第五話:『典礼院の白百合と二代目生贄』 第四節:プロミス
静まり返った祈祷室の床には、六名の神官騎士たちが折り重なるように昏倒していた。 床石に散乱する装甲の破片と、微かに立ち上る魔導の残熱。
アリアは乱れた息を整えながら、祭壇の前にへたり込んでいたフィリアの前へ歩み寄ると、躊躇なく自らの右手を差し出した。
「フィリア、行くわよ! こんな場所に一秒だっていちゃダメ!」
突然目の前に差し出された、白く華奢な少女の手。
フィリアは潤んだエメラルドの瞳を丸く見開き、小さく息を呑んでアリアの手を見つめた。
戸惑いと、信じられないものを見るような驚愕。
生まれてから十六年間、神官たちの命令に従うことしか知らなかった少女にとって、「外の世界へ手を引かれる」という事象そのものが、理解の範疇を超えていたのだ。
細い指先を微かに震わせ、恐る恐るその温もりに触れようとした――その瞬間。 背後から翻った長いローブの袖口とともに、ルシアンの細身ながら骨ばった指先が、アリアの訓練着の肩口を背後から力強く引き留めた。
無理やり足を止められたアリアの身体が、半歩後ろへと引き戻される。
「お待ちください、殿下! 正気ですか!」 ルシアンだった。
歪んだ魔導眼鏡の奥で、ネイビーブルーの双眸が鬼気迫る緊迫感を帯びて見開かれている。
「ここで彼女を連れ出してどこへ行く気です!? 聖女失踪となれば、教皇庁と枢密軍事院は直ちに帝都全域へ戒厳令を敷きます! 街中の門という門が閉鎖され、大聖堂の結界も非常封鎖モードへ移行する。追撃部隊に包囲され、謀反人として処刑されて終わりですよ! それに――」
ルシアンは視線を落とし、荒い呼吸のまま肩を震わせるフィリアを指し示した。
「フィリア様の衰弱状態を見なさい。先刻の大規模魔導によって、マナ脈管は極限まで摩耗している。今夜無理に連れ出せば、逃亡中の過酷な環境に耐えきれず、衰弱死するのが関の山です!」
「っ……だからって、このまま置いていけるわけないでしょ! 次の抽出が来たらどうするのよ!」
アリアの顔が、激しい焦燥と怒りでくしゃりと歪んだ。
眉根を痛々しいほど引き絞り、血が滲むほどに下唇を強く噛み締める。
助け出したいのに、力ずくで連れ出せばこの少女の命を縮めてしまう。
自分の無力さと理不尽な現実に、菫色の瞳がやり場のない涙の膜で熱く滲んでいた。
「……アリア様」
衣擦れの音とともに、ふわりと柔らかな声が落ちた。 祭壇に手を預け、震える足で辛うじて立ち上がったフィリアが、困ったように眉尻を下げて微笑んでいた。
そのエメラルドの瞳には、先刻までの怯えではなく、澄み渡った静かな覚悟が宿っている。
「ありがとうございます、アリア様……。私のために、そこまで怒ってくださって。でも……いま私が逃げ出してしまえば、あの市場の方々のように大勢の民が神樹の渇水と病に苦しむことになります。……私は、逃げるわけにはまいりません」
「フィリア……」
「神樹降誕祭の本番まで、あと七日あります。式典のクライマックスで天蓋の聖火台を灯し、教会の『神託の聖盤』を起動させるためには、私の体内に残る神聖マナを注ぎ込まなければならないのです。……それを果たさぬまま姿を消せば、帝国全土が混乱に陥ってしまいます」
自らの命が削られている極限状態にありながら、他人の安寧と国の秩序を案じてその場に踏みとどまろうとする少女の気高さ。
その真っ直ぐな自己犠牲の眼差しに射すくめられ、アリアは息を呑み、言葉を失った。 アリアは深く息を吸い込み、噛み締めていた唇をゆっくりと緩めた。
怒りと焦りに支配されていた菫色の瞳から迷いが消え去り、静かで、鋼のように揺るぎない覚悟の光が灯っていく。
一国の皇女としてでも、誰かに操られる看板としてでもない。
目の前のたった一人の少女の運命を背負う、本物の戦士の顔だった。 「……分かったわ」 アリアはフィリアの冷たく震える両手を、今度は包み込むようにそっと重ね、力強く握りしめた。
