第七話:『神樹の目詰まりと魔王の進軍』 第三節:更地化の号令 ―六大部族の出陣―
玉座の間を出たレンの足音は、冷酷なまでに等間隔の静寂を刻んでいた。
青年の背後には、重力を歪めて浮遊する全長二・五メートルの『黒骸の断罪柱』が、影のように音もなく従っている。 地底深くの熱水鉱床から汲み上げられた白い蒸気が立ち込める、黒曜石の長い回廊。
その最奥に鎮座する、高さ二十メートルを超える巨大な黒鉄の二重扉の前で、レンは足を止めた。
衛兵はいない。ただ、青年が外套の裾をわずかに揺らした瞬間、扉の表面に刻まれていた幾何学的な魔導回路が青白く励起し、地鳴りのような重低音を伴って左右へと重々しく押し開かれた。 吹き込んできたのは、永久凍土の猛烈な極冷風と、それに相反する無数の生体熱が織りなす濃密な空気だった。 眼下に広がっていたのは、世界の果てに築かれた異形の要塞都市――魔王城『深淵海宮 ネクロ・アビス』の全景であった。 かつて帝都を追われた一人の魔導技師が、貧しい人々が生きて笑えるようにと夢見てノートに遺した「循環インフラの設計図」。
それは今、大地から熱と清澄な水を汲み上げ、数十万の民を極限環境から生かし続けるための巨大な工業要塞都市へと変貌を遂げていた。
黒鉛色の巨岩で組まれた外郭防壁の上を幾重にも走る極太の真鍮蒸気配管、白煙を吹き上げる溶鉱熱炉、そして凍結を防ぐために規則正しく脈打つ生体排水路。
天空を渦巻く猛吹雪すら、都市の直上に展開された不可視の防護力場によって巨大な円形に押し広げられ、頭上には星海の冷たい光条が降り注いでいる。 そして――大階段の足元、大理石が敷き詰められた広大な式典広場を埋め尽くしていたのは、圧巻の光景だった。 整然と、寸分の隙もなく隊列を組んで直立する、十万を超える魔大陸正規軍。 蛮族のような無秩序な喚き声は一切ない。
軍靴が擦れ合う微かな摩擦音すら極限まで抑え込まれ、広場全体がまるで水底の深淵のように、張り詰めた絶対の静寂に沈んでいる。
暴力や恐怖による隷属では決して成立し得ない、研ぎ澄まされた軍事的規律。
彼らにとって、頭上の天空テラスに立つ黒髪の青年は、恐怖の暴君ではない。
毒水に焼かれ、泥水をすすって飢え死にしかけていた自分たちに、泥臭い手先の知恵と食の技術を授け、生き延びる尊厳を与えてくれた唯一絶対の王だった。 大階段の中腹、レンの直下に並び立つのは、各戦域・兵科を束ねる六大部族の全頭たちであった。 先頭に進み出たのは、魔王軍総参謀――星詠族の長、オディロンだった。
灰青の長い髪を複雑な天文編みに結い、背中には真鍮製の巨大な天体望遠魔導儀を背負っている。老魔族は広げた羊皮紙の星図を捧げ持ち、深く頭を垂れた。
「……御前に、我が主。外宇宙『星海』の潮汐力、および西大陸の天蓋結界における位相減衰の極小値――すべての演算を完了いたしました」
オディロンのよく通る老練な声が、凍てつく大気の中を響き渡る。
「星海の干潮期は七日後。帝国の天蓋防護壁が、式典の魔力干渉によって最も薄くなる絶対の特異点です。我が主の歩みに、一秒の遅参もございません」
その背後には、星図のローブを纏った観測士官団が整然と控え、長距離通信と気象演算の術式盤を青白く明滅させている。 続いて、大地を揺るがす重厚な足音とともに前へと出たのは、防衛軍団長たる白骨族の頭、バウルだった。
身長二メートル三十を超える白磁の巨漢。
