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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第九話:『東方逆流と泥濘の邂逅』 第一節:大河の流下と、白百合の初陣

 旧排水シャフトの暗渠を抜けた瞬間、四人の視界を埋め尽くしたのは、息を呑むような白光の奔流だった。 暗い地下水路の湿気と汚泥の臭気が、一瞬にして千切れ飛ぶ。

 飛び出した木製ボートの舳先が切り裂いたのは、帝都アルシリアの中央を貫き、東の地平の果てまで大地を潤す幹線大動脈――『アルス大河』の本流だった。 視界十里、見渡す限りの水面が朝陽を浴びて白銀に波打っている。

 川幅は優に四キロメートルを超え、対岸に連なる原生林の針葉樹群は、朝靄の彼方で青緑の細い帯となって霞んでいた。

 頭上を覆っていた息詰まる白亜の天蓋ドームはすでに遥か後方。そこに広がっていたのは、絵具を溶かしたようにどこまでも高く、深く澄み渡った、本物の天穹の蒼だった。

 水深百メートルを超える水底からは、神樹直下の聖杯湖から湧き出たばかりの清澄な原水マナが、無数の気泡となって立ち上る。風が吹くたび、水面から跳ね上がった飛沫が霧となって舞い散り、白鳥や翡翠色の水鳥の群れが、ボートの航跡を追うように翼を広げて天へと駆け上がっていく。

「ふぅ……っ! ここまで流されれば、さすがの近衛兵たちも舟を出して追ってこれないわね!」

 舳先の縁に腰掛け、アリアが大きく息を吐き出した。

 手入れの行き届いた白皙の額に張り付いた白銀の前髪を、清冽な川風が乱雑に撫で上げていく。

 少女は息をつく間もなく、太ももの革ホルダーから儀礼用白銀短剣を引き抜いた。

 バルコニーから飛び降りる際に大雑把に切り裂いたままだった、宮廷正礼装ドレスの裾。足さばきの邪魔になる引き裂かれたシルクのフリルや重厚なパニエの残骸に刃先を当て、迷いのない手際で軽やかに削ぎ落としていく。

「おいアリア、これ使いな」

 舵棒を足で器用に押さえながら、リンが懐から放り投げたのは、手入れの行き届いた藍と朱の予備の道着の腰布だった。

「助かるわ!」

 受け取った布を裂き、アリアは露わになった自らの太ももと膝上をキュッと引き締めるように縛り上げて機動性を確保する。

「あ、あの……アリア様。少し、お手伝いさせていただけますか……?」

 後ろから、さざ波のように控えめで、柔らかな鈴の音のような声が掛かった。

 振り返ると、膝をついて身を寄せてきたフィリアが、おずおずと両手を伸ばしていた。

 水飛沫に濡れた桜金色のサイドテールが、川風にふわりと揺れている。十六年間の過酷な魔力抽出から解放されたばかりの少女の身体はまだ華奢で痛々しいほどだったが、そのエメラルドの双眸には、アリアの役に立ちたいという切実な光が宿っていた。

「ええ、お願いするわ。背中のリボン、手が届かなくて」

 アリアが背中を向けると、フィリアの細く滑らかな指先が、ドレスの背筋の留め具へとそっと触れた。

 揺れる木舟の上、二人の少女の肩が触れ合い、互いの体温と微かな吐息が交差する。

 フィリアの手つきは驚くほど丁寧だった。

 窮屈だった背中の絹紐を緩めて結び直すと、少女はボートの隅に落ちていたルシアンの予備の濃紺外套の端切れを拾い上げた。それを丁寧に折り畳むと、アリアの細い首元――皮膚の奥でトクン、トクンと淡い七色の虹色を放ち続ける『原初の勇者の聖痕』の上へと、壊れ物を包むようにそっと巻き付けていく。

