第七話:『神樹の目詰まりと魔王の進軍』 第二節:深海の凶報と、排液の限界
湿り気を帯びた重厚な摩擦音が、黒曜石の冷たい床を滑り、玉座の段下でピタリと止まった。
「――御前に」
深く、水底の残響を孕んだ冷涼な声が、凍てつく静寂に落ちる。
頭を垂れたのは、淵鱗族(アビス・サーペント)の潜水工作隊長、ナディアだった。
濡れた漆黒の長髪から滴る冷水が、大理石の床石に小さな染みを作っていく。腰から下を占める強靭な蛇尾は、深海の水圧を弾く漆黒の鱗に覆われ、静かにとぐろを巻いている。
かつて先代魔王レヴィアの直系として生まれながら、神樹の毒に焼かれ、腐臭漂う深海魚を泥水の中で貪るしかなかった部族。その泥臭さを抜き、湯引きと蒲焼きという未知の技法で極上の滋養食へと変貌させ、飢餓の底から同胞をすくい上げたのは、他ならぬ目の前の青年だった。
恐怖による屈服ではない。
命を繋ぎ止められた者たちだけが捧げる、骨の髄からの絶対の忠節。
「境界海域『メア・アビス』および西大陸沿岸の潜行偵察より帰還いたしました、我が主」
玉座のレンは、動かない。
虚無の黒い瞳孔を向けたまま、微動だにせず部下の言葉を待つ。
「……第一の報です。神樹イグニス・アルボルの排液逆流、ついに臨界点を突破いたしました」
ナディアの声に、僅かな硬度が混ざる。
「海底海溝の計測数値は過去最悪。西の巨石水門ポルト・ヴェルデから投棄される高濃度塩分、重金属、そしてマナ残渣ヘドロの総量は、前月比で三割増。すでに潮殻族の浅瀬は泥土に呑まれ、樹角族の腐海外縁では猛毒胞子の暴発が始まっております。……百年前、クラリス様が落命されて以降、帝国が蓄積してきた『生体濾過ストック』が、完全に底を突いた模様です」
神樹という怪物は、外宇宙の原水を吸い上げ、西大陸へ清澄な水を注ぐ代償として、猛毒の老廃物を東の魔大陸へ垂れ流し続ける。
クラリスという奇跡の生贄を失った帝国は、神樹の目詰まりを抑えきれなくなっていたのだ。
「このまま排液が続けば、半年を待たずに魔大陸の全水脈が壊死します。……西大陸の更地化は、もはや我ら六部族が息を繋ぐための、絶対の物理的猶予かと」
侵略ではない。
押し付けられた公害によって窒息死させられる前に、元凶の元栓を叩き潰す生存権の行使。
だが――レンの表情筋は、ピクリとも動かなかった。
死人の能面のまま、青年の虚無の双眸はただナディアを射抜いている。
「……続けろ。第二の報があるはずだ」
「はっ」
ナディアは胸元の革袋から、手のひら大の青白い鉱石――帝都大聖堂の残留マナを記録した観測水晶を取り出し、床の上へと捧げ持った。
「帝都大聖堂の深奥に潜入した我が工作員が、教皇庁の最深機密を捉えました」
水晶が淡く発光し、薄暗い玉座の間に、大聖堂の白大理石の祈祷室が立体映像となって揺らめく。
そこに映し出されていたのは、純白の重装ローブに身を包み、冷たい床の上で震えながら祈りを捧げる一人の少女――フィリアの姿だった。
「教会は、クラリス様の代用品として『二代目の生贄』を密かに選定し、隔離・育成しておりました。名はフィリア。……七日後の神樹降誕祭において、その少女の生命マナを極限まで絞り尽くし、目詰まりを起こした神樹の聖火台を強引に再起動させる計画です」
映像の中で、少女は痛みに華奢な肩を震わせながら、それでも誰かのためにと祈り続けていた。
百年前、大聖堂の祭壇で、あるいは過酷な戦場で、痛みを押し殺して「大丈夫です」と笑っていたクラリスと、寸分違わぬ生贄の姿。
静寂が、落ちた。
風の音すらない。
だが――次の瞬間。
「――教会め」
落ちたのは、感情の波すら削ぎ落とされた、絶対零度の平熱の声だった。
「あいつを使い潰しておきながら……また別の子供を、薪にするか」
激昂はなかった。
怒号も、狂乱の叫びも、舌打ち一つすらなかった。
ただ――カチリ、と。
青年の胸元で、硬質な破裂音が小さく鳴り響いた。
皮膚の下に埋め込まれた『真紅の魔核』が、まるで激痛に耐えかねた心臓のように、ドクン、と痛烈な真紅の光を爆ぜさせたのだ。
直後、空間そのものが圧壊するように軋んだ。
玉座の間を満たしていた極微量の水分が、コンマ一秒の猶予すらなく大気から蒸発するように掻き消える。
乾燥と超低温の奔流が空間を満たし、黒曜石の床から、天井のアーチ、大理石の巨大な円柱に至るまで、目に見える速度で真っ白な氷霜が蜘蛛の巣のように走り抜けていく。石材の表面が凍結膨張によって微小な亀裂を刻み、大気の密度そのものが凍てついて急激に重力を増した。
チチチ……、チチチチチチチチッ!!
青年の背後に自律浮遊する『黒骸の断罪柱』が、激しく震動した。
最深部の呪詛溝から、耳を劈く凄まじいドラグの回転音が鳴り響く。
エルの遺した世界最高精度の魔導リールが、青年の心臓から奔流となって溢れ出す百年の怨嗟と殺意を、極限のテンションで必死に抑え込み、調律しようと煙を上げて悲鳴を上げていた。
床に平伏していたナディアの鱗が、逆立った。
息ができない。
ただそこに座っているだけの青年から放たれる、大陸の質量をそのまま叩きつけられるような絶対的捕食者の重圧。
恐怖ではない。魂が本能的に「この男の歩みを遮るものは、神であれ文明であれすべて挽肉になる」と理解させられていた。
百年間、愛する少女の死を受け止めきれず、心を殺し、感情を凍らせてきた青年の奥底で――
理不尽に命を刈り取られる子供への、そして愛する者を弄んだ世界のシステムそのものへの、剥き出しの純愛と憎悪が、静かに檻を破りかけていた。
レンは、ゆっくりと顔を上げた。
光を反射しないはずの虚無の黒い瞳孔。
その最奥に、百年間決して灯ることのなかった――血のように昏く、澄み渡った【真紅の呪詛環】が、カッと業火のように発光した。
「……オディロンを呼べ」
掠れもしない、静かな宣告が石壁を震わせる。
「六部族の全頭を、階下に集めろ」
ナディアは肩を震わせ、黒曜石の床に深く額を擦り付けた。
「はっ……! 直ちに!」
蛇尾を翻し、深海の戦士が疾風のように謁見の間を滑り出ていく。
取り残された玉座の間。
背後のステシス・クリスタルの中で眠るクラリスを見上げることすらなく、青年は立ち上がった。
黒骸の断罪柱が、主の歩みに従い、重力を歪めて背後に従う。
百年の沈黙の終わり。
欺瞞で塗り固められた西大陸を更地へと変える、冷徹なる土木作業の幕が、いま切って落とされようとしていた。
(第七話 第三節へ続く)