陶器のような白い皮膚の関節からは、鋭利な生体鉱石の結晶棘が突き出ている。かつてダンカンの大盾を強化したのと同じ、衝撃分散と耐熱に特化した超硬質結晶で鋳造された巨大な結晶棍を、バウルは大理石の敷石へ深々と突き立てた。
「……白骨族の重装歩兵三万、防壁展開の準備は万全だ。帝国のいかなる魔導砲撃であれ、俺たちの生体鉱石の前に一歩も通しはせん」
その背後に隙間なく並ぶのは、白銀の結晶装甲を噛み合わせた重装歩兵軍団。一糸乱れぬ隊列は、まるで動く白亜の山脈そのものだった。
「ふん、陸のモグラどもが気取るんじゃねえよ!」
荒々しく喉を鳴らしたのは、水上突撃隊長、潮殻族のカルノスだ。
藍黒色の頑強なキチン質甲殻鎧に身を包み、側頭部と首筋のエラスリットからシューッと白い高圧蒸気を吐き出している。両腕に備えられた巨大な鋏角甲を打ち鳴らすと、硬質な破砕音が空間を震わせた。
「メア・アビスの激流なんざ、俺たちにとっちゃ庭の水たまりだぜ! 海獣部隊二万、若の合図一つで、西のクソッタレ共の軍船を丸ごと底へ叩き落としてやる!」
上空からは、巨大な風切り音とともに影が落ちてきた。
灰翅族の空軍頭、ヴォルク。
黒と朱の耐火羽毛を大きく広げ、猛禽の嘴を模した鉄マスクの奥から琥珀色の双眸を爛々と輝かせている。その鋭利な鉤爪には、黒煙火山の深部から採掘された高熱燃焼鉱石の投下コンテナが鈍く握られていた。
天空を旋回する一万五千の有翼飛行部隊が、一斉に翼を畳んで滑空し、テラスの直上を旋回して主へ敬礼を捧げる。
「空からの視界は極めて良好だ。ポルト・ヴェルデの上空防空網、いつでも灰に変えてみせる」
その猛々しい戦士たちの傍らで、静かに頭を垂れていたのは樹角族の大薬師、エルザだった。
褐色の肌に、発光苔と若木の角を生やした物静かな女性。百年前、クラリスの浸透圧の痛みを和らげるハーブを託した一族の血を引く彼女は、慈愛と痛切な決意を宿した瞳でレンを見上げていた。
「……医療部隊、および生体解毒網の配備、すべて完了しております。そして我が主――腕の生体腱の糸、張り具合に狂いはございません」
レンの右腕に巻かれた『禍刻の十指魔手甲』。
腐海深部の変異巨獣から採取された生体腱は、エルザの手によって極限まで研ぎ澄まされ、不可視の緊張を宿して黒金の鉤爪へと収束している。 そして大階段の最下段には、先刻の報告を終えた淵鱗族のナディアが、一万の潜水工作隊を背後に従え、漆黒の蛇尾をとぐろに巻いて静かに控えていた。 十万の軍勢。
六つの異なる異形の命が、一つの強靭な肉体のように完璧に連動し、ただ頭上の青年の一言を待っている。 その圧倒的な熱量を前にしても、レンの表情筋はピクリとも動かなかった。 青年はゆっくりと、天空テラスの縁へと歩み出た。
黒魔の儀仗外套が極冷の風に翻り、胸元の『真紅の魔核』が、大理石の敷石へ痛切な紅の残光を落とす。 チチチ……、チチチ……。 背後に浮かぶ『黒骸の断罪柱』の内部から、乾いた精密なクリック音が静かに落ちた。
エルの遺した魔導リールが、青年の心臓から漏れ出る世界を呑み込みかねない怨念の出力を、極限のドラグ機構によって冷徹に調律し続けている音。
その規則正しい金属音を耳にした瞬間、広場を埋め尽くしていた十万の戦士たちが、一斉に息を呑んだ。 叫ばない。
声を張り上げることも、大衆を煽る身振り手振りも一切ない。
ただ、青年が右手をわずかに水平へ掲げた――そのわずかな所作一つで、天空を吹き荒れていた暴風の吹雪すら、不可視の力場によってピタリと空間ごと凍結して静止した。 神域の平熱。