「……これで、外からは見えなくなりました。とても神聖で、美しい光ですが……追手や街の人に見られれば、無用な騒ぎになってしまいますから」

「ありがとう、フィリア。気が利くのね」

 アリアが振り返り、至近距離で破顔した。

 少女の屈託のない笑顔に触れた瞬間、フィリアの頬がポッと薄紅に染まり、胸元で両手をぎゅっと握りしめて照れたように俯いた。

「げ……ほっ……! う、うぐぅ……っ!」

 そんな華やかな空気を台無しにするように、船底から無様な呻き声が響いた。

 見下ろせば、青革の魔導書を胸に抱きしめたルシアンが、顔から血の気を完全に失い、白目を剥いて丸太の敷板に突っ伏していた。

「頭蓋の骨の奥で……数理モデルの位相が激しく反転している……っ。水流の不規則な揺動周期が三半規管を乱し……それに、先刻の……その……ふ、不可抗力の事故が……っ!」

 青年の白い肌は、乗り物酔いと、直前にリンの太ももの内側へ顔面から突っ込んだ羞恥の記憶がフラッシュバックしたせいで、土気色と真っ赤を行き来して凄まじいことになっていた。

「あン? いつまでもウジウジ引きずってんじゃねえよ!」

 リンが腕を組み、八重歯を剥き出しにして仁王立ちになると、無慈悲にも自慢の剛腕を振り下ろした。

 バシィィィンッ!

「ぎゃふんッ!? は、肺胞が……肺胞の空気がすべて強制排気されました……っ!」

「背筋を伸ばしな、モヤシ眼鏡! 減るもんじゃねえだろ! 男のくせにウジウジしやがって、根性叩き直してやる!」

「叩き直す前に僕の肋骨が粉砕されますよ野蛮人ッ!!」

「はいはい、二人ともそこまで!」

 アリアが苦笑しながら割って入ろうとした、その時だった。

「あ、あの……ルシアン様。少しだけ、じっとしていていただけますか……?」

 フィリアがおずおずと膝立ちのまま歩み寄り、船底で痙攣する青年の前へとしゃがみ込んだ。

 戸惑うルシアンの額とこめかみに向け、少女が自らの小さな両の掌をそっとかざす。

『――深緑の静謐、平らかなる波紋をここに』

 フィリアが唇を微かに震わせて祈りを紡いだ瞬間、少女の手のひらから、淡く温かな桜金色の燐光がふわりと溢れ出した。

 それは神樹の強制的な加護などではない、少女の魂から滲み出る純粋な治癒の波長。

 柔らかな光の粒子がルシアンの額から首筋へと染み渡っていくと、ドクドクと脈打っていたこめかみの血管が静まり、激しい乗り物酔いと胃の粘膜の痛みが、まるで朝露が陽光に溶けるように一瞬で消え去っていった。

「……え……?」

 ルシアンは呆然と瞬きをし、自らの胃の腑に手を当てた。

 重く鉛のようだった頭蓋が嘘のように軽くなり、呼吸が驚くほど滑らかに通っている。青年は歪んでいた眼鏡のブリッジを慌てて押し直すと、目の前の少女を見上げ、感涙でネイビーブルーの瞳を潤ませた。

「……あ、ありがとうございます、フィリア様……! やはり貴女だけです、このパーティーにおいて知性と理性を持ち合わせた唯一の救いは……! 暴力しか能のない野蛮人やじゃじゃ馬とは大違いだ……!」

