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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第六話:『嵐の前の食卓と、七日間の猶予』 第二節:赤提灯の健啖家たち

 引き戸を開け放った瞬間、濃厚な熱気と暴力的なまでの芳香が、二人の顔面を正面から叩きつけた。 赤黒い提灯が煤けた軒先を照らす、下町スラムの大衆食堂。

 炭火の強烈な熱に晒された肉塊から滴り落ちる脂がパチパチと爆ぜ、大豆と麦を発酵させた秘伝の黒ダレが鉄板で焦げ付く香ばしい匂いが立ち込めている。荒くれ者たちの怒号混じりの笑い声と、ぶつかり合うジョッキの音が店内の空気を絶え間なく震わせていた。

「……うぐっ、空気が重い。衣服の繊維に油煙が吸着していくのが分かりますよ……」

 公務用の乗馬服の上に灰褐色の外套を羽織ったルシアンは、露骨に眉根を寄せ、手巾で口元を押さえながら神経質に銀縁眼鏡の位置を直した。

 その隣で、同じく外套を羽織ったアリアは、深く息を吸い込んで菫色の瞳を輝かせた。

「んーっ! やっぱりこの匂いよ! お腹が背中にくっつきそうだったのよね!」

「おいおい、待ちくたびれて干からびるかと思ったぜ!」

 店の最奥、油で黒光りする丸太テーブルの席から、よく通る快活な声が飛んできた。

 袖を捲り上げた道場着姿のリンが、丸椅子の上に片膝を立て、豪快に八重歯を剥き出しにして片手を振っていた。

「無事に戻れたみてえだな、お姫様とスカした眼鏡!」

「リン! 待たせちゃってごめんね!」

 アリアは外套の裾を翻して迷わずリンの正面の席へ滑り込み、ルシアンはその隣で、椅子の埃を手帳の端で払ってから心底億劫そうに腰を下ろした。

「オヤジ! 肉串五十本! 麦飯の昔話盛りを二つ! あと、今日揚がった名物の川魚の塩焼きも持ってきな!」

 リンが卓を拳でトンと叩いて威勢よく声を張り上げると、カウンターの奥から「あいよッ!」と嗄れた怒声が返ってきた。

 その尋常ではない注文量に、ルシアンは青ざめて手帳を取り落としかけた。

「……五十本!? 麦飯の……昔話盛りだと!? 正気ですか、成人男性五人分の摂取カロリーですよ! そもそも僕の分はどうなっているのですか!」

「あん? 眼鏡の分なんざ最初から勘定に入れてねえよ。アンタ、どうせそんな脂っこいもん食えねえだろ? ほら、オヤジが気を利かせて持ってきた白湯でも啜ってな」

 ドン、とルシアンの前に置かれたのは、湯気を立てる素焼きの湯呑みだった。

 ルシアンは反論しようと口を開きかけたが、漂ってくる強烈な脂の匂いに胃の腑がキュッと軋みを上げ、結局ぐうの音も出ずに懐から胃薬の包みを取り出した。

「……ち、ちびちびといただくので結構です。僕の繊細な胃壁を破壊されては敵いませんからね……」

 カチャカチャと銀のスプーンで薬を白湯に溶かすインテリをよそに、テーブルの上には次々と料理が運び込まれてきた。

 炭火で真っ赤に焼き上げられた大串の肉塊が山を成し、すり鉢のような巨大な丼には、これでもかと天を衝くように白煙を上げる麦飯が山盛りに盛られている。

「いただきまーす!」

 二人の少女の手が、寸分の迷いもなく伸びた。

 リンは両手で丼を抱え込むと、タレの滴る肉串を二本まとめて口へ放り込み、咀嚼する間もなく山盛りの飯をガツガツと流し込んでいく。豪快極まりない野生児の健啖ぶり。

 そして――それに寸分劣らぬ勢いで喰らいついたのが、他ならぬ帝国の第七皇女だった。

 日頃の過酷な素振りと、体内に流れる『蒼血』の凄まじい生体代謝。昨夜の大聖堂潜入からほとんど何も口にしていなかったアリアの胃袋は、とっくに限界を迎えていたのだ。

「んぐっ……んん〜〜っ! 美味しいっ! やっぱりこの店のタレ、最高ね!」

 アリアは白銀の前髪を揺らしながら、肉串から肉をペロリと引き抜き、口いっぱいに頬張った。リスのように両頬をパンパンに膨らませ、口端にちょこんと黒ダレをつけながら、幸せそうに菫色の瞳をとろけさせる。華奢な体躯のどこに消えていくのか不思議なほどのスピードで、山盛りの麦飯がみるみるうちに平らげられていく。

