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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第五話:『典礼院の白百合と二代目生贄』 第二節:コンタクト

 前祭の熱狂が広場の石畳を揺らし続ける中、大聖堂の北側外壁――巨大なステンドグラスが深い影を落とす裏手のアーチ回廊は、外の喧騒を遮断した冷厳な静寂に沈んでいた。

 頭上数十メートルまで切り立った白大理石の壁面。

 その奥に穿たれた『神聖回廊・北通用門』の重厚な黒鉄扉の前には、二名の重装警備神官が抜き身の槍を携えて直立していた。

 そして彼らの手前、アーチの開口部全体を塞ぐように、淡い黄金の光を放つ微細な幾何学模様が、幾重にも重なって空間を仕切っている。

 神樹聖教が誇る最高位防壁――『音波共振型聖別結界』。

 侵入者を拒む光のカーテンの向こう側に衛兵と扉があり、少しでも波長を乱せば、即座に大聖堂全域へけたたましい警鐘が鳴り響く構造だった。

「……っ、見なさい。この術式密度は異常です」

 結界の手前、柱の暗がりに身を寄せたルシアンが、額の脂汗を指先で拭いながら、魔導眼鏡の単眼照準器をカシャリと展開した。

 レンズの内側に、結界の干渉縞と周波数が目まぐるしい青白い数値となって投射される。

「大気中のマナ粒子を特定周波数で常時共振させ、侵入者の生体波長を即座に感知する二重構造……。本来、神官長の生体認証パスがなければ突破は不可能です。……やはり無茶ですよ殿下、今ならまだ離宮へ引き返せます! 捕まれば不敬罪どころでは――」

「引き返すわけないでしょ。あんたのその優秀な頭脳は、飾りのために乗っかってるの?」

 アリアは灰褐色のフードの奥から、菫色の瞳を鋭く光らせてルシアンを小突き返した。

 隣で身を屈めていたリンも、手首のバンデージを噛んで引き締めながら、八重歯を剥き出しにして笑う。

「そうだぜ眼鏡! 能書き垂れてねえで、さっさとそのスカした頭で風穴開けな!」

「ああもう、二人とも口を慎みなさい……! 集中したいんだ……!」

 ルシアンは悪態をつきながらも、手元の細身の魔導杖を水平に構え、手帳の余白に極小の数式を滑らせた。

【思考加速・戦術幾何学展開】。

 レンズの奥に青白い数理モデルが幾千もの奔流となって雪崩れ込み、銀縁のフレーム越しに青い光の粒子が、まるで蛍の群れのように青年の双眸の周りで揺らめき、瞬く。極限まで研ぎ澄まされた演算意識が、大気中に張り巡らされた結界の「呼吸」を捉えていた。

「結界の共振周期は、一・八秒ごとにコンマ〇四秒の位相リセットが入る。……その隙間に極小の反転波長を打ち込み、人ひとりが通れる綻びを無理やりこじ開けます。僕が術を維持しながら通り抜けられる限界は、わずか二秒! 突破の手順は一度きりです」

 ルシアンは二人へ素早く指を立ててみせた。

「まずリンが穴を抜け、向こう側にいる二名の衛兵を無音で無力化すること。続いてアリア殿下が通り抜けて扉を開放し、最後に僕が滑り込む! 二秒を過ぎれば結界が再起動し、けたたましいアラームが響き渡ります。……行きますよ!」

