第六話:『嵐の前の食卓と、七日間の猶予』 第一節:朝帰りの離宮と、胃痛の作戦準備
白亜の巨塔を薄藍色から乳白色へと塗り替えていく朝露の光の中、水水晶の離宮の正面大通用門を、二つの影が何食わぬ顔で潜り抜けていた。 先頭を歩くルシアンは、仕立ての良い礼装ローブの裾を微塵も乱さず、枢密軍事院から下された金銘の身分証を門番の近衛兵へ掲げてみせる。その横では、灰褐色の外套を脱ぎ捨てたアリアが、手入れの行き届いた訓練着の腰に白銀直剣を佩き、眠たげに小さく欠伸を噛み殺していた。
「――第七皇女殿下、および専属監督官ルシアン卿。前祭の特別夜間巡回、ご苦労様でございます」
槍を立てて深々と敬礼する門兵たちに対し、ルシアンは彫刻のように冷ややかな会釈を一つ返しただけで、足早に離宮の内廊下へと滑り込んだ。
背後の重厚な扉が閉ざされ、兵たちの気配が完全に遮断された瞬間――
「……っ、ふぅぅぅぅぅ……っ!!」
ルシアンの背筋から一気に鉄の芯が抜け落ち、長い脚がよろめいて壁の大理石へ手をついた。
彫刻めいた美貌は青白く引き攣り、指先で銀縁眼鏡を押し上げる腕すら微かに震えている。
「信じられません……! あの教会の絶対聖域で近衛兵を全員伸した挙句、正規の正面通用門から堂々と朝帰りするなど……! 万が一、身分証の照会コードに不審を抱かれていたら、今頃僕たちは地下査問所の冷たい石畳の上でしたよ……!」
「何言ってんのよ。堂々としてたから誰も疑わなかったんでしょ? ほら、背筋伸ばしなさいよ眼鏡、みっともない」
アリアは肩をすくめ、ケロッとした顔でルシアンの腰布を小突いた。
日頃の過酷な素振りと『蒼血』の超回復によって、激闘の疲労など欠片も残っていない。むしろ、大聖堂の分厚い壁に一矢報いた高揚感で、菫色の瞳は夜明けの空よりも澄み渡っていた。 二人が私室の豪奢な居間へ滑り込むと、待ち受けていた筆頭侍女が、銀盆に載せた朝のハーブティーを前に目を丸くした。 「まあ、アリア様! ルシアン様! こんな朝早くから中庭で朝稽古でございましたか? ……あら、ルシアン様、昨夜より一段とお顔色が優れませんわね?」
「……いえ、何でもありません。少々、難解な古代数理の命題に頭を悩ませていただけです」
ルシアンはコンマ一秒で絶対零度のポーカーフェイスを貼り直すと、手元の羊皮紙をサッと覆い隠して一礼した。
侍女が下がると同時に、青年は白磁のティーカップへ懐から取り出した胃薬の粉末をどさりと落とし、銀のスプーンで乱暴にかき混ぜて一気に喉へ流し込んだ。
カチャカチャと神経質な金属音が静かな居間に響く。
「……それで、教皇庁の動きはどうなってるの?」
アリアがソファへ身を投げ出し、身軽な足を組んで尋ねる。
ルシアンは眉間を強く揉みほぐしながら、手帳の余白に走らせた魔導インクの記録を指先で弾いた。 「先ほど、僕のアカデミー時代の情報網を通じて典礼院の通信記録を傍受・照合しました。……僕の計算通り、教皇庁側は昨夜の事態を『抽出機材の過負荷暴発による偶発事故』として内密に処理しましたよ」 「……事故、ね」
「ええ。何せ神樹降誕祭の本番まであと七日しかない。大聖堂の深奥に不審者が侵入し、近衛騎士団が全滅させられたなどという不祥事が公になれば、教皇庁の神聖秩序そのものが地に堕ちますからね。隠蔽せざるを得ないのです」
ルシアンは銀縁眼鏡の右フレームを指先でカシャリと弾き、単眼照準器を薄く展開した。
レンズの内側に、祈祷室の壁面へ埋め込んできたバックドアからの微弱なマナ波長が、青白い安定したサインカーブとなって投射されている。
「フィリア様の偏光クリスタルからも、定期的な正常シグナルが届いています。機材の破損により、教皇庁による強制抽出のスケジュールは原因究明のため事実上凍結された模様です。……ひとまず、彼女の身体の安全性は確保されました」