「んだとコラ、もう一発ド突かれたいのか!?」

「事実を述べて何が悪いのですか!」

 リンが拳を振り上げ、ルシアンが魔導書を盾にして身を縮める。

 その騒がしいやり取りを前に、フィリアは口元に手を当て、「ふふっ……仲がよろしいのですねぇ」と小首を傾げて愛らしく微笑んでいた。

 ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ〜……。

 その温かな空気を切り裂いて、船板を震わせるほどの盛大な重低音が鳴り響いた。

 全員の視線が一斉に一点へと集まる。

 アリアは両手でお腹を押さえ、耳たぶまで真っ赤に染め上げながら、目を丸くして宙を睨みつけた。

「な、何よ! 朝から大聖堂で大演説ぶち上げて、ドレス引き裂いて地上百メートルから飛び降りたのよ!? お腹が空くのは生理現象として当然でしょ!」

「誰も責めてねえよ! ぎゃはは、むしろ鳴らねえ方が不気味だぜ!」

 リンが豪快に笑い飛ばすと、ボートの座席の奥、浸水を防ぐために防水布で幾重にも巻かれていた荷物の塊を引きずり出した。

 無造作に結び目を解くと、中から現れたのは、青々とした香りを放つ大きな竹皮の包みだった。

「ほら、オヤジが持たせてくれたんだよ。『お城の姫様を連れ回すなら、干からびさせるんじゃねえぞ』ってな」

 竹皮を開いた瞬間、湯気こそ立っていないものの、暴力的なまでに食欲を刺激する素朴な匂いが風に乗って広がった。

 包まれていたのは、大人の握り拳よりも二回りほど大きな、粗塩をたっぷりとまぶした麦飯のむすびが四つ。そしてその脇には、下町の名物である大河の汽水魚を、大豆ダレと桜の木のチップでじっくりと燻製にした黒褐色の干し肉が、竹串に刺さって何本も詰め込まれていた。

「オヤジさん……こんなものまで用意してくれてたのね」

 アリアの目が輝いた。

 リンから渡された大ぶりの麦飯むすびを、アリアは両手で受け取ると、躊躇なく大きな口を開けてガブリと齧り付いた。

「んん〜っ……! おいしい!」

 冷めているはずの麦飯は驚くほど噛み応えがあり、表面に振られた粗塩の強烈な塩気が、激しい疲労で渇き切っていた舌の上へダイレクトに染み渡っていく。続けて齧った魚の干し肉は、噛み締めるたびに濃厚な脂と燻製の香ばしい煙の風味がジュワリと口いっぱいに溢れ出した。

「フィリア様も、どうぞ。宮廷の豪勢な料理とは比べ物になりませんが……味の保証だけは僕も認めますよ」

 ルシアンが苦笑混じりに竹皮を差し出すと、フィリアはおずおずと小さな両手でおむすびを包み込んだ。

 生まれてから十六年間、大聖堂の奥で与えられていたのは、神聖儀礼に則った味のしない無菌の配給粥と、薬品のように無味乾燥な栄養水だけだった。

 少女は少し緊張したように息を呑み、小さく口を開けて、麦飯の端をそっと齧った。

「…………っ!」

 フィリアのエメラルドの瞳が、驚きに大きく見開かれた。

 舌の上を走る、塩の刺激。大地の土が育てた麦の力強い甘み。

「……おい、しい……。お塩って、こんなに……温かい味がするのですね……」

 両手でおむすびを大切そうに抱え直し、もぐもぐと小さな口を動かしながら、少女の顔にふわりと花が咲くような至福の笑みがこぼれた。

「だろ? スラムの飯は生きるための飯だからな! 遠慮しないで肉も食いな!」

 リンが干し肉をフィリアの手元へ押し込み、四人は揺れる小舟の上で、肩を寄せ合いながら素朴な食事を分け合った。

 背後を追う近衛兵の靴音も、教会の張り詰めた欺瞞もない。ただ、風の音と川のせせらぎに包まれながら、気の置けない仲間と同じ飯を食い、笑い合う時間。

 命懸けの逃避行の只中にあるとは思えないほど穏やかな安らぎが、四人の心を芯から解きほぐしていくようだった。

 食事が終わり、竹皮を畳み終えた後。

 フィリアは静かに立ち上がると、風が吹き抜けるボートの舳先へと、吸い寄せられるように歩み出た。

 純白の重装ローブの裾が、飛沫を含んだ川風にパタパタと激しく煽られる。

 少女は舳先の木枠に両手をかけ、水平線の彼方まで広がる本物の青空を見上げた。

 差し込む陽光は、大聖堂の結界が編み出す偽りの七色ではなく、肌をじわりと温める黄金の光。フィリアは細い首筋を伸ばし、その清冽な大気を肺腑の底までいっぱいに吸い込んだ。