 ルシアンのワンドの切っ先から、針のように細い青白いマナ流が音もなく放たれた。

 黄金の幾何学模様の中心へ正確に突き刺さると、パチリ、と微かな火花が散り、光のカーテンの中央に楕円形の暗い穴が穿たれた。

 ――カウント、開始。

 コンマ三秒。

 先陣を切ったリンの足元が、完全に掻き消えた。

『瞬歩・飛燕脚』。

 結界の穴を低空で滑り抜けたリンは、光の明滅に気づきかけた二名の警備神官の足元へ、地を這うような速度で潜り込んでいた。

 一秒の到達点。

 左右の手刀が、神官たちの首筋の経穴へと寸分の狂いもなく吸い込まれる。

 大男二人の巨躯が、悲鳴どころか息を漏らすことすら許されず脱力した。リンはその襟首を両腕で器用に掴み、床へ音もなく倒れ込ませる。

 一秒五。

 神官たちが崩れ落ち、扉の前が開けた瞬間、アリアが風を裂いて穴を跳び越えた。

 目指すは背後の黒鉄扉。

 重さ数百キロの防音扉の召し合わせの隙間へ、アリアは躊躇なく両手の指先をねじ込んだ。

 常人であれば指骨を折るだけの愚挙。

 だが、少女の全身の毛細血管に、初代聖帝の原初マナ――『蒼血』が激しい熱を帯びて駆け巡った。

 青白い不可視の生体熱が筋肉を貫き、細い前腕の筋繊維が爆発的なトルクを生み出す。

 ギチ、と蝶番が微かな悲鳴を上げ、閂(かんぬき)が外れていた扉が、人間一人が滑り込める幅だけ強引にこじ開けられた。

 一秒八。

「閉じる……っ、早く!!」

 結界の穴が急速に収縮を始める中、術を解除したルシアンが前へ飛び込んだ。

 長身を折り曲げ、スライディングの要領で結界の境界線をすり抜けると、その背後――わずか数ミリの空間で、黄金の結界がバチンと火花を散らして完全に元通りに塞がった。

 二秒ジャスト。

 アリアが押し開けていた扉の隙間へ、リンが神官たちを転がし入れ、ルシアンが転がり込み、最後にアリアが滑り込んで扉を静かに閉ざす。

 カチャリ、と重厚な掛け金が落ち、完全な密室の静寂が降りた。

「……っ、げほっ……! は、肺が……潰れるかと思いました……」

 冷たい床に四つん我になり、歪んだ眼鏡を押さえながら激しく喘ぐルシアン。

「合格だぜ、眼鏡! やりゃあできるじゃねえか!」

 リンが豪快に八重歯を覗かせてルシアンの背中をバシッと叩き、青年は「ぐふっ」と短く呻いて床へ突っ伏した。

 アリアは息を整えながらフードを払い、薄暗い地下回廊の奥を見据えた。

 ひんやりとした、薬品と薫香の入り混じる濃密な静寂。

 磨き抜かれた白大理石の壁には等間隔に聖樹の燭台が灯り、天上天下のあらゆる穢れを拒絶するかのような、完璧に整えられた無菌の回廊が奥へと続いていた。

 ルシアンが立ち上がり、歪んだ眼鏡を直して手帳の配水図を指先で辿る。

「……この区画です。式典を終えた聖女が、外部の穢れを落とすために籠もる『清めの深奥祈祷室』」。

 突き当たりにあったのは、豪奢な白銀のレリーフが施された、重厚な白木の扉だった。

 鍵は掛かっていない。逃げ出す者など最初から想定されていないのだ。

 アリアは息を潜め、指先を湿った冷たい木肌に掛け、わずか数センチだけ、音を立てずに扉を押し開けた。

 隙間から流れ出してきたのは、息が白く凍りつきそうなほど冷え切った空気と、鼻腔の奥をツンと刺す沈香の微かな残り香。

 祭壇の上にぽつんと灯された一本の蝋燭の明かりが、祈祷室の深い影の中で揺れ、その微かな光の輪の中に、途切れ途切れの静謐すぎる祈りの呟きが溶けていた。

「……神樹の幹よ、根よ……。どうか今宵も、飢えし者たちへ露を満たしたまえ……」

 部屋の中央、白大理石の祭壇の前に、彼女はいた。

 純白の三重ローブの裾を床に広げ、膝をついて両手を胸の前で固く組み、一心不乱に祈りを捧げているフィリアの姿。

 天蓋のバルコニーで見せたあの神々しい微笑みは、そこにはなかった。

 その肩は、痛々しいほど細かく震えていた。

 先ほどの大規模魔導による激しい魔力枯渇の反動。

 乱れた呼吸が、微かな吐息となって薄暗い室内に落ちるたび、少女の華奢な背中が苦しげに上下している。

 重厚なケープの隙間から覗く首筋や手首の肌は、まるで雪の上に落ちた影のように青白く透き通り、指先は体温を失って白く強張っていた。

