第九話:『東方逆流と泥濘の邂逅』 第二節:逆流の海嘯と、蕾の切っ先
アルス大河の清冽な風に混ざり始めたのは、湿った錆と、腐敗した海藻が日光に焼かれたような、不快な饐えた臭気だった。
ボートが東へ下るにつれ、先刻まで白銀に輝いていた水面から、目に見えて透明度が失われていく。 神樹直下の聖杯湖がもたらしていた清澄なマナの青は、底から湧き上がるような粘土質の土気色に呑まれ、やがて重金属の油膜を浮かべたどす黒い濁流へと姿を変えていた。水飛沫が肌に触れるたび、チリチリとした微弱な拒絶反応が皮膚を刺す。
「……っ、前方の水質汚染濃度、閾値を突破しました!」
船首側で魔導書を膝に広げたルシアンが、銀縁眼鏡の右フレームを弾き、単眼照準器を展開して叫んだ。レンズの内側に、奔流する幾何学的な警告コードが赤く点滅している。
「神樹の排液残渣ヘドロ、および致死濃度の未濾過結晶塩……! 間違いありません、東方境界要塞ポルト・ヴェルデの防潮大水門が完全に破壊され、死の海『メア・アビス』の海水が内陸へ向けて逆流しています!」
「おいおい、冗談だろ……!?」 舵棒を握るリンの琥珀色の瞳が険しく細められた。 少女の視線の先――遥か川下の地平から、大気そのものを底から震わせるような重低音が、大地の鳴動となって這い上がってきたのだ。
水平線の際が、見る間に異様な盛り上がりを見せていた。 下流の河口から押し寄せてきたのは、高さ四メートルを超す巨大な泥水と白波の壁――逆流の海嘯(タイダルボア)だった。 大陸の東を遮っていた防潮堤が砕け散ったことで、行き場を失った有毒な濁流が、数万トンの暴力的な質量となってアルス大河の本流を真っ向から押し潰しながら遡上してくる。泡立つ泥の段波が牙を剥き、川そのものが自らの流れを裏切って逆立ち、轟々と猛り狂っていた。
「総員、衝撃に備えなさい! 舟が横転します!」
「転覆させてたまるかよッ!」
リンが足を踏ん張り、舵棒を力任せに引き絞る。 だが、波頭の泥壁が目前に迫ったその瞬間、濁流の飛沫を突き破って現れたのは、自然の猛威だけではなかった。
鼓膜を針で刺すような、粘膜が擦れ合う湿った金切り声が、濁流の唸りに混ざって大気を震わせた。 人間の耳朶には決して馴染むことのない、不吉極まりない水生魔獣の凶兆の咆哮。 高濃度のマナ毒と逆流に巻き込まれ、狂乱した汽水域の群れが、泥壁の頂から水面を割って宙へと弾け飛んだのだ。 跳ね上がったのは、数十匹に及ぶ【ポイズンスパイク・ダーター】――青黒くぬめった体躯に無数のガラス質な毒針を逆立てた、跳躍性の有毒棘魚の群れ。さらに、ボートの吃水線の木板へ、水底から伸びた黒褐色の巨大なハサミが、無機質な鉄器同士が打ち合わされたかのような甲高く硬質な音を立てて噛みついた。全幅二メートル近い甲殻魔獣、【ヘドロシザー】が両舷から這い上がってきたのだ。
「ちっ、ドブ底の雑魚どもが群れてんじゃねえよ!」
舌打ちとともに、リンの口元から凶暴な八重歯が覗いた。 躊躇は一秒たりともない。 少女は舵棒から手を離すと同時に、手首のバンデージを力任せに歯で引き締め、低く腰を沈めた。電光石火の踏み込み。 『瞬歩・飛燕脚』。 木製の船べりを爪先で蹴り抜き、慣性を完全に置き去りにした少女の身体が、水面すれすれを低空滑走する。 ボートを傾かせていたヘドロシザーの頭上へ滑り込むと、リンは腕を振りかぶることすらなく、吸い付くように黒く分厚い背甲の上へと小さな掌を重ね合わせた。