「だろ!? 筋トレの後にこのタレ飯をかっ食らうのが、生きてて一番の幸せなんだよ!」

「激しく同意するわ! もう一本いっちゃおうかしら!」

 がははと笑い合う少女二人を前に、白湯をすするルシアンの顔色は、陶器を通り越して土気色へと変色していた。

「信じられません……。あの可憐な骨格のどこにそれだけの質量が収まるのですか。……胃袋の容積率に関する力学方程式が根底から崩壊しそうだ……」

「へっ、モヤシの眼鏡には一生理解できねえ境地だな!」

 リンが豪快に八重歯を剥き出しにして笑い、ルシアンの細い背中をバシィィンと景気よく叩いた。

「ごふっ……!?」と肺の中の空気をすべて吐き出し、眼鏡を斜めに歪ませて机へ突っ伏すルシアン。

 そこへ、店のオヤジが大きめの平皿を運んできた。

「へいお待ち! 外郭水路で今朝揚がったばかりの、天然の汽水ハスだ! 皮目をパリッと塩焼きにしてあるぜ!」

 炭火でこんがりと焼き上げられた一匹の大きな川魚。

 パリッと弾けた銀色の皮目から香ばしい湯気が立ち上り、粗塩の結晶が白く輝いている。

「わぁ……! お魚だ! 美味しそう!」

 アリアの目がキラキラと輝いた。

 皇宮の冷え切ったフルコースで出される薬品漬けの養殖魚とはまるで違う、獲れたての命の匂い。

 アリアは意気揚々と木箸を両手に構えると、焼きたての魚の背身へと勢いよく突き立てた。

 ――だが、ここからが悲劇の始まりだった。

 身を一口大に美しく切り分けるはずだった箸先は、皮を不器用に引き裂き、身を無残に粉々に崩していった。

 音速を超える刺突と抜刀をやすやすと繰り出す神速の戦姫の手先が、魚を前にした瞬間、まるで生まれたての小鹿の足先のようにぎこちなく痙攣している。

「あ、あれ……? ちょっと、骨が……身から離れないんだけど……」

 焦れば焦るほど、魚の身はぐちゃぐちゃのフレーク状へと崩壊していく。

 アリアはへの字口になりながら、崩れた身の破片を恐る恐る箸でつまんで口へと運んだ。

「んぐ……っ!? ゲホッ、い、痛っ……!!」

「おいおいおい、大丈夫かよ!?」

「ま、また小骨が……喉に刺さった……! うぅ……っ!」

 アリアは喉元を押さえ、菫色の瞳に大粒の涙を浮かべて激しく咳き込んだ。

 下唇を噛み締め、ボロボロに崩れた魚の残骸を、まるで不倶戴天の仇を見るかのように涙目で睨みつける。

 普段の凛々しい皇女の威厳など見る影もない、あまりにも無防備で情けないポンコツ姿。

 そのあまりの落差に、リンは腹を抱えて椅子から転げ落ちそうになりながら爆笑した。

「ぎゃははははッ!! なんだよそれ! あんなにスパスパ鋭い剣を振るくせに、魚一匹にボロ負けしてんじゃねえか!!」

「わ、笑わないでよリン! この魚、骨が多すぎるのよ! あたしを罠にかけるための暗殺魚よコレ!」

「んなわけあるか! 普通の川魚だっつの! 骨の取り方が壊滅的に下手くそなだけだ!」

 涙目でジト目を向けて抗議するアリア。

 その横で、ようやく背中の痛みから復帰したルシアンが、歪んだ眼鏡の位置を指先で押し上げながら、呆れ果てた溜息を落とした。

「……暗殺魚などと非論理的な言いがかりはおやめなさい。魚類の骨格構造学を理解していれば、主骨と側線神経弓に沿って箸を滑らせるだけで、身など容易に外れるはずです。力任せに身を叩き潰すなど、実に野蛮で非効率的な食べ方ですよ」

「うるさいわね嫌味眼鏡! 理屈ばっかり言ってないで、身が崩れちゃうのを何とかしなさいよ!」

「僕に八つ当たりしないでいただきたい。……ほら、喉に引っかかっているなら、これを飲みなさい」

 ルシアンは悪態をつきながらも、テーブルの端にあった冷たい茶の器を、アリアの前へとスッと滑らせて差し出した。

 魚の骨を取ってやるほどの器用さも甘さもないが、喉を詰まらせた仲間を放っておくほど冷酷にもなりきれない、不器用なインテリなりの配慮。

「……っ、んぐ、んぐ……ぷはぁっ! ……あ、ありがとう」

 お茶を一気に飲み干して骨を流し込んだアリアが、耳を少し赤くしながら小さな声で礼を言った。

 その様子を見ていたリンが、ニヤリと八重歯を覗かせてルシアンの肩を小突いた。

「へぇ……! 口は減らねえくせに、案外気が利くじゃねえか眼鏡。そういうトコだけは合格点をくれてやるよ」

「……余計なお世話です。僕はただ、皇女殿下が下町の小魚に choke(窒息)死させられたなどという不名誉な報告書を書きたくないだけですからね」

 プイとそっぽを向くルシアンの耳たぶが、湯気のせいか、わずかに赤らんでいた。

 笑い声と香ばしい煙が、三人のテーブルを温かく包み込んでいく。

 やがて、山のような皿が綺麗に平らげられ、胃薬の白湯を飲み干したルシアンが懐中時計の蓋をパチンと鳴らした。

 その乾いた金属音を合図にするように、リンの琥珀色の瞳から冗談の色がスッと消え去った。

 リンは周囲のざわめきへ鋭い視線を走らせると、低く、引き締まった声で口を開いた。

「……さて。腹もくちくなったところで、本題に入ろうぜ。表じゃ、物強い話はできねえからな」

 リンが顎先で合図を送ると、カウンターの奥で包丁を研いでいたオヤジが、無言のまま奥の板戸を指差した。

 油煙と喧騒が渦巻く客席を抜け、三人は薄暗い常連用の個室へと、静かに足を踏み入れた。

(第三節へ続く)


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