「……よかった」
アリアは胸に手を当て、小さく息を吐いた。
脳裏に浮かぶのは、蝋燭の明かりの中、大粒の涙を零しながら「約束します」と微笑んだ桜金色の少女の顔。
あの冷たい檻の中に一人残してきた痛痒は消えないが、少なくとも、今夜すぐに命を吸い尽くされる悪夢だけは先送りできたのだ。
「……さて、最低限の状況確認は終わりました」
ルシアンは手帳を閉じると、深い溜息とともに自らのこめかみを押さえた。
その顔色は、すでに陶器を通り越して紙のように白い。
「僕はもう限界です。昨夜の極限状態の連続で、脳細胞が沸騰しそうなんですよ……。午後の活動に備え、自室で数時間の睡眠を取らせていただきます」
「あはは、お疲れ眼鏡。あたしも少し横になるわ。……昼過ぎにまたここ集合ね!」
◇それから、半日後。
昼下がりの澄み渡る陽光が、水水晶の離宮の中庭を白く照らし出す頃。 仮眠を終えて居間に戻ってきたアリアは、すっかり疲労を吹き飛ばした軽やかな足取りで伸びをし、窓辺のガラス戸へ手を掛けた。 「んーっ! よく寝た! ……よし、じゃあ早速テラスから飛び降りて、スラムへ抜け出すわよ!」
「お待ちください、じゃじゃ馬殿下」
背後から掛けられた冷徹な声に、アリアがピクリと足を止めて振り返る。
そこには、身なりを整え直し、歪みのない銀縁眼鏡を指先でクイと押し上げるルシアンの姿があった。
手元には、枢密軍事院と宮廷侍従庁の朱印が押された一枚の真新しい公務書類が握られている。
「昨夜あれだけの騒ぎを起こしておいて、また白昼堂々と窓から抜け出すなど下策中の下策です。……今回は、これを使います」
「……何よそれ?」
「『神樹降誕祭に向けた外郭低地・下町区画の治安および末端水路に関する緊急現地視察申請書』です」 ルシアンは手元の書類をパチンと弾いてみせた。
「公務である以上、城門の衛兵も文句は言えません。僕が専属生活監督官として同行する形を取れば、何ら怪しまれることなく、正面から堂々と下町へ出向くことができます」
「へぇ……! やるじゃない、さすが悪知恵の働くインテリね!」
アリアがニシシと悪戯っぽく八重歯を覗かせて笑うと、ルシアンはすかさず眉をひそめて釘を刺した。
「悪知恵ではなく、合法的な手段の最適化と言いなさい。……それから殿下、前回の市場視察のように、歩きにくいからといってドレスを力任せに引き裂かれては敵いませんのでね。本日の視察着として、こちらを用意させました」
ルシアンが指し示したソファの上には、丁寧に畳まれた一着の衣装が置かれていた。 白と濃紺を基調とした、皇族用の公務乗馬服。
窮屈なコルセットや長いスカートではなく、上質な子山羊革のショートジャケットに、足さばきの良いしなやかなストレッチ素材のスラックス、そして泥汚れを弾く膝丈の乗馬ブーツ。
皇族としての気品と威厳を保ちつつ、いざという時の実動性と機動力を完璧に兼ね備えた、機能美あふれる軽装だった。
「わあ……! すごい、これならいくらでも走れるし、剣も振れるじゃない!」
アリアは菫色の瞳を輝かせ、嬉しそうにジャケットを手に取った。
「下町の大衆食堂へ入る際は、その上から目立たない外套を一枚羽織れば周囲の雑踏にも溶け込めます。……これなら文句はないでしょう?」
「文句どころか満点よ、相棒! 話が早くて助かるわ!」
アリアは満面の笑みを浮かべると、着替えのために足早に私室の奥へと駆け込んでいった。
その背中を見送りながら、ルシアンは「まったく、調子のいい……」と苦笑交じりに呟きつつ、懐の胃薬の小瓶を確かめた。 数刻後――
公務の正規手続きを踏み、正面大門を堂々と潜り抜けた二人は、熱気と油煙の立ち込める下町スラムの雑踏へと、並んで足を踏み入れていた。 (第二節へ続く)