――『浸透勁・砕霊掌』。
手のひらと甲殻の接点から、くぐもった衝撃波の破裂音が抜けた。 岩をも砕くはずの重装甲には、傷一つついていない。だが次の瞬間、甲殻の内側からドロリとした汚泥と内臓の泡が噴き出し、巨蟹の脚から一瞬で力が抜けた。装甲を透過して中枢神経を直接破砕された怪物は、そのまま重い鉄塊のように水底へ沈んでいく。
「一匹ッ! 眼鏡、舟を支えろ!」
「言われなくてもやってますよ野蛮人ッ!」
ルシアンは手帳の余白へ魔導ペンを叩きつけ、青白い数式を虚空へ励起させていた。 魔導杖の先端から展開されたのは、幾何学模様を描く多重の反発陣式。
『――風水複合連鎖・気流反発障壁!』
ボートの底面と両舷の大気が急速に断熱圧縮され、不可視の空気の浮袋となって船体を包み込む。激しい泥波の衝撃が数理の反発力によって相殺され、横転しかけていた木舟が、奇跡的な水平姿勢を取り戻した。 続けざまに青年はワンドを水平に薙ぐ。 不可視の真空刃――『指向性真空刃』の扇状の嵐が、空中を飛び跳ねていたポイズンスパイク・ダーターの群れを次々と叩き落としていく。
だが――空を覆う魚の数は、あまりにも多すぎた。
空中で身をくねらせた数十匹のダーターが、その背鰭から一斉に無数の毒針を乱射したのだ。 降り注ぐのは、皮膚に刺されば激しい神経麻痺と壊死をもたらすガラス質の針の豪雨、そして海嘯の波頭から飛散する、酸性のマナヘドロの飛沫。 ルシアンの風の障壁は、ボートを支える力学演算で手一杯だ。微小な無数の針と液滴までは、完全に防ぎきれない。
「くっ……防ぎきれない、頭を伏せなさいッ!」
ルシアンの悲鳴のような警告が響いた、まさにその瞬間だった。
「――させません……っ!」
舳先で、凛とした少女の声が空気を震わせた。 フィリアだった。 十六年間、誰かのために痛みに耐えて首を垂れることしか許されなかった少女が、自らの足でしっかりと舳先に踏み留まっていた。 荒れ狂う川風と水飛沫に煽られ、純白のケープが激しく翻り、朝焼けの光を織り上げたような美しい桜金色のサイドテールが、生き物のように空へとたなびいている。 その手には、胸元から外した偏光クリスタルが力強く掲げられていた。
(もう二度と、誰かが犠牲になる姿なんて見たくない……! 私が、皆さんをお守りするんです……!)
エメラルドの瞳を固く閉じ、少女が祈りを解き放つ。 その瞬間、クリスタルの屈折面から爆発的に溢れ出したのは、第一節の酔い止めとは比較にならないほど濃密な、息を呑むほど透き通る【桜金色の燐光】だった。
『――聖域結界・白百合の殻』
ふわり、と。 巨大な光の大輪が咲き誇るように、ボート全体を完全な球体となって包み込む、柔らかな光膜が展開された。 直後、降り注いだ無数の毒針と有毒な泥水が、その桜金色の結界へと激突する。 白い煙が激しく立ち上り、触れた毒針は瞬時にその有毒成分を分解され、ただの無害なガラス粉となって虚空に溶けていく。浴びせられたヘドロの飛沫も、桜金の光に触れた瞬間に猛毒の重金属が濾過され、清澄な純水へと還元されて、結界の表面をさらさらと滑り落ちていった。
「……馬鹿な、大気中の全毒素マナを無詠唱で瞬時に中和・濾過した……!?」 ルシアンが瞠目し、眼鏡の奥で息を呑む。 生贄として搾取されるためではなく、仲間を守るための盾として――フィリアの固有権能が、いま初めて能動的に開花したのだ。
だが、安堵の息を吐く猶予すら許されなかった。
