第四話:『不憫なる演算者とお目付役』 第四節:ターニング・ポイント
帝都の繁栄を象徴する白亜の大通りから外れ、緩やかな勾配を下った先。
標高の低い南東の外郭低地に位置する『第三水門市場』は、生活排水の湿り気と乾いた土埃、そして何千人もの平民たちの雑多な熱気に包まれていた。
頭上を横切る巨大な高架導水橋の影が、乱雑に立ち並ぶ露店の屋根に濃い陰影を落としている。露店先では安酒や魚の油煙が立ち上り、物売りの嗄れた呼び込み声が絶え間なく交差していた。
そんな下町の雑踏の中を、周囲の日常から完全に浮き上がった一団が、冷ややかな静寂を連れて行進していた。
先頭を歩くのは、第七皇女アリア。
いつもの身軽な外套ではなく、皇族の威厳を民に見せつけるための公務用正礼装――純白のシルクに銀糸の神樹紋様が隙間なく縫い込まれた、肩幅の窮屈なジャケットと膝丈のタイトスカートを身に纏っている。
その両脇には、磨き抜かれた白銀の甲冑に身を包み、抜き身の儀礼長槍を掲げた四名の帝国近衛兵が、平民たちを威圧するように周囲を警戒していた。
そしてアリアの斜め後ろ、半歩下がった位置には、帝立魔導アカデミーの首席礼装ローブを寸分の乱れもなく着こなしたルシアン・ド・アイテールが、几帳面に手帳を抱えて付き従っていた。
「……退屈。肩が凝って息が詰まりそう」
アリアは、沿道に平伏する平民たちへ形ばかりの淑やかな微笑みを浮かべつつ、扇で隠した口元から小さな溜息とともに愚痴を零した。
「公務とは民に帝国の秩序と安寧を視覚的に納得させるための儀式です。背筋を伸ばしなさい、殿下」
ルシアンは視線を落としたまま、手元の羊皮紙に微細なインク文字で進捗を記録していく。
「本日の課題は、降誕祭に向けた末端水路の配給状況の確認。市場の区画長たちへ儀礼的な労いの言葉を下賜し、教会の神水が平等に行き渡っているという絵姿を整えれば、それで僕たちの任務は完了です」
冷徹で、理路整然とした声。
だが、その銀縁眼鏡の奥にあるネイビーブルーの瞳には、昨日までのような刺々しい毒は宿っていなかった。
昨夜、スラムの裏通りで目撃したあの姿。
泥にまみれ、油で指を汚しながら肉串を頬張り、下町の荒くれ者たちと屈託なく笑い転げていた、生身の少女の表情。
宮廷の誰もが彼女を「過去の聖女の身代わり」という都合の良いお人形としてしか扱わない中で、あの窮屈なドレスの檻から必死に蒸し出し、自らの命の輪郭を確かめようとしていた姿が、ルシアンの脳裏に焼き付いて離れなかったのだ。
(この方もまた、あの冷え切った宮廷で息を殺しているに過ぎない……)
ルシアンが内心で静かに視線を巡らせた、その時だった。通りの前方、ざわめく人混みの奥から、怒号と何かが薙ぎ倒されるような騒々しい喧騒が急速に近づいてきた。「ちょいとそこ通してくれよ! 邪魔だ邪魔だァッ!」
「うわっ、なんだあいつは!?」「痛ぇな、突き飛ばすんじゃねえ!」
平民たちが左右へ派手に跳ね飛ばされ、道が開けていく。
砂埃を巻き上げながら全速力で突進してきたのは、見慣れたオレンジブロンドのショートボブだった。
耳元で朱色の房飾りを弾ませ、さらしの上から羽織った拳闘ベストを翻しながら、右手には市場の露店からくすねてきたらしい真っ赤なリンゴを握りしめている。
「よっ! アリアじゃねえか! 何だその着膨れしたガチガチの服はよォッ!」
「り、リン……!? なんでアンタがここにいるのよ!」