「……っ、フィリア!」

 アリアは思わず扉を押し開け、足音を忍ばせながら部屋の中へと踏み込んだ。

 背後でルシアンが「ちょ、殿下……!」と小声で手を伸ばしたが、アリアの足は止まらなかった。

 突然の侵入者に、祈りを捧げていた少女がビクッと肩を跳ね上がらせ、ゆっくりと振り返った。

「……え……?」

 ふわりと揺れた桜金色のサイドテールが、蝋燭の淡い光を浴びて淡い輪郭を描く。

 振り返った少女の表情は、警戒でも怯えでもなかった。

 潤んだエメラルドの瞳をパチパチと瞬かせ、結んでいた両手を胸の前で宙に浮かせたまま、小首をこてんと傾げている。

 まるで、森の奥の泉で突然人間の子供に出くわしてしまった小鹿のように、頭の上にぽつんと疑問符を浮かべた無防備な『きょとん顔』。

 張り詰めていた祈祷室の冷たい空気が、その少女の佇まいひとつで、ふわりと春の陽だまりのように緩んでいく。

 それは、祭壇の上で何十万もの民を跪かせていた「至高の聖女」とはまるでかけ離れた、年相応のあどけない少女の姿だった。

「あ、あの……どなた、ですか……? 騎士様……では、ありませんよね……?」

 警戒というよりは、迷子の小鳥のような、あまりにも無毒で柔らかい声。

 その声の底にある、傷ついた者の心をそっと包み込んで溶かすような温もりに、勢い込んで詰め寄ろうとしたアリアの足が、思わずピタリと止まった。

「……あたしはアリア。第七皇女のアリアよ」

 アリアは勢いよく外套のフードを後ろへ跳ね除け、身軽な訓練着の上から、白銀のポニーテールを露わにした。

「皇女、殿下……?」フィリアは両手を胸に引き寄せ、信じられないものを見るように目を丸くしてアリアを見つめ返した。「なぜ、このような場所に……?」

「あんたを連れ出しに来たのよ!」

 アリアは身を乗り出し、自らの胸元を親指で突き刺すようにして声を張った。

「市場で見たわ。教会の奴らが、あんたを『二代目の生贄』と呼んでいたのを! さっきのバルコニーの祈りだってそうよ、あんた、自分の身体を削って無茶な魔導を使わされてるじゃない! このままここにいたら、あんたは百年前のクラリスと同じように、骨まで吸い尽くされて殺されるわ!」

 アリアは祭壇の前へ膝をつき、フィリアの冷たく震える両手を力強く握りしめた。

 その至近距離で、フィリアのエメラルドの双眸が、息を呑むように見開かれた。

(……あ……)

 息が止まりそうだった。

 目の前にいる少女の顔。

 月光をそのまま紡ぎ出したような白銀の髪、夜明けの東天を宿した澄んだ菫色の瞳、陶器のように滑らかな白皙の肌。

 大聖堂の奥深く、歴代の聖女を記録した禁忌の古文書や、祈祷室のステンドグラスに掲げられている「伝説の聖女クラリス」の肖像画。

 その絵画の中から抜け出してきたのではないかと錯覚するほど、目の前の皇女は、かつて神樹の犠牲となったという先代の聖女と瓜二つだったのだ。

 だが――決定的に違っていた。

 絵画の中のクラリスが、どこか儚げに世界を諦めたように微笑んでいたのに対し、目の前のアリアの瞳には、燃え盛るような命の輝きと、他人の理不尽に対して本気で怒る「剥き出しの熱情」が滾っていた。

 その熱気に圧倒されながらも、フィリアは困ったように眉尻を下げた。

 そして――ふわりと、あまりにも穏やかに、哀しいほど優しい微笑みをその唇に浮かべたのだ。

「……知って、います」

「……え?」

 アリアの言葉が、喉に張り付いた。

 フィリアは、アリアの温かい掌の中で、自分の青白く透けた指先を愛おしそうに見つめた。

 その表情には、怯えも、怒りも、世界への恨みすら欠片も見当たらない。

 春の陽光を浴びた水面のように、ただ静かに、自らに課された痛切な運命のすべてを受け入れ、肯定してしまっている者の穏やかさ。

 その完璧な諦念の笑顔こそが、何よりも痛々しかった。

「子供の頃から……ずっと、この大聖堂の地下で育てられてきました。毎日、冷たい神水で身体を清められ、たくさんの魔導具を着せられて……。神官様たちが私のことを『壊れやすい器』と呼んで、腫れ物のように見ていることも……分かっていました」