 そして、震える白く華奢な右手を、ボートの縁から下へとそっと伸ばす。ピチャリ、と指先を弾いた水飛沫の感触。

「……冷たい……」

 フィリアの唇から、掠れた吐息がこぼれ落ちた。

「大聖堂の、あのお薬のような清めの水とは違います……。草の匂いがして、土の匂いがして……生きている、命の匂いがします……」

 指先から伝わってくる、荒れ狂う大河の脈動。

 それは、十六年間の長きにわたらり、冷たい地下の祈祷室で誰かの身代わりの部品として命を吸い取られ続けていた少女が、生まれて初めて触れた「世界そのものの生体熱」だった。

「私……本当に……外へ、出られたのですね……」

 ぽろり、と。

 フィリアの丸いエメラルドの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

 一度溢れ出した雫はもう止まらず、陶器のように白い頬を伝い、顎の先から煌めく飛沫となってアルス大河の波間へと散っていく。

 もう、誰かのために自分の命を薪にして笑う必要はない。

 暗い檻の底で一人震えながら、死ぬことだけを待つ時間も終わったのだ。

 いま自分は、自分の足で立ち、自分の肺で本物の風を吸い、自分を命懸けで愛してくれる仲間たちと共に、この世界の光の中に生きている。

 胸の奥から突き上げてくる途途もない解放感と、言葉にならない感謝が、華奢な少女の肩を激しく震わせていた。

「――フィリア」

 背後から、温かな気配が寄り添ってきた。

 振り返る間もなく、アリアのしなやかな両腕が、震えるフィリアの小さな身体を後ろからふわりと包み込んだ。

「アリア、様……っ」

「言ったでしょ。あんたを絶対に、あの檻から連れ出してあげるって」

 アリアはフィリアの濡れた頬に自らの顔を寄せ、その冷たく震える小さな手を、自らのタコだらけの掌で力強く包み込んだ。

 指と指を深く絡め合わせる。

 伝わってくるのは、互いの血管を巡る力強い命の鼓動。

「泣いてもいいのよ。でもね、これからは悲しくて泣くんじゃないわ。美味しいものを食べて、綺麗な景色を見て、くだらないことで大笑いして……そうやって、あたしたち自身の世界を、一緒に生きていくのよ」

「……っ、はい……! はい……っ!」

 フィリアはアリアの胸元に顔を埋め、子どものように声を上げて泣き崩れた。

 アリアはその背中を優しく、何度も何度も撫で続ける。

 その傍らで、リンが眩しそうに八重歯を覗かせて二人の頭をぽんぽんと叩き、ルシアンはそっぽを向いて眼鏡のブリッジを直しながら、手元の魔導書をそっと閉じて静かに見守っていた。

 四つの魂が、大河の風の中で、一つの揺るぎない絆となって結ばれ直した瞬間だった。

 ボートは激しい水飛沫を蹴立て、順調にアルス大河を下流へと滑走していく。

 だが――

 感動の涙に包まれていた船上の空気を揺らすように、遥か前方、東の水平線の底から、不吉な地鳴りのような重低音が、微かに風に乗って流れてきていた。

(第二節へ続く)

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 アルス大河

挿絵(By みてみん)

いよいよ4人で外の世界へ!

今回はほのぼの回です。次回もよろしくお願いします!

※しばらくはカクヨム側の投稿優先しますので、こちらはペースダウンします。

カクヨム側が追い付いたら、毎日1エピソードを目安にアップしていけたらと思います。

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