アリアが驚きのあまり素っ頓狂な声を上げて足を止める。
平民の小娘が皇女の名を平然と呼び捨てにした異常事態に、周囲を固めていた近衛兵たちが顔色を変え、一斉に槍を構え直した。
「貴様、不敬であるぞ! 殿下の御前から下が――」
だが、兵士たちが間合いを詰めるよりも早く、長い手足を翻したルシアンがアリアの前に滑り込むように立ち塞がった。
「止まりなさい、無礼者! 皇女殿下を軽々しく愛称で呼ぶなど大不敬罪に該当します! 近衛兵、この不審者を速やかに拘束――」
「ああん? なんだよこのスカしたモヤシは」
リンは足を止めるどころか、ルシアンの胸元へずいっと顔を近づけ、琥珀色の瞳を細めて八重歯を剥き出しにした。
「へぇ……! アリアが愚痴ってた『口うるさい嫌味眼鏡』って、アンタのことか!」
「なっ……!? ぎ、愚痴……!?」
「男のくせに随分と線が細えじゃねえか! ほら、背中が丸まってんぞ、もっと胸を張れよ!」
言うが早いか、リンの引き締まった右手が鋭い風切り音とともに閃いた。
掌に凝縮された生体気流が不可視の波紋を描き、ルシアンの細身の背中へと容赦なく振り下ろされる。
衣服の布地が激しく震え、強烈な空気の爆縮がルシアンの仕立ての良いローブを波打たせた。
肺の中の空気を余さず吐き出させられたルシアンの身体が、弓なりに折れ曲がって前方の敷石へと前のめりに崩れ落ちる。
その勢いで銀縁眼鏡が跳ね上がり、空中で幾度も光を反射しながら、泥水たまりの縁へと滑り落ちていった。
「あたしは下町のリンだ! これからよろしくな、眼鏡!」
豪快に八重歯を覗かせて親指を立てるリン。
「ぐ、ふっ……!? ぼ、僕の眼鏡が……っ! 前が見えな……っ!」
泥の上を手探りで必死に這い回る若き天才魔導士の姿に、近衛兵たちは槍を構えたまま呆然と固まり、アリアは吹き出しそうになるのを必死に堪えて、両手で口元を塞ぎながら肩をプルプルと震わせた。
「……ぷっ、くすっ……! もう、ちょっとリン! 何てことすんのよ……ふふっ!」
「硬ぇこと言ってんじゃねえよ! 挨拶代わりだろ!」
堪えきれずに笑いを漏らすアリアと、ケラケラと笑い飛ばすリン。
周囲の買い物客たちも何事かと足を止め、物珍しそうに輪を作って見守り始めていた。
――だが。
その微笑ましい日常の空気の足元で、異変は前触れもなく、静かに胎動を始めていた。
最初にその兆候を映し出したのは、道端に置かれていた水汲み用の木桶だった。
波一つ立っていなかった清らかな水面に、細かく震える波紋が幾重にも広がり始める。
続いて、敷石の隙間から、まるで地底の巨大な獣が身動ぎしたかのように、低く重たい震動が大地を誇って足の裏へと伝わってきた。
「……おい、地面が揺れてねえか?」
「水路の音が……いつもと違うぞ?」
平民たちが不安げに足元を見下ろし、ざわめきが波紋のように広がる。
市場の中央、川幅数十メートルに及ぶ幹線地下水路の直上。
神水の流量を調節するために設けられた、分厚い青銅製の巨大な水門盤から、金属が軋み擦れ合う不快な軋曲音が漏れ出していた。
蒸気機関の安全弁が吹き飛ぶ寸前のように、隙間から激しい白煙が吹き上がり、周辺の敷石が細かく跳ね始める。
噴き出してきた気体は、清涼な水蒸気などではなかった。
鼻腔の粘膜をチクチクと刺す、鼻を突く重金属の焦げた匂い。腐敗したヘドロの、濃厚な悪臭。
「……何、この匂い」
アリアの表情から笑みが瞬時に消え