至近距離で、真っ直ぐにエメラルドの瞳を覗き込む。
「今夜は連れ出さない。……でも、絶対に約束しなさい。もう二度と、自分の命を投げ捨てるような祈り方はしないって!」
「あ……」
フィリアの喉から、掠れた吐息が漏れた。
胸の奥をぎゅっと掴まれたような、熱い衝撃。
今まで誰一人として、自分を「生贄の器」以外として見てくれる者はいなかった。
大切に扱われるのは神水を濾過する肉体だけであり、心や命そのものを案じられたことなど、生まれてからただの一度もなかったのだ。
今にも溢れ出しそうな涙を必死に堪えるように、フィリアの長い睫毛が細かく震え、薄い唇が頼りなく波打った。
「七日後の神樹降誕祭――あたしがあの壇上に立たされるあの日、絶対にこの嘘の檻ごとぶっ壊して、あんたをここから連れ出してあげるから! だから……それまで、絶対に諦めないで!」
自分を救うために、世界のすべてに喧嘩を売ると言ってくれる人。
自分を、ただ一人の女の子として生きていてほしいと願ってくれる温もり。
その圧倒的な愛の熱量に触れた瞬間、フィリアの瞳から、堰を切ったように大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。
「……はい……っ! 約束……約束します、アリア様……っ!」
くしゃくしゃに顔を歪ませ、涙で頬を濡らしながらも、フィリアの唇には、生まれて初めて心からの幸福を宿した尊い笑顔が咲いていた。
フィリアは震える小さな指先で、アリアの手を痛いほどにぎゅっと握り返した。
日々の素振りのタコこそあれど、指先は白く、驚くほど滑らかでしなやかだった。
さっきまであれほど猛然と大人の騎士たちを叩き伏せていた戦姫のものとは思えないほど、どこまでも優しく、暖炉の火のように温かい、息を呑むほど美しい少女の手。
その手のひらから伝わってくる確かな命の鼓動が、フィリアの凍てついていた心を芯から溶かしていく。 その傍らで、ルシアンが深く息を吐きながら、手元の魔導杖を素早く構え直した。
「話がまとまったのなら、直ちに現場を隠蔽しますよ。……リン、そこの回収トランクとストレッチャーを祭壇の手前へ並べなさい!」
「へいへい、任せときな!」
リンが大男たちの甲冑を引きずり、拘束具の配管の周りへと手早く転がしていく。
その作業の合間、ルシアンは魔導眼鏡の照準器をカシャリと展開し、回収機材に巻き付いた導魔針の回路へワンドの切っ先を迷いなく突き立てた。
数式の幾何学陣が群青色の奔流となって空中に展開され、一瞬にして機材の術式コアへと吸い込まれていく。
「回路の安全弁を強制ショートさせ、逆流過負荷を起こします。……これで、『抽出機材の魔導暴発による自爆、および急性マナ中毒による集団昏倒』の偽装が完了しました。フィリア様、騎士たちが目を覚ましたら、『機材が突然火花を散らして爆発し、自分も巻き込まれて気絶していた』と証言なさい」
澱みなく、冷徹に、寸分の無駄もなく状況を逆転させていく若き参謀の頭脳。
倒れた騎士の脚を抱えていたリンの手が、ピタリと止まった。
琥珀色の瞳をわずかに見開き、手際よく数理を操る青年の横顔を、まじまじと見つめる。
(……おいおい。口先だけのモヤシかと思ってたが……こいつの頭の回転、ただ事じゃねえな)
普段の毒舌や運動音痴からは想像もつかない鮮やかな手腕に、野生児の鋭い直感が、人知れずこのインテリの真価を捉えていた。
「は、はい……!」
フィリアが涙を拭いながら頷くのを確認し、ルシアンは祈祷室の奥、白大理石の壁面に刻まれた微細な幾何学結界の結節点へと歩み寄った。
ワンドの先で極小の反転コードを刻み込み、結界の防御網の裏側に、目に見えぬ極細の術式バイパスを滑り込ませていく。
「この部屋の聖別結界に、僕の数理でのみアクセスできるバイパス回路――バックドアを埋め込みました。大聖堂の警報を鳴らすことなく、外部からいつでもこの部屋へ干渉・侵入できる抜け穴です」
