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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第十話:『泥濘の掟と、黒潮の頭目』 第一節:塩焚きの湯気と、抜き身の切っ先

足を踏み出すたび、泥水を含んだ腐食板が鈍く軋んだ音を立て、靴底に粘土質の重みが絡みついてきた。 桟橋の先へと続く路地は、外郭スラムの裏通りすら生温く思えるほどに混沌としていた。 両脇にひしめき合うのは、黒マングローブの巨根の上に無骨な角材を継ぎ接ぎして建てられた高床式の浮き小屋群。その狭隘(きょうあい)な隙間を縫うように、幾つもの鉄製大釜が据え付けられ、干潟の濃縮汽水が薪の猛火によって絶え間なく煮えたぎらされている。 もうもうと立ち上る白い蒸気。吸い込むだけで喉の奥がチクチクと熱く焼けるような、強烈な塩分を含んだ煙だった。

ルシアンは彫刻めいた端正な顔立ちを無残なまでに歪め、青ざめた肌に脂汗を滲ませながら、胃の腑を押さえて激しく咳き込んだ。

「……っ、げほっ……! 結晶塩の飛沫に、魔獣油脂の不完全燃焼煙……! 呼吸器系粘膜への攻撃性が高すぎますよ……!」

即座に濃紺の外套の襟を引き上げ、手巾で鼻腔を固く押さえながら、酷く歪んだ眉間を指先で揉みほぐす。その足取りは、泥濘の滑りやすさと先刻の船酔いの余波で、生まれたての小鹿のように覚束ない。

その隣で、フィリアはおずおずとアリアの破れたドレスの裾を掴みながら、見るものすべてに目を丸くして、落ち着かなげに視線をあちこちへ彷徨わせていた。 軒先に吊るされた黒ずんだ怪魚の開き、大釜の火を掻き立てる煤だらけの男たち、泥にまみれた板の上を這い回る奇妙な甲殻類――大聖堂の無菌室で育った少女にとって、視界に飛び込む光景のすべてが未知の驚きに満ちている。 少女は悪気のない純粋な感嘆をエメラルドの瞳に輝かせ、きょろきょろと首を巡らせながら、ふわりと唇を綻ばせた。

「皆さん……泥だらけになって、煤に汚れながら……とても力強く、命を繋いでいらっしゃるのですね」

「ああ。帝国の連中が『ドブ底の穢れ』と呼んで唾を吐く場所だが……ここにあるのは、純度百パーセントの現実だ」

リンが鼻先を軽く鳴らし、警戒を怠らぬ足取りで先頭を進む。 日々の鍛錬で培われた重心の低さは、ぬかるんだ腐食板の上であっても寸分のブレを見せない。

その背後を歩くアリアの胸の奥底には、不思議なざわめきが静かに居座り続けていた。 肌を撫でる湿った風、喉を刺す塩の辛さ、そして魚の脂が焦げるこの重たい匂い。 直前の微睡みの中で触れた、あの焚き火の情景――見知らぬ黒髪の少年が、真剣な横顔で魚の小骨を外してくれたあの記憶の温もりと、この街の空気が、まるで一本の不可視の糸で縫い合わされたかのように重なり合っていたのだ。

(……あの人は、もしかして……ここで暮らしていた人なのかな……?)

少女が自らの首元、スカーフの奥で微かに熱を帯びる聖痕へと触れようとした、その時だった。

すっ、と。 気配を殺した複数の影が、小屋の影や泥舟の舳先から音もなく滑り出し、十字路の四方を塞いだ。

「――そこまでだ、余所者」

低く、濁った声が湿った空気を断ち切った。 立ち塞がったのは、五名の屈強な男たち。 いずれも潮風と塩煙で浅黒く灼けた肌を持ち、体表には水生魔獣の爪痕や刺青が刻まれている。身に纏うのは鞣(なめ)した魔獣皮の粗末な鎧。その手には、泥底の怪魚を仕留めるための三叉の漁撈(ぎょろう)ヤスや、分厚い骨を断ち割るための長大な解体包丁、錆びた山刀が、寸分の迷いもなく水平に構えられていた。

男たちのリーダー格――頬から顎にかけて黒い刺青を刻んだ男が、アリアたちを頭の先から爪先まで舐め回すように見据えた。 その濁った瞳に宿るのは、好奇心などではない。侵入者を骨まで解体して泥に沈めるための、研ぎ澄まされた警戒と殺気だった。

