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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第八話:『新世代勇者パーティー出陣』 第二節:白銀の告発と、黄金の聖盤

 旧排水シャフトの暗がりを、一筋の疾風が切り裂いた。

 ルシアンの念話が左耳のクリップを微かに揺らした、コンマ数秒後。

 大聖堂地下の結界網に生じた、わずか十数秒の『逆流減衰(ブラインドスポット)』。その数理の隙間をすり抜け、地を滑るように現れたのは、オレンジブロンドのつむじ風――リンだった。

『瞬歩・飛燕脚』。

 音もなく祈祷室の敷石を滑走した少女の視界に、冷たい祭壇の前、血の気を失った顔で項垂れるフィリアの姿が飛び込んでくる。

 少女の背後に立つ二名の黒服の異端審問官が、気配を察知して袖口を蠢かせた。衣服の下から植物の生体筋腱が這い出し、黒ずんだ濁質杭が異様な肉擦れ音を立ててせり出す。だが、その迎撃の兆候が形を成すことすら、野生の獣は許さなかった。

「あたしたちの仲間(ダチ)に――汚ぇ手で触れてんじゃねえよッ!!」

 踏み込みの衝撃が大理石を穿ち、青白い『蒼気功』を纏った両拳が閃く。

 至近距離から叩き込まれたのは、装甲を透過して内腑を破砕する必殺の浸透打撃――『浸透勁・砕霊掌』。

 接触面から放たれた不可視の衝撃波が、二名の審問官の胸骨と中枢神経を寸分の狂いもなく貫いた。男たちは呻きを漏らす暇すらなく白目を剥き、弾丸のように後方の壁面へと吹き飛んで昏倒する。

 着地と同時に、リンは手刀に鋭利な気刃を宿らせ、水平に一閃させた。

 フィリアの首元や四肢に食い込んでいた極太の導魔管が、まとめて切り落とされて宙を舞う。

 絶え間ない吸い上げの激痛から解放され、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちかけるフィリアの華奢な身体。それを、リンの逞しくもしなやかな両腕が、しっかりと抱き留めた。

「フィリア、行くぞ! 抱えて水路までブッ飛ばす!」

 リンが叫び、踵を返そうとした、その刹那だった。

 激しい魔力枯渇で蒼白になり、肩で息をしていたフィリアが、弱々しく、だが決して折れぬ力で首を横に振ったのだ。

「リン様……待って……ください……」

「なっ……何言ってんだ! 十数秒しかねえんだぞ、早く逃げねえと!」

「今逃げれば……私は助かります。……でも、アリア様が……一人で、戦っておられます……!」

 フィリアのエメラルドの双眸に宿っていたのは、怯えではなかった。

 少女は震える指先で、祭壇の中央に鎮座する、百年間死んだように沈黙し続けていた苔むした石盤――『神託の聖盤』の冷たい縁を、ぎゅっと掴み取った。

 両手で大切に包み込んでいた、ルシアンの偏光クリスタル。その鉱石を、石盤の古代金属の幾何学溝へと直接押し当てる。

 教会の搾取装置に吸わせるためではない。

 誰かの犠牲の上に胡座をかく世界を壊すために、命を張って壇上に立つ、あの白銀の少女のために。

 少女の胸元から、蛍火のような淡い桜金の燐光が溢れ出した。それは透き通るクリスタルの屈折面を抜けるたび、幾重にも光脈となって枝分かれし、冷え切った石盤の幾何学溝へと水のように滑り込んでいく。黒ずんでいた古代金属の溝が、少女の生命の拍動と重なるように、トクン、トクンと温かな青白い光を帯びて息を吹き返し始めていた。

 ◇同刻、地上百メートル――白亜の天蓋バルコニー。

 数十万の民衆が祈りを捧げ、ドーム天井を満たすパイプオルガンの重低音が石畳を震わせる中、アリアは静かに両腕を持ち上げた。

 その顔には、背後の玉座に座る権力者たちを凍りつかせるような、冷徹で静かな覚悟の色が宿っていた。

 手元にあるのは、教皇庁が書き連ねた黄金の祝詞羊皮紙。

 民を欺き、偽りの神話を賛美するための、嘘で塗り固められた原稿。

 アリアは視線を落とすことなく、指先に力を込めた。滑らかな指先が羊皮紙の端を捉え、一切の迷いなく、静かに、ゆっくりと縦に二つへと引き裂いた。紙片の擦れ合う乾いた音が微かに落ちる。アリアは引き裂いた紙片を丁寧に重ね合わせると、さらに二つ、三つへと、端切れのように細かく千切り分けた。探して――両の掌を静かに開き、天蓋の風へと放り捨てた。ハラハラと、舞い散る銀箔の紙吹雪の中に混ざり、金文字の羊皮紙の破片が虚空へと吸い込まれていく。