呼吸することと同じ次元で空間の物理変数を掌握している、絶対的捕食者の佇まい。
「……世界征服などではない」
低く、平熱のまま落とされた青年の声が、十万の軍勢の鼓膜を、そして魂の芯を直接揺さぶった。
「神への復讐ですらない」
レンの虚無の黒い瞳孔が、遥か西――天蓋結界の向こう側へと据えられる。
「西の人間どもは、自分たちの庭を白く飾り立てるためだけに、百年もの間、お前たちの海に泥を流し、腐海を窒息させ、子供たちの呼吸を奪い続けてきた」
広場のあちこちで、戦士たちの奥歯がギリリと軋んだ。
思い出されるのは、神樹の排液を浴びて変異し、飢えと毒に苦しみながら死んでいった無数の同胞たちの顔。
「そして今――あいつを食い潰したのと同じ手口で、また別の子供を薪にして、偽りの奇跡を買い支えようとしている」
青年の胸元で、真紅の魔核がトクンと深く脈動した。
怒号はない。だが、その言葉に乗せられた絶対零度の殺意が、式典広場の大理石を急速に白く凍結させていく。
「侵略はせん。略奪もいらん」
レンは腰元に提げられた、古びて擦り切れた小さな革ポーチへと、白く骨ばった指先をそっと触れさせた。
中にあるのは、百年前、クラリスが旅の合間に優しい瞳を描き込んでくれた、粗末な木製のルアー。 「……あいつに見せるはずだった青い海を遮る障害物を、すべて平らに押し潰す」
青年は虚無の瞳孔の奥、血のように昏く澄み渡った【真紅の呪詛環】をカッと発光させた。
「――ただの土木作業だ。更地に均すぞ」
冷徹な判決が下された。
「第一攻略目標――西大陸東方境界、巨石水門『ポルト・ヴェルデ』」
全幅十二キロメートル、高さ八十メートル。
帝国が「絶対に破られぬ」と過信し、何百年もの間、東の海へ猛毒の排液を垂れ流し続けてきた文明の元栓。
「あの壁を粉砕し、元栓をへし折る。……七日後の神樹降誕祭、帝都の欺瞞が極まるその瞬間に、すべての決算を終わらせる」
宣告が終わった、その刹那―― 大地そのものを揺るがす地鳴りのような重圧が走った。
六大部族長が一斉に片膝をついて平伏し、十万の軍勢が、自らの武器の柄を左胸の装甲へと同時に叩きつけたのだ。
鬨の声などない。
ただ、整然とした鉄と鉱石の激突音だけが、世界を均すための絶対の誓約となって、永久凍土の天蓋を突き抜けて木霊していた。 軍勢が各々の配置へと散開し、地鳴りのような余韻が引いていく中、レンは踵を返し、再び薄暗い神殿の深奥へと戻っていた。玉座の背後に聳え立つ、淡い緑晶の光を放つ巨大な魔水晶。
その深奥で眠る白銀の少女の前へと、青年は歩み寄った。 言葉は、ない。「行ってくる」などという生ぬるい別れを告げる資格すら、青年の凍てついた唇には残されていなかった。レンはただ、白く骨ばった右手の指先を伸ばし、氷水晶の冷たい表面へと、壊れ物に触れるようにそっと一度だけ触れ合わせた。掌を通じて伝わってくるのは、百年間決して変わることのない、絶対零度の冷気だけだ。すぐに手を離し、青年は二度と振り返ることなく背を向けた。
翻る漆黒の外套。従う黒骸の断罪柱が、西の空を穿つように重力を歪める。 だから――青年は、永遠に気づくことはなかった。魂はとうに輪廻へと消え去り、意識も、心臓の鼓動すらも残されていないはずの、冷え切った少女の横顔。
その陶器のように滑らかな白皙の頬を、氷晶の内側で、ひとすじの透明な涙が、静かに伝い落ちていたことを。 ――百年の沈黙を破り、西大陸のすべてを更地へと変える、絶対零度の進軍が始まる。 (第七話 完 / 第八話へ続く)




