第五話:『典礼院の白百合と二代目生贄』 第一節:天蓋の白百合と、生贄の微笑み
神樹降誕祭の本番まで、あと七日。
祭典の幕開けを告げる前祭の朝、聖都アルシリアの中央大広場は、すり鉢状の石畳を埋め尽くす数十万の民衆でごった返していた。
頭上を覆う白亜の天蓋結界から降り注ぐのは、朝露を七色に照らす人工の陽光。
神樹イグニス・アルボルの巨根の合間、天を衝くようにそびえ立つ神樹大聖堂のバルコニーを見上げ、民衆は両手を胸の前で固く組み、あるいは石畳に額を擦り付けるようにして、渇望の叫びを上げていた。
「――おお、神樹の愛娘たる聖女様! どうか我らにその尊き御姿を!」
「救世の光を我らに! 我が子の病を、魂の渇きをお癒やしください!」
崇敬と狂信の混ざり合った地鳴りのような熱狂が、白亜の街並みを物理的に揺らしている。
その熱気渦巻く広場の後方、大理石の回廊の太い円柱の陰に紛れ、外套のフードを目深に被ったアリアは、群衆の頭越しにバルコニーをじっと見つめていた。
白銀の髪は外套の内側にきつく押し込み、隣ではリンが人混みに揉まれて舌打ちしながら腕を組み、背後ではルシアンが群衆の埃っぽさに顔を顰めつつ、周囲の警備兵の視線を警戒している。
やがて、大聖堂の金鐘が重厚な調べを奏で、巨大なテラスの扉が厳かに左右へと開かれた。
進み出てきたのは、一人の少女だった。
「……っ」
アリアの喉から、思わずかすかな息が漏れた。
少女の髪は、朝焼けの雲を織り上げたような、柔らかく波打つ桜金色。
右耳の横で優美なレースリボンによって緩やかに束ねられたサイドテールが、微風に揺れてふわりと光の輪を描いている。
陶器のようにきめ細やかな白皙の肌、そして潤んだ瞳は、神樹の若葉を水底に沈めたような、深く澄み渡ったエメラルドの翠色。
十六歳。
アリアやリンと同年代であるはずのその姿は、あまりにも浮世離れし、神話の祭壇に飾られた一輪の百合のように儚げだった。
だが、その華奢な体躯を包んでいるのは、優雅な礼装などではなかった。
首元の喉仏の直下まで幾重にも折り重なった、息の詰まるほど分厚い純白の聖職者ローブ。
足首までを完全に覆い隠す豪奢なケープには、黄金の糸で緻密な神樹の魔導回路が刺繍されており、胸元には拳大の緑色魔結晶を嵌め込んだ重厚な金具が、少女の細い首を締め付けるように留められている。
布地越しであっても隠しきれない、豊かな胸元の起伏――百年前、神樹の猛毒を身に吸い上げて痩せ細り、衰弱していったというクラリスの儚げなスレンダーさとは対照的な、瑞々しい生命の豊満さ。
しかし、その重厚な三重ローブの真実を、アリアたちは昨日の市場の惨劇ですでに知らされていた。
外界の泥や病から少女を完全に隔離し、その血肉と生命力を最も純粋な状態で保ち続けるための、教会による『鮮度管理の檻』そのものなのだ。
少女――フィリア・エル・セラフィムは、両手で白い聖樹の杖を掲げると、広場を埋め尽くす民衆へ向けて、ふわりと柔らかく微笑んだ。
周囲の張り詰めた空気を一瞬で緩めるような、聖母のごとき慈愛の笑み。
広場に満ちていた悪臭や熱気すらも、その柔らかな微笑みひとつで、春の木漏れ日のような穏やかさへと塗り替えられていく。
「――神樹の御名において、天蓋の恵みをここに」
その唇から紡ぎ出された声が、大聖堂の天蓋から広場全体へと、染み渡るように静かに響き渡った。
それは、アリアの声とは対極の調べだった。
アリアの声が、冬の早朝の氷をピシリと割る清水のように澄み渡り、聞く者の背筋をすっと正して前を向かせる「凛とした銀の響き」を宿しているのだとすれば――
フィリアの声は、陽だまりの春風に揺れる花弁のようにどこまでも柔らかく、微かな吐息の揺らぎまでが温もりを帯びて、人々の強張った痛みや心の傷をそっと包み込んで溶かしてしまう「母神の揺籃のような調べ」だった。
