた自らの両手を見下ろせば、剣ダコ一つない、あまりにも白く華奢で、透き通るような指先。 自分自身であるはずなのに、まるで他人の肉体の瞳を借りて、世界を覗き見ているかのような、奇妙で不可思議な感覚だった。
「おいおい、また魚と喧嘩してんのかよ。嬢ちゃん、レンに任せときゃいいんだ」
豪快に喉を鳴らして笑う、太く低い声が響いた。 見上げれば、無骨な黒鉄の板を継ぎ接ぎした巨大な大盾を地面に下ろし、太い腕を組んで座る巨漢がいた。その足元には、岩をも砕きそうな八角の金砕棒が立てかけられている。泥と血煙の匂いを染み込ませた歴戦の風貌でありながら、その眼差しは、手のかかる妹を見守る父親のように温かかった。
「ちょっとダンカン、アタシが作ったこの特製耐熱網の性能を疑ってんじゃないでしょうね!?」
甲高い声で割り込んできたのは、煤けたワークウェアの袖を無造作に捲り上げた、赤毛に近い髪の女性だった。 額に押し上げた真鍮のゴーグルを揺らし、腰に提げた道具袋を鳴らしながら、手にした蒸留酒の瓶を煽っている。
「文句があるならアンタが焼きなさいよ、この筋肉団子! ほらレン、早くしないと脂が落ちて焦げちゃうじゃない!」
「わかってるよ。……急かすなよエル、今一番いいところなんだから」
その、静かで涼やかな声に、アリアの胸が小さく跳ねた。
焚き火の正面。 炭火の前に屈み込み、串に刺さった白身魚を見つめている、一人の黒髪の少年がいた。
東洋系の涼しげな目元に、野良犬のような精悍さを宿した横顔。 その指先は、過酷な水辺を生き抜いてきた証のように煤と泥で汚れていた。
アリアはその少年の名を、知らない。 その顔を、これまでの人生で一度として見たことなどないはずだった。 それなのに――少年が真剣な面持ちで魚を見つめているその横顔を見つめた瞬間、胸の奥底がぎゅっと万力で締め付けられるような、痛切な熱情が込み上げてきたのだ。
少年は、驚くほど慎重だった。 焼き上がった魚を木の皿に下ろすと、熱さに指をすぼめながらも、自らの指先で魚の背身をそっと開く。 身を崩さぬよう、主骨に沿って丁寧に箸を滑らせ、側線の細かな小骨の一本一本に至るまで、息を詰めて抜き取っていく。
不器用なはずの指先が、この魚を口にする誰かのためだけに、世界のどんな宝物を扱うよりも優しく、慎重に動いていた。
(――知らない人なのに) アリアの胸の内で、言葉にならない想いが溢れ出す。 (知らない人のはずなのに……どうして、こんなにも愛おしいんだろう)
この身体の持ち主が抱いていた、少年に注ぐ感情の奔流。 それは、世界中を敵に回そうとも、この人の傍らにいられるのなら何も要らないと願ってしまうほどの、純粋で、痛切なまでの想いだった。
やがて、小骨を綺麗に取り去った一番柔らかい白身を切り分けると、少年は皿を持ち上げ、自らの唇を寄せて、ふう、ふう、と静かに息を吹きかけて熱を冷ました。
そして、顔を上げる。
焚き火の黄金色の明かりをその瞳に映し、少年は――この世の誰よりも屈託のない、人懐っこい笑顔をこちらに向けて微笑みかけたのだ。
『ほら、一番うまいとこだ。……火傷すんなよ』
差し出された木皿。 口に運ぶと、粗塩の効いた魚の香ばしさと共に、胸の奥がじんわりと温かな光で満たされていく。
少年は満足そうに目を細めると、夜空の満天の星を見上げた。 その横顔には、少しばかりの照れくささと、何者にも揺らぐことのない絶対の誓いが宿っていた。
『魔王を倒したら、絶対に海へ連れて行ってやるからな』
静かな、けれど魂の芯を震わせる少年の声。
『青くて、広くて、塩の匂いがするんだ。……誰も俺たちのことを知らない、ずっと遠い海へ行こう。お前にはもう、二度とあんな冷たい場所で泣かせたりしないからさ』
少年の手が、そっとこちらの小さな手を包み込んでくる。 伝わってくるのは、ひび割れた指先の荒々しさと、裏腹の限りない慈しみ。
その温もりが、あまりにも優しくて。あまりにも眩しくて――
◇
ハッと、息を吸い込む音とともに、アリアの瞼が跳ね上がった。
目の前に広がっていたのは、焚き火の炎ではなかった。 月光に照らされて鈍く光る夜の大河と、舳先の木枠。 ボートの上を渡る夜風が、少女の白皙の肌を冷たく撫でていく。
「……っ……」
呼吸が、震えていた。 肩から滑り落ちかけた純白のケープを、アリアは無意識に引き寄せた。
「アリア、様……?」 隣で、フィリアが心配そうにエメラルドの瞳を揺らして覗き込んできた。 舵を握るリンも、驚いたように肩越しに振り返っている。
アリアは、答えられなかった。 声を出そうとした瞬間、喉の奥がきつく絞め上げられたのだ。
つー、と。 自らの右の頬を、熱い一筋の雫が伝い落ちていく感触。 触れた指先が、濡れていた。
涙だった。 悲しい夢を見たわけではない。恐ろしい悪夢に魘されたわけでもない。 ただ――あの夢の中で触れた記憶が、あまりにも温かく、あまりにも純粋に愛されていて、胸が破裂しそうなほどの切なさが、止めどなく溢れ出してくるのだ。
アリアは震える左手を、自らの胸元へと強く当てた。 スカーフの奥、首筋の皮膚の奥で、七色の聖痕が、まるで誰かの痛切な叫びを反響させるかのように、トクン、と熱を帯びて拍動している。
(……誰、なの……?)
アリアの菫色の瞳が、夜の闇に沈む東の地平を見つめた。
あの、焚き火の向こうで優しく笑いかけてくれた、黒髪の少年。 魚の骨を丁寧に外して、海へ行こうと真っ直ぐに誓ってくれた、あの温かい人は――
どうして、こんなにも胸が温かいのに。 どうして、こんなにも苦しくて、涙が止まらないのだろう。
冷たい夜風が、少女の白銀の髪を揺らし、流れる大河の彼方へと消えていった。
(第九話 第三節:『黒潮の干潟と、最前線の煙』へ続く)
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フリッカー・メモリー、御覧いただきありがとうございます。
この回は、過去のレンたちの旅の思い出を、アリアがクラリスの視点で追体験している。というものです。
なぜこんな現象が起きるのかは、まだ内緒(笑)
クラリスがこの時感じていた感情がそのままアリアに流れ込んでいるので、アリアもいたたまれない気持ちになっています。なのでイラストの銀髪の少女はアリアじゃなくてクラリスです。




