第五話:『典礼院の白百合と二代目生贄』 第三節:クラッシュ・ケージ
祈祷室の外、回廊の大理石を叩く金属靴の重厚な足音が、扉の直前でピタリと止まった。
外側の金属製かんぬきが持ち上げられ、何重もの神聖錠前が冷徹に噛み外されていく。
続いて、密閉されていた室内の気圧差を切り裂くように、重厚な白木の扉が床石を深く擦りながら、低く鈍い地鳴りのような軋みを上げてゆっくりと左右へ押し開かれた。
踏み込んできたのは、純白のマントを羽織り、白銀と深紅の装甲で身を固めた六名の神官騎士――教皇庁直属、『聖樹近衛騎士団』の典礼執行隊だった。
その胸当てには、世俗の貴族紋章ではなく、神樹聖教の威光を示す黄金の双頭聖樹紋が刻まれている。
だが、先頭の執行隊長は入室した瞬間、異様な気配に足を止め、腰の儀礼剣の柄へと指を掛けた。
回廊の防壁結界を抜けてきたはずの気配。
先刻の足音を察知し、咄嗟に灰褐色の外套を目深く被り直して身構えていた三つの影が、祭壇の前にへたり込んで座り込むフィリアを背に庇うように立ち塞がっていたのだ。
「……何者だ」
執行隊長の冷徹な声が、薄暗い祈祷室の静寂を切り裂いた。
背後に控える部下たちが携えているのは、神聖な典礼具などではない。
高濃度の神水を強制循環させるための魔導配管が巻き付けられた拘束帯付きのストレッチャーと、極太の導魔針が収められた黒塗りのトランクだった。
教皇庁典礼院による、定期的な血液透析とマナ抽出のための機材――教会の最高機密たる回収作業。
それを何者かに目撃されたと察した隊長の双眸に、冷酷な警戒の光が宿る。
「聖女フィリア様から離れろ、賊め。……何者の手引きだ。スラムの過激派か、それとも異端の拉致工作員か」
外套の陰で、アリアは握りしめた両拳を白くなるほど強く引き絞った。
怒りで肩が細かく波打ち、奥歯をギリリと噛み締める。
一歩前へと踏み出したその足先は、床の大理石を激しい摩擦音で捉えていた。
「……あんたたちこそ、そのおぞましい鉄の檻を下げなさい」
低く、研ぎ澄まされた刃のような声。
その声と同時に、アリアは乱暴にフードの縁を掴み取ると、背後へと勢いよく跳ね除けた。
ふわりと広がったのは、蝋燭の淡い光を浴びて青白く輝く、透き通るような白銀の髪。
夜明けの東天を宿した澄んだ菫色の瞳が、燃え盛るような義憤の炎を宿して執行隊長を射すくめていた。
「な……っ!?」
隊長の呼吸が止まった。
背後の神官騎士たちも、息を呑んで硬直する。
「だ、第七皇女……アリア殿下……!? なぜ、殿下がこのような場所に……!?」
外界から厳重に隔離された、教会の絶対不可侵領域『深奥祈祷室』。
そこに、皇宮でおとなしく神輿として飾られているはずの皇女が、身軽な訓練着の姿で立っている。
隊長の厳格な顔が、驚愕と狼狽で激しく引き攣った。
「なぜ、ですって?」
アリアは冷ややかに目を細めると、座り込んだまま震えるフィリアの華奢な肩の前に立ち塞がり、完全に自分の背中側へと隠した。
「あんたたち聖職者の浅ましい面の皮を、あたしのこの手で引っぺがすために決まってるでしょ。……『抽出工程』? 『透析ノルマ』? 疲れ果てた少女を部品みたいに扱って、神樹の教えが聞いて呆れるわ!」
その糾弾に、隊長の眉がピクリと跳ね上がった。
知られたのだ。
神樹降誕祭の裏で行われている、二代目生贄からの過酷な生体マナ抽出の事実を。
(世俗の皇女に、この最高機密を見られただと……!? これが漏れれば教皇庁の神聖秩序に関わる……!)
