第七話:『神樹の目詰まりと魔王の進軍』 第一節:永久氷晶の聖女と、絶対零度の玉座
天蓋結界の淡い光すら届かぬ、世界の東の最果て――魔大陸『オリエント・アビス』。
猛烈な吹雪が地表のすべてを白く塗り潰し、人間ならば一呼吸で肺胞が凍結する極冷の永久凍土。その荒れ狂う暴風の中央に聳え立つのは、黒鉛色の巨岩と生体鉱石によって天を衝く巨大要塞――魔王城『深淵海宮 ネクロ・アビス』だった。
奇怪なまでに整然とした防壁のライン。地中深くから熱と清澄な水を汲み上げ、循環させる蜘蛛の巣のような配管網。
かつて追放された一人の女性技師が、「いつか貧しい人たちが暖かく笑って暮らせるように」と夢見て遺した生活インフラのノート。その設計図を、世界の悪意から思い出を遮断するためだけの難攻不落の要塞都市へと変異させてしまった、哀しき技術の残滓だった。
天空を覆う吹雪すら、城の直上では不可視の力場によって押し広げられ、そこにはただ、冷酷なまでの絶対の静寂が横たわっていた。
城の最深部、天井高数十メートルに及ぶ広大な玉座の間。
磨き抜かれた黒曜石の床の奥、冷え切った冷気が煙のように立ち込める段上に、それは鎮座していた。
巨大な黒鉄の玉座の背後。
淡い緑晶の光を放ち、天井へと聳える巨大な魔水晶――『ステシス・クリスタル』。
その透明な氷晶の深奥に、一人の少女が眠っていた。
百年前、泥濘の沼沢地で息絶えたあの日と、寸分違わぬ姿のままで。
ひとすじの乱れもなく広がる白銀の髪。傷ひとつなく、陶器のように滑らかな白皙の素肌。そして唇の端に刻まれた、愛する者を救い切った者だけの、哀しいほどに穏やかな微笑み。
どれほど歳月が流れようと、彼女の身体に死の穢れが触れることはない。
だが、その完璧な美しさは、百年間どれほど禁忌の術理を貪り尽くそうとも、二度と熱を取り戻さぬ完全な死の証明でもあった。
魂がすでに輪廻の彼方へと消え去った肉体。
それでも青年は、彼女をこの世に繋ぎ止め続けていた。
『魂がないのなら、世界中を壊してでも連れ戻す』
『お前を奪い、お前の夢を汚した世界を更地にして、誰にも邪魔されない美しい海を見せてやる』――その凍てついた狂気と純愛のためだけに。
玉座に深く身を沈めているのは、漆黒の外套を纏った一人の青年だった。
レン。
肉体は、クラリスが命を落とし、自身が二十歳を迎えたあの日の姿のまま完全に凍結している。
実年齢百二十歳。
無造作に伸ばされた漆黒の長髪の下、大理石のように血の気を失った白皙の顔貌には、感情の起伏を示す表情筋の微かな動きすら残されていない。
ハイライトの消え失せた漆黒の双眸孔は、光を一切反射せず、ただ底なしの虚無を湛えた「死人の能面」そのものだった。
首筋から両腕にかけて脈打つ、クラリスの血を吸い上げた黒赤の魔力回路。
そして、胸元の心臓の真上に埋め込まれた、世界で唯一の宝石。
『真紅の魔核』。
それは禍々しい黒や濁りなど一欠片も帯びていなかった。
百年前、最期の瞬間にクラリスが注ぎ込んだ命懸けの祈りと愛によって、魔王レヴィアの悪意すら清らかに昇華された、息を呑むほど透き通った痛切な「真紅」。
世界で最も冷酷な破壊者でありながら、その心臓には、世界で最も純粋な少女の愛の光が、トクン、トクンと静かに脈動し続けている。
青年の背後には、重力を歪めて一本の漆黒の重金属柱が静かに自律浮遊していた。
『黒骸の断罪柱』。
全長二・五メートル超。神殿の柱をへし折って削り出したような凶悪な破城杭の形状。
だが、その最外殻を成すのは、あの日、外郭大門で仁王立ちとなって散ったダンカンの魂――『八角鉄製金砕棒』を魔素で鍛え直した漆黒の盾装甲だった。
そして柱の内部、複雑な呪詛溝の奥からは、微かに規則正しい金属音が響いていた。
チチチ……、チチチ……。
乾いた精密なクリック音。
エルの最高傑作たる魔導リールが、青年の暴走する怨念の出力を、極限のドラグ機構によって冷徹に調律し続けている音だった。
その最深の芯には、ダンカンが命懸けで持ち帰り、四人の手で組み上げた泥臭い「伝説の釣り竿」が、誰にも触れられぬよう静かに眠っている。
黒魔の装束の中で、唯一不釣り合いなものが一つだけあった。
腰元に提げられた、古びて擦り切れた小さな革ポーチ。
レンは白く骨ばった右手の指先を伸ばし、そのポーチの表面を、壊れ物に触れるようにそっと撫でた。
中には、百年前の旅の合間、クラリスが小さな筆で優しい「瞳」を描き込んでくれた、粗末な木製のルアーが入っている。
青年の中に残された、唯一の人間性の残滓。
その時。
静まり返っていた玉座の間の大理石の床を、湿り気を帯びた重厚な摩擦音が打ち鳴らした。
謁見の間の大扉が音もなく押し開かれる。
冷たい水の飛沫の気配と、深海の水圧を纏った影が、玉座の前へと滑り込んできた。
青年は、撫でていた指先をゆっくりと止めた。
虚無の双眸孔を上げ、漆黒の長い前髪の隙間から、足音の主を冷徹に見据える。
「……来たか」
感情を削ぎ落とした、絶対零度の平熱の声が、暗い神殿の空気を凍てつかせた。
世界を均すための、冷徹なる土木作業の刻限が迫っていた。
(第二節へ続く)
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魔王化レンと氷水晶の聖女