どちらも魂を揺さぶる至高の響きでありながら、前へと進ませる光と、痛みを抱き止める光。
そのあまりに尊い声が落ちた瞬間、フィリアの全身から目も眩むような黄金の燐光が立ち上った。
神聖魔導――『熾天の聖域結界』。
大聖堂の上空に、幾何学的な光の紋様を描く巨大な魔法陣が幾重にも展開される。
そこから降り注いだのは、淡い金色の粉雪のような光の粒子だった。
光を浴びた民衆の擦り傷がみるみるうちに塞がり、咳き込んでいた老人の呼吸が整い、広場全体が奇跡を目の当たりにした歓喜の涙で満たされていく。
「……っ、すっげえ光だな……! 傷口が本当に消えてやがる!」
リンが目を丸くして息を呑む中、背後のルシアンが懐から二つの薄い偏光クリスタルを取り出し、アリアとリンの手元へ素早く差し入れた。
「殿下、リン。これを覗きなさい。僕の眼鏡の望遠術式と同期させてあります」
二人がクリスタルを目元にかざすと、遥か高所のバルコニーに立つフィリアの姿が、息遣いまで伝わるほど鮮明に手元へ引き寄せられた。
レンズ越しに見えたのは、歓喜に沸く民衆には決して見えない、過酷な現実だった。
「……成程。確かに、神聖適性と光属性の純度にかけては、アカデミーの歴史上にも前例がないほどの天才だ」
ルシアンは魔導眼鏡の数値を弄りながら、苦々しく呟いた。
「ですが……あれは百年前のクラリス様が起こしたという『奇跡』とは、全くの別物です。クラリス様のそれは、因果そのものを正常化させ、術理の枠すら超えた絶対の権能だった。……しかし、あの少女の術は、純粋な【超高負荷の魔導】に過ぎない」
「どういうことよ?」
アリアがクリスタル越しに瞳を凝らす。
「見なさい。あの重厚なローブの袖口の隙間――手首の肌が、青白く透けるほど色を失っている。あれほど広大な聖域を維持するために、彼女は体内のマナ脈管を限界まで絞り尽くし、自らの生体エネルギーを猛烈な勢いで燃焼させているのです。クラリス様のように即座に寿命を食い破る猛毒の負荷ではないにせよ……あれは一回ごとに全身の血液と気力を根こそぎ奪われる、激しい魔力飢餓と貧血の拷問に等しい」
その言葉を裏付けるように、光の雨が降り止んだ瞬間、フィリアの足元がふわりと揺らいだ。
激痛ではない。だが、全身の力と体温を一瞬で失ったことによる、耐えがたい目眩と脱力感。
少女の長い睫毛が細かく震え、陶器のような白皙の頬から急速に血の気が引いていく。
倒れかけたその華奢な肩を、背後に控えていた黒服の異端審問官が、無言のまま後ろから恭しく支えた。
乱暴に扱うことはない。至宝を損なわぬよう、細心の注意を払った手つき。
だが、その支え方は救護の温もりなどではなく、「まだ倒れることは許されない」と冷徹に位置を固定する、鉄の添え木のようだった。
審問官が耳元で何かを囁くと、フィリアはかすかに息を整え、再び顔を上げた。
そして――自らの身体が激しい魔力枯渇で悲鳴を上げていることを誰よりも自覚しながら、眼下で涙を流して感謝を捧げる民衆を見つめ、何事もなかったかのように柔らかく微笑んで手を振ったのだ。
「これで、皆さんが助かるのなら」と。
己の身がすり減っていくことすら、慈愛の心で静かに受け入れてしまっている、悲しいほどに穏やかな微笑み。
「……っ」
柱の陰で、アリアは握りしめたクリスタルを強く引き寄せた。
怒りと、胸の奥を鷲掴みにされるような痛みが、全身の血を熱く滾らせていく。
誰かのために笑いながら、自らを薪にしていくあの歪な自己犠牲。
大聖堂の奥深くで、あの少女に待ち受けているであろう薄暗い檻の気配が、アリアの菫色の瞳をかつてないほど真っ直ぐな義憤の光で燃え上がらせていた。
(第二節へ続く)
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大衆に向け神聖魔法を行使するフィリア