 聖歌隊の少年たちの声が喉の奥で詰まり、奏者の指が鍵盤の上で凍りついた。

 オルガンの荘厳な旋律が不協和音を立てて途絶え、風の音と、香炉から立ち上る煙の微かな爆ぜる音だけが取り残される。

 車椅子の老聖帝が濁った目を剥き、教皇の脂ぎった顔から笑みが剥ぎ取られた。

 広場の信徒たちが掲げていた両腕を降ろし、歓声が潮が引くように掻き消え、大広間全体を、心臓の鼓動すら響きそうな異様な静寂が支配した。

 その静まり返った世界の中心で、アリアは背筋をすっと垂直に伸ばした。

 淑やかに重ねられていた両手を解き、バルコニーの大理石の手すりへと一歩、確かな足取りで進み出る。

 眼下を見つめる菫色の瞳から冷たい険しさがふっと消え去り、そこへ浮かび上がったのは、泥に塗れて今日を懸命に生きる民衆へ向けられた、どこまでも温かく慈愛に満ちた微笑みだった。

 アリアは肺腑の底から息を吸い込むと、体内に巡る『蒼血』の脈動を喉へと乗せ、凛とした声で広場の隅々へと語りかけた。

「アルシリアの民の皆様。どうか私の声に、耳を傾けてください」

 朝露を裂く清水のように澄み渡った声音が、静まり返る石畳を滑り、数十万の耳朶へと直接染み渡っていく。

 いつも下町で荒くれ者たちと笑い合い、誰よりも民の近くにいた末の姫君。その気品に満ちた真摯な呼びかけに、最前列の信徒から、身を乗り出す商人、遠巻きに見守る衛兵に至るまで、誰一人として口を開くことなく、息を呑んでその唇を見つめていた。

「私たちが日々口にし、この豊かな暮らしを支えている清らかな神水。それは畑の作物を青々と実らせ、病を遠ざけ、帝都に繁栄をもたらす無二の恩恵です。……ですが、皆様。その奇跡は、決して天から無償で注がれているものではありません」

 難しい術理も、教会の飾られた言辞もない。ただ、真実だけを伝えるための、平易で丁寧な言葉。

「この清らかな水は、東の海へ猛毒の汚泥を捨て、海の命と大地を窒息させることで、無理やりに買い支えられてきた代物なのです」

 息を呑む気配が、波紋のように広がった。

 大聖堂の破風に巣を作っていた無数の白鳩たちが、不穏な空気の揺らぎに怯えたように一斉に羽ばたき、バサバサと天蓋のドームへ向けて飛び立っていく。

 広場を埋め尽くす民衆がざわめき、日頃から下水の異臭に眉をひそめていた露天商たちが顔を見合わせ、貴族たちの顔から血の気が引いていく。

「そして今、その欺瞞のツケが回り、水門の元栓は目詰まりを起こし、私たちの足元にまで毒泥が溢れ返ろうとしています」

 アリアは言葉を切り、背後の教皇と老聖帝を静かに射すくめた。

「それだけではありません。教典には、百年前のクラリス様が美しい祈りによって世界を救ったと記されています。……ですが、それは偽りです。彼女は神樹の毒を一身に引き受けさせられ、命を使い潰されたのです」

 少女の声に、痛切な熱が宿る。

「そして今この瞬間も、大聖堂の地下深くでは、フィリアという名の一人の少女が、同じように血と命を削り取られながら薪にされています」

「誰かの命を踏み台にして貪る安寧を、私は誇るべき帝国の繁繁とは呼びません」

 アリアは左手を胸元へ当て、誇り高く宣言した。

「アルシリアの血を引く第七皇女として、皆様にお約束いたします。私はもう、この嘘の檻で微笑む人形には戻りません。皆様と共に泥をかぶり、真実の未来を掴み取るために歩みます」

「き、貴様……ッ!」

 沈黙を破ったのは、教皇の絞り出すような声だった。

 脂汗を浮かべた顔を激しい焦燥で歪ませ、黄金の司教杖を石畳へ叩きつける。

「衛兵、何をぼやけておるか! 殿下は乱心された、直ちに捕縛せよッ!」

 白亜の甲冑を纏った近衛兵たちが一斉に長槍を構え、アリアへ殺到しようと石畳を踏み荒らした、その瞬間――

 大聖堂の基礎そのものが、深海の底から鳴り響くような重厚な霊的唸りを上げた。足元の白大理石が微細に脈打ち、天蓋を支える石柱の継ぎ目から、淡い黄金の燐光が煙のように立ち上る。