ルシアンはローブの内側から、青白く透き通る指先大の薄い鉱石を取り出すと、フィリアの小さな掌の上へとそっと手渡した。
「これは僕の眼鏡の波長と同期させた偏光クリスタルです。肌身離さず持っていてください。万が一の異変があれば、即座に僕のレンズへ警告が届きます。……降誕祭の決行時、僕たちはこのバックドアからあなたを迎えに来ます」 「ありがとうございます、ルシアン様……大切に、いたしますね」
フィリアは両手で宝物のようにクリスタルを胸元へ抱きしめ、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。
「おい、時間切れだぜ! 外の回廊で次の見回りの足音がし始めた!」
扉の隙間から外を窺っていたリンが、手首のバンデージを噛んで引き締めながら小声で合図を出した。 「二手に分かれますよ。……リンは侵入に使った地下配水シャフトから下町へ戻りなさい」
「了解だ! アリア、眼鏡、また後でな!」
リンは身軽につむじ風のような足捌きで身を翻すと、音もなく祈祷室を抜け出し、暗い排気シャフトの深淵へと姿を消していった。
「あたしたちはどうするの?」
アリアの問いに、ルシアンは乱れた襟元を手早く整え、歪んだ眼鏡を指先でクイと押し直した。
「僕にあんな垂直な排水ダクトをよじ登る体力など微塵もありませんよ。……僕たちは大聖堂の表側へ回り、皇女とお目付役の正規身分証を使って、正面の大通用門から何食わぬ顔で水水晶の離宮へ戻るのです。堂々としていれば、誰も前祭の夜間視察を疑いはしません」
その理路整然とした抜け目のなさに、アリアはふっと破顔した。
先刻まで怒りに肩を震わせ、涙を滲ませていた凛々しい戦姫の顔はどこへやら。
小首をこてんと傾げ、菫色の瞳を細めてニシシと悪戯っぽく八重歯を覗かせる。
まるで、悪悪巧みが成功した路地裏の悪ガキのように、無防備でとびきりキュートな笑顔をルシアンの至近距離へと突き出したのだ。
「ふふっ……! 悪知恵だけは本当に働くわね、嫌味眼鏡」
「――っ!?」
あまりに距離の近い眩しすぎる笑顔に、ルシアンは思わず息を呑み、居心地悪そうに半歩後ずさった。
彫刻のように涼しげだった美貌が一瞬で乱れ、動揺を誤魔化すように乱暴に咳払いをして眼鏡のブリッジを押し上げる。
「……ご、合理的な判断と言いなさい、じゃじゃ馬殿下! まったく、誰の尻拭いをさせられていると思っているのですか……!」
「はいはい、頼りにしてるわよ相棒!」
肩をすくめてケロッと笑い飛ばすアリアと、胃を押さえて深い溜息を吐き出すルシアン。
憎まれ口を叩き合いながらも、二人の間には、理屈を超えて命を預け合える「悪友バディ」としての確固たる連帯感が結ばれていた。 二人は互いに灰褐色の外套を目深く被り直した。
部屋を出る間際、アリアはもう一度だけ振り返り、祭壇の前で自分たちを見つめるフィリアと視線の交わした。 蝋燭の明かりの中、桜金色のサイドテールを揺らし、胸元のクリスタルに手を添えて小さく頷く少女。
その瞳には、もう冷たい諦めの色はなかった。 祈祷室の重厚な扉が静かに閉ざされ、二人は冷厳な白大理石の回廊へと滑り出した。
頭上の天蓋結界が薄藍色から乳白色へと移ろいゆく中、聖都の空へ、夜明けを告げる前祭の重厚な金鐘が厳かに鳴り響いていた。 嵐の前の、静謐な七日間の始まりを告げるように。 (第五話 完 / 第六話へ続く)
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フィリアのイメージイラスト
作者の千石です。ここまで読んでいただきありがとうございます。
本作は仕事しながら何気に思いついた設定を、AIに壁打ちしてたら、どんどん解像度があがり、気づいたら筆を執ってました笑
もともとモンハンとか好きで、2次創作したいなぁと思ってたのが、こんな形で始めることになるとは思ってませんでした。まだまだ始めたばかりで、慣れてないところはありますが、わずかでも楽しんでいただけたら幸いです。