 静かな声が、祈祷室の冷気を温めるように染み渡る。

「ですが……私は、孤児でしたから。神樹に捧げるための身代わりとして拾われ、こうして生かしていただくだけでも、身に余る恩寵なのです。それに――」

 フィリアは顔を上げ、エメラルドの瞳をアリアの菫色の瞳へと真っ直ぐに向けた。

 そこにあったのは、誰かに強制されたのではない、心の底から湧き出る本物の慈愛の光だった。

「さっき、バルコニーから見えたのです。私の祈りで、泣き止んでくれた子供たちがいました。苦しそうに胸を押さえていたおじい様が、笑顔になって立ち上がってくれました。……私のような者が、少しばかり息苦しさを我慢して、血を流すだけで……あの何千人、何万人もの方々が、今日を幸せに生きられるのなら」

 フィリアは胸元に手を当て、自らに言い聞かせるように、そっと目を細めた。

「それは……とても、幸福なことだと思うのです」

「――っ」

 アリアの奥歯が、きしりと音を立てた。

 言葉が出なかった。

 騙されているのなら、目を覚まさせればいい。

 脅されているのなら、剣でその鎖を断ち切ればいい。

 だが――目の前の少女は、自分がすり潰される運命を誰よりも深く自覚しながら、自らの意志で、他人の幸福のためにその身を薪として差し出してしまっていたのだ。

(なんなのよ、それ……! なんなのよ、その笑い方は……っ!)

 胸の奥を万力で締め上げられるような、耐えがたい息苦しさ。

 後ろに控えていたリンもまた、珍しく言葉を失い、やり場のない怒りに拳のバンデージをギチギチと軋ませていた。

 ルシアンだけが、歪んだ眼鏡を指先で押し上げながら、苦渋に満ちた表情で視線の位置を伏せていた。

「……非論理的です」

 ルシアンの掠れた声が、沈黙を破った。

「一個人の肉体と魂を燃料にして買い叩く安寧など、構造として破綻している。……あなたがどれほど高純度のマナを持っていようと、生体資源である以上、いずれ限界を迎えて燃え尽きる。その時、救われたはずの民はどうなるのですか」

 正論だった。冷徹で、寸分の狂いもない真理。

 だが――フィリアは伏せ目がちに長い睫毛を伏せ、ちょっぴり寂しそうに、困ったように眉をひそめて小さく唇を震わせた。

 まるで、自分がいなくなったあとの世界の寒さを、独りぼっちで想像してしまった幼子のように。

「……その時は、次のどなたかが、また祈るだけです」

「フィリアッ!!」

 アリアの叫びが、祈祷室の石壁を震わせた。

 たまらず少女の細い両肩を掴み、力任せに揺さぶりかける。

「次の誰か、ですって!? ふざけないでよ! あんた自身の命はどこにあるのよ! 誰かのために死ぬのが幸福だなんて……そんなの、絶対に間違ってる!!」

 アリアの顔は、くしゃくしゃに歪んでいた。

 眉根を激しく引き絞り、唇をわなわなと震わせ、他人の理不尽な諦めに心底から傷つき、激昂している顔。

 その菫色の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出し、赤く熱を持った頬を伝って零れ落ちていく。

 自分のために泣いてくれる人がいる。

 自分の理不尽を、我がことのように怒ってくれる人がいる。

 生まれて初めて向けられた、魂からの激しい温もりに、フィリアは息を呑み、白銀の皇女の濡れた瞳を、ただ呆然と見つめ返していた。

 ――だが。

 その張り詰めた空気の奥、祈祷室へと続く重い石畳の回廊から、冷酷に靴底を打ち鳴らす複数の足音が、急速に近づいてきた。

(第三節へ続く)


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