 直後――大聖堂の最深部、地下祈祷室の直上から、天空を貫く光柱が静謐に解き放たれた。

 それは、教会の術式が編み出す人工の魔導光などでは断じてない。

 大気中のあらゆる穢れと不純物を消し去り、天蓋結界のドーム天井を白銀と黄金で染め上げる、息を呑むほど神々しく純粋な――【黄金の極光】。

「な……っ!? なんだ、この光は……!?」

 突撃しかけていた近衛兵たちが、圧倒的な神威の重圧に気圧され、槍を取り落として膝をついた。

 教皇は後ずさり、信じられないものを見るように目を見開いて震えた。その喉から、掠れた恐慌の声が漏れ出る。

「ば、馬鹿な……!? なぜ……なぜ『神託の聖盤』が起動しておるのだ……!?」

 教皇の手から、権威の象徴たる司教杖が甲高い音を立てて転がり落ちた。

「あの石盤は……神樹の教義などではない。この星の大地と生命が、真に世界を救う資格を持つ者にのみ呼応する太古の審判器……! 貴族の血統も、教会の聖別すら無視して選定される、原初の……!?」

 百年前、クラリスの祈りに応え、平民の釣り師レンを勇者として承認した奇跡の再現。

 立ち上った黄金の光条は、天蓋の頂で大輪の光芒となって拡散すると、地上百メートルのバルコニー――アリアの元へと、吸い寄せられるように収束した。

 燦然たる燐光が少女の全身を包み込む。

 その光は、少女の白皙の首筋――かつて百年前、聖女クラリスが教会の所有物として痛ましい焼印を刻まれていたのと寸分違わぬ、その無垢な肌の上へと吸い込まれていく。

 ただ、春の陽だまりを思わせる温かな脈動が走り、その細い首筋の皮膚の奥へ、太古の幾何学を模した優美な『原初の勇者の聖痕』が静かに刻まれていく。

 それに応じるように、少女の全身を巡る『蒼血』が生体マナの熱を帯びて激しく滾り立った。

 内なる原初の血と太古の神託が融け合った刹那、首筋の聖痕は黄金の光を超え、百年前のあの誓いの宝石と寸分違わぬ、息を呑むほど澄み渡った【七色の虹の光彩】を放って鮮烈に脈動した。

 世界が彼女を、真の勇者として選び取った証だった。

 探して、その強大な覚醒の余波は、少女が生まれながらにその身に宿していた異端の血脈をも完全に呼び覚ます。

 ゆっくりと顔を上げたアリアの、深く澄み渡った菫色の双眸。

 その瞳孔の奥底に、かつて最期の水辺で世界を救い切った少女クラリスと同じ――始祖の奇跡を宿す者だけが灯す【黄金の光芒】が、鮮烈な輝きを放って宿っていた。

 首筋に息づく勇者の虹彩と、双眸に目覚めた聖女の光芒。

 二つの奇跡を一身に纏い、少女は世界の理そのものによって、新たな時代の象徴として産声を上げていた。

 神樹聖教の神話そのものによって自らの正統性を叩きつけられた教皇も、四大門閥の貴族たちも、ただ言葉を失って硬直するしかなかった。

「……ふっ」

 神々しい光を纏いながら、アリアの薄い唇に、いつもの不敵で勝ち気な笑みが戻った。

 皇女の仮面は、もう要らない。

 アリアは右手でドレスのパニエの隙間へ手を差し入れると、太もものホルダーに固定されていた儀礼用の白銀短剣の柄を握り締めた。手首のスナップを利かせ、逆手に引き抜かれた刀身が、天蓋の光を吸って鋭利な銀の残光を描く。翻ったドレスの袖口から吹き荒れたのは、始祖原水流の研ぎ澄まされた刃風。閃いた切っ先が、足元を拘束していた重厚な絹のロングスカートを、円を描くように一閃で切り裂いた。

 ハラリと舞い落ちる白銀の布地。露わになったのは、日々の過酷な鍛錬によって限界まで引き締められた、跳躍のための強靭な美脚。

「――お待たせ、フィリア。今、そっちへ行くわよ!」

 アリアは短剣を鞘へと滑り込ませると、地上百メートルのバルコニーの手すりへと、羽根のように軽やかに飛び乗った――!

(第八話 第三節へ続く)


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