結界の外側、ボートの直下の濁った水底で、日光すら遮断するほどの巨大な漆黒の影が、底知れぬ深淵から凄まじい速度で急浮上してきたのだ。
水面が異常なドーム状に盛り上がり、直後、押し上げられた数千トンの水塊が爆発するように四方へ弾け飛んだ。 水煙のカーテンを引き裂いて姿を現したのは、体長六メートルを超える汽水の大蛇――【マッド・リヴァイアサン(幼生)】。 海嘯の濁流に煽られて完全に狂乱した怪物は、神聖な燐光を放つボートごと丸呑みにせんと、黒泥に塗れた大顎を天に向けて開き、三重に並ぶ鋭利な牙を剥き出しにして、巨塔が倒壊するかのような落差で頭上から急降下してきた。
「アリアッ!」 リンが叫ぶ。 だが、白銀の少女はすでに動いていた。
「遅いわよ、大蛇ッ!」
アリアの全身を巡る『蒼血』が、瞬間的に生体マナを臨界まで沸騰させた。 少女は舳先の木枠を蹴り、巨大な大顎の直下へと、自ら吸い込まれるように飛び込んだ。 手にするのは、腰から逆手に抜き放った一本の【儀礼用白銀短剣】。 リーチの圧倒的不利。だが、アリアの足捌きはそれを完全に無意味なものへと変えていた。
――始祖原水流・水面抜き(みなもぬき)。
噛み砕こうと迫る牙のわずかな隙間、相手の重心が沈み込むコンマ数秒の死角へ、滑るように肉薄する。 白銀の刃先が一閃した。 怪物の硬質な鱗の継ぎ目――頭蓋と頸椎を繋ぐ極小の神経節へと、吸い込まれるように短剣の切っ先が深々と吸い込まれていく。 断末魔の啼き声すら上げられず、巨竜の全身から一瞬で力が失われた。 アリアは空中で短剣を引き抜くと、脱力した巨竜の鼻先を足裏で強く蹴りつけ、その反動を利用してボートの舳先へと軽やかに舞い戻った。 絶命した大蛇の巨躯が、横倒しになって濁流へと没していく。
だが、最大の危機はその直後に待ち構えていた。 倒した魔獣の背後から迫る、逆流海嘯の本体――高さ四メートルの泥壁と、本流との激突によって生じた巨大な渦潮が、口を開けて待ち構えていたのだ。
「舵が効きません! 渦に呑まれます!」
リンが歯を食いしばって舵棒にしがみつく。
「突破不可能です、衝撃に――」
ルシアンが叫びかけた、その刹那だった。
(……あ)
アリアの菫色の双眸が、ふと、異様な光景を捉えていた。 視界の中で激しく荒れ狂う泥水と、反発し合う激流の奔流。 そのカオスのような濁流の衝突点の中に――奇妙なことに、水流の圧力が奇跡的に相殺され、摩擦がゼロになっている「一本の極細い光の筋」が、くっきりと浮かび上がって視えたのだ。
まるで、誰かが水底から糸を引いて、「ここを通れ」と手招きしているかのように。
考える暇はなかった。 アリアの身体が、思考よりも先に本能に従って動いていた。
「リン、舵を右へ一杯! あたしに合わせなさいッ!」
アリアは舳先から身を翻すと、リンの横へ飛び込み、二人で舵棒を力任せに引き倒した。 激流の猛烈な横圧力に晒され、ボートの竜骨と船板の継ぎ目が、今にも破断せんばかりに軋み、悲鳴のような乾いた音を響かせる。 だが、ボートは渦の呑み込む力に引きずられることなく、アリアの目に視えた「光の筋」の上へと滑り込んでいた。
遠心力と水流の反発が船体を猛烈に押し出し、ボートは渦の引力をまるで踏み台にするようにして加速する。 泥壁のわずかな裂け目、水流の継ぎ目を矢のようにすり抜け、ボートは激流の斜面を滑走しながら、泥壁の頂を飛び越えるように宙を舞った。