「東の境界水門が派手にへし折れて大騒ぎだってのに……随分と上等な絹を羽織った、小綺麗なガキどもが迷い込んできやがったな」

男の視線が、アリアの破れたドレスの上質な生地、アンドフードの隙間から覗く透き通るような白銀の髪へと固定される。

「帝国の間者か? それとも……身代金がたんまり取れそうな、貴族の落としだねかい?」

切っ先が、音もなくアリアの喉元数寸へと突きつけられた。 鋼の冷たい殺気が、少女の鎖骨の皮膚を刺す。

「ひ、っ……!」 背後でフィリアが息を呑み、反射的にアリアの背中へと身を隠した。 ルシアンの指先が、外套の内側の魔導杖へと静かに滑り落ちる。

だが――男たちの間合いを真っ向から踏み潰したのは、他ならぬリンだった。

一歩。 足裏が腐食板を鋭く捉え、体重のすべてが前へと滑り込む。 リンは右手首のバンデージを力任せに引き絞り、琥珀色の瞳を獲物を見据える野獣のように細めると、全身から針のような闘気(生体マナ)の圧を無言で解き放った。

空気が、一瞬にして凍りつく。

「刃先の向きに気をつけな、兄ちゃんたち」

低く、ドスの利いた声音。 下町スラムの地下リングで何百人もの修羅場を潜り抜けてきた少女だけが放てる、純度百パーセントの暴力の気配だった。

「あたしゃ帝都下町のリンだ。こいつらはあたしの連れで、アンタらのシマを荒らしに来たわけじゃねえよ。……そのヤスを引っ込めねえなら、肘の関節ごとへし折って干潟に沈めるが……どうする?」

「なっ……!?」 男たちの眉が跳ね上がった。 小柄な少女から放たれる、およそまともなカタギとは思えない獰猛な闘気の質密度。男たちの指先が、無意識にヤスの柄の上で硬直する。

その張り詰めた空気の隙間へ、さらにもう一歩、堂々と踏み出した影があった。

アリアだった。 少女は喉元に突きつけられた解体包丁の刃先を払うことすらなく、むしろ自ら間合いを一寸詰めるようにして胸を張った。 そして、外套のフードを勢いよく後ろへ跳ね除ける。

ふわりと広がった、月光を紡いだような白銀のポニーテール。 夜明けの東天を宿した澄んだ菫色の瞳が、燃え盛る烈火の光を宿して男を真っ直ぐ射すくめていた。

「帝国の間者ですって? あんな腐った連中と一緒にしないで」

凛と通った鈴の音のような声が、塩焚きの煙を真っ向から切り裂いた。

「あたしたちは国から逃げてきたんじゃない。東から迫ってるあの化け物どもに、あんたたちの街を好き勝手踏み潰させないために来たのよ! ……コソコソ隠れてる暇なんてないわ。この街の親玉に会わせなさい!」

威風堂々たる戦姫の啖呵。 着ている服は破れ、泥に塗れていようとも、骨の髄から滲み出る圧倒的な気品と、死線を恐れぬ剥き出しの胆力。 男たちは息を呑み、気圧されたように半歩後ずさった。

若衆のリーダーが歯を食いしばり、再びヤスを握り直そうとした――その刹那だった。

カツン、と。 硬質な小石のようなものが頭上から正確に放たれ、男のヤスの柄を弾いた。

衝撃で切っ先が逸れ、泥水の中へと鈍く突き刺さる。

「……そこまでにしな、若造ども」

乾いた、煙草のヤニで嗄れた低い男の声が、小屋の屋根の上から落ちてきた。

煙のカーテンを押し分けて姿を現したのは、擦り切れた革前掛けを締め、腰に何本もの解体針を帯びた、片目の潰れた無骨な中年男だった。

男は屋根から音もなく泥板の上へと飛び降りると、咥えていた真鍮キセルから細い灰を落とし、冷淡な眼差しで若衆たちを見下ろした。

「相手をよく見ろ。手足の運びも目つきの座り方も、ただの温室育ちの箱入り娘じゃねえよ。……水路の掟を忘れたかい。『獲物は余すな、身内以外と無駄な私闘はするな』だ」

「ですが、頭領補佐……! こいつら、水門の向こうから――」

「頭(ガラ)がお待ちかねだ」

男の静かな一言が、若衆たちの反論を完全に圧殺した。 男はキセルを腰の帯へ差し込むと、アリアたちへと視線を向け、値踏みするように一度だけ小さく顎をしゃくった。

「ついてきな、余所者のお嬢さん方。……うちの頭が、直々にツラを拝みたいそうだ」

若衆たちが忌々しそうに舌打ちをしながら道をあけ、刃を収めていく。 男の背中に従い、四人は粘土質の水路に組まれた浮き橋を渡り始めた。

煙の向こう――干潟の深奥にそびえ立っていたのは、泥濘に深く乗り上げ、巨大な肋骨のように天を突く超大型軍船の残骸『竜骨館』。 東の空から立ち上る黒煙を背に、四人は黒潮互助会の心臓部へと、足を踏み入れていった。

(第十話 第二節へ続く)


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