そこへ、アリアの背後の暗がりから、長いローブを纏った長身の青年が静かに歩み出た。
「殿下の仰る通りです。生体資源の限界を無視した強制的なマナ搾取など、術理の理法に反する愚行ですよ」
歪んだ眼鏡を指先で押し上げるルシアン。
執行隊長はその青年の佇まい、そして手にした精緻な魔導杖と胸の首席ブローチを凝視し、ハッと目を見開いた。
「貴様は……まさか、帝立魔導アカデミーを歴代最年少で首席卒業したという、四元素同時連鎖の麒麟児……ルシアン・ド・アイテールか!?」
「光栄ですね。教会の近衛の方にも名前を覚えていただいているとは」
ルシアンは氷のように体温の低い声で、淡々と視線を返した。
「契約上、僕は現在、殿下の生活監督官を務めております。不法侵入を止める義務はありますが……あなた方の下品な生体実験を見過ごすほど、学府の誇りを捨ててはいませんのでね」
「……なるほど、学府の神童が皇女に知恵を貸したか」
隊長の瞳から、一切の感情が削ぎ落とされた。
神樹聖教にとって、教義の欺瞞と生贄システムは絶対に外部へ漏らしてはならない至高の禁忌。
相手が皇女であろうと、学府の麒麟児であろうと、この神聖の深奥で知るべきでない真実に触れた以上、ただの一歩も外へ生かして帰すわけにはいかない。
ジャキ……と、冷酷無比な金属の擦過音が響いた。
隊長は無言のまま、腰の長剣を滑らかに引き抜いた。
磨き抜かれた白銀の刀身に、神樹の祝福を模した淡い黄金の光輪が、チリチリと神聖な燐光を纏って立ち上る。
切っ先をわずかに持ち上げ、寸分の狂いもなくアリアの眉間へと水平に固定した。
その所作には、迷いも躊躇も欠片一つ存在しなかった。
「問答は無用。皇女殿下は異端に惑わされて乱心し、神聖なる祈祷室を穢された。……聖域防衛法に基づき、全員をその場で拘束する。多少の手荒は不問とする――制圧しろッ!!」
「誰を制圧するってェ!?」
号令の語尾に重なるように、祈祷室の天井――大理石の梁の上から、オレンジブロンドのつむじ風が急降下した。
『瞬歩・飛燕脚』。
空中で体を水平に倒したリンの右足が、警報魔結晶へ手を伸ばしかけていた先頭の神官騎士の鉄兜へ、目にも留まらぬ速度で叩き込まれる。
凄まじい金属破壊音が室内に反響し、首をへし折られるような勢いで騎士の巨躯が横の壁へと叩きつけられた。
悲鳴すらなく、壁の亀裂とともに崩れ落ちる大男。
「なっ……伏兵だと!? 構えろッ!」
もう一人の騎士が長槍を構えて突進しようとした、その刹那――
ルシアンの魔導眼鏡のレンズ奥から、鮮烈な群青色の光跡が奔流となって空間へ解き放たれた。
「足元が疎かですよ」
ワンドの切っ先が描いた幾何学陣から、大理石の床石の継ぎ目に沿って、エメラルドグリーンの光のコードが稲妻のように四方へ疾走する。
直後、騎士の踏み込んだ白大理石が分子結合を喪失し、琥珀色の飛沫を上げてドロリとした重たい泥水へと一瞬で液状化した。
「なっ……地面が――!?」
支えを失った騎士の巨躯が、甲冑の自重に引っ張られて前のめりに崩れ落ちる。
その無防備に晒された胸元へ――
着地したリンが、低く踏み込んでいた。
叫びなどない。
技名を誇示するような無駄口すら、この少女は一切叩かない。
ただ、息を吐き出す微かな呼気の揺らぎとともに、体内の生体気流を右腕へと極限まで収束させる。
バンデージの隙間から、パチリ、と蒼白い火花が散った。
直後――室内の空気が、一度だけ不自然に収縮した。
音が消え去るような、一瞬の完全な真空の静寂。
リンの小さな掌底が、騎士の分厚い胸当てへと吸い込まれた。――『浸透勁・砕霊掌』。
表面の硬質な装甲板には、擦り傷ひとつ付かない。
だが、接触したコンマ数秒後、甲冑の背部――鋼鉄の継ぎ目という継ぎ目から、逃げ場を失った蒼い衝撃波が、破裂音とともに白い高圧蒸気の濁流となって背後へ吹き抜けた。
肉体を直接揺るがされた大男は、眼球を裏返して血泡を吹き、重厚な金属の軋み音とともに床の泥濘へと前のめりに崩落した。
音を置き去りにした、絶対の一撃昏倒。
「お、のれェッ……!」
残された執行隊長と三名の騎士が、神聖光を帯びた魔導剣を抜き放ち、四方からアリアへ殺到する。
だが――アリアの菫色の瞳は、その切っ先の軌道を欠伸が出るほど冷静に見切っていた。
下町の地下リングで、リンと顔面を殴り合って生き抜いた泥臭い時間。
あの兇刃や、命懸けの拳に比べれば、儀礼的な型に縛られた騎士の一撃など、止まって見えるに等しかった。
(遅い……っ!)