船底が水面を叩き、激しい飛沫が四方へ円環を描いて散る。 船体は激しく揺れながらも浮力を保ち、海嘯の泥壁の背後――波の収まった下流の水面へと、無傷で着水を果たしていた。
荒れ狂っていた濁流のうねりは遥か上流へと去り、ボートの周囲には、夕暮れの淡い朱色を穏やかに反射する、静かな川面だけが広がっていた。
「……は、ぁ……っ! げ、ほっ……!」
ルシアンは青ざめていた顔を両手で覆い、指の隙間から、信じられないものを見る目でアリアを凝視した。息を整えながら歪んだ眼鏡のブリッジを押し上げるその指先は、恐怖と困惑で微かに震えている。
「……信じられません。乱流力学の観点から言えば、あの渦の縁は最も流速が不安定で、転覆確率が九割を超える難所でしたよ……! なぜあそこが抜け道だと分かったのですか? どんな数理モデルを用いても、あんな航路は導き出せない……!」
学者のプライドと常識を完全に崩壊させられ、眉根を寄せて詰め寄るルシアン。 対するアリアは、短剣の刀身を袖で拭いながら、きょとんと菫色の瞳を丸くしていた。 そして、何がそんなに不思議なのか言わんばかりに、小首を傾げてあっけらかんと笑ったのだ。
「え? ……うーん、なんか、あそこを通れって水が呼んでる気がしただけだけど……?」
「は、呼んでいた……!? そんな非論理的な感覚で僕たちの命を賭けたのですか!?」
ルシアンは絶句し、今にも卒倒しそうに天を仰ぐと、胃の腑を押さえて深いため息を落とした。 その大真面目な狼狽ぶりを見て、アリアはぷくりと頬をリスのように膨らませ、唇をへの字に曲げて開き直る。
「結果オーライじゃない! ちゃんと無傷で抜けたんだからいいでしょ!」
「ぎゃははははッ!!」
二人のやり取りを見ていたリンが、たまらず腹を抱えて船板を叩きながら大爆笑した。琥珀色の瞳を細め、八重歯を剥き出しにしてアリアの背中をバシバシと景気よく叩く。
「最高だぜ! さすがアタシのダチだ、相変わらず理屈抜きの野生児だな!」
「痛いわよリン! もう、揃いも揃って……!」
文句を言いながらも、アリアの口元には隠しきれない笑みがこぼれていた。 その横で、フィリアも胸元にそっと手を当て、「ふふっ……皆さんご無事で、本当によかったです」と、夕暮れの光の中で柔らかく目を細めて微笑んでいた。
やがて、茜色だった空は急速に藍色へと沈み、川面には濃紺の夜の帳が降りていった。 激闘の緊張が解けた船上を、静かな夜風が渡っていく。
「……ふぁ……ぁ……」
アリアの口から、小さな欠伸が零れた。 朝からの大演説、脱出の跳躍、そして未知の感覚を研ぎ澄ませた激戦の疲労が、潮が満ちるように全身へと押し寄せてくる。 少女は舳先の縁に腰掛け、船べりの木枠へと、コクリと頭を預けた。
「アリア様……? お疲れになられたのですね」 フィリアが心配そうに声をかけるが、アリアの長い睫毛はすでに静かに伏せられていた。 寝息を立て始めた少女の寝顔は、戦場で牙を剥く戦士のそれではなく、年相応のあどけない少女の無防備さに満ちている。
フィリアはそっと微笑むと、自分の純白のケープを外してアリアの肩へと優しく掛け直した。 ボートは夜の静寂の中、東の汽水域へと向けて音もなく滑っていく。
誰にも気づかれぬまま―― 微睡むアリアの首元、スカーフの奥深くで。 皮膚に刻まれた『原初の勇者の聖痕』が、トクン、トクンと、哀しく温かな七色の虹色を帯びて、静かに脈動を始めていた。
(幕間・断片追憶『フリッカー・メモリー』へ続く)