アリアの足指が大理石の床を噛む。
始祖原水流――『転導の歩法』。
振り下ろされた神聖剣の刃筋を、わずか数ミリの身のこなしで紙一重に躱すと、アリアは手にした白銀直剣の『鞘』を、下から上へと強烈に跳ね上げた。
重厚な鞘の先端が、執行隊長の顎先へと正確無比にクリーンヒットした。
脳を強烈に揺さぶられた隊長は、歯の欠片と唾液を撒き散らしながら宙を一回転し、背中から大理石の床へと叩きつけられる。
間髪を入れず、残る三名の騎士が左右と正面から挟撃を仕掛けてくるが、アリアは回転の遠心力をそのまま活かし、直剣を鞘ごと鋭利な円舞の横薙ぎで振るい抜いた。
三名の側頭部の鉄兜を、鋼鉄の鞘がほぼ同時に叩き割る。
三人の騎士は崩れ落ちるように膝をつき、そのまま白目を剥いて前のめりに床へと突っ伏した。
静寂が、再び祈祷室へと降り立った。
アリアは乱れた息を整えながら、両手で水平に構えていた鞘の切っ先をくるりと手首の返しで下段へと払った。
金属の熱気を帯びた鞘を腰の革ベルトのホルダーへと滑らかに差し戻し、カチャリ、と親指で脱落防止の留め金を鳴らして固定する。
「ふん……見かけ倒しのブリキ人形どもが。手応えすらありゃしねえよ」
傍らで、リンが手首のバンデージをキュッと噛んで締め直しながら、転がる騎士の鉄兜を爪先で小突いて鼻を鳴らした。
「まったく……乱暴な方々だ。教会の近衛兵を全員昏倒させるなど、後でどれほどの言い訳が必要になるか……ああもう、胃の粘膜が悲鳴を上げていますよ」
背後では、ルシアンが深くため息をつきながら魔導杖をホルスターへと収め、歪んだ眼鏡の位置を指先で直していた。
手帳の余白に素早く数式を書き殴り、大聖堂の防犯感知の復旧時間と脱出ルートをすでに逆算し始めている。
そんな三人の後ろ姿を――祭壇に膝をついて座り込んだままのフィリアが、言葉を失って見つめていた。
一本の蝋燭が揺らす頼りない明かりの中、床に転がる無残な甲冑の残骸と、肩で息をしながら自分を背に庇い続ける白銀の皇女。
生まれてから十六年間、神官たちの冷徹な命令に従い、ただ痛みに耐えて首を垂れることしか知らなかった少女のエメラルドの双眸に、大粒の涙がじんわりと滲み出し、淡い光を反射して震えていた。
恐怖ではない。
自分という存在のために、命と立場を投げ打って怒り、盾となってくれた者たちの背中を前にして、少女の固く閉ざされていた胸の奥が、生まれて初めて激しく軋みを上げていたのだ。
(第四節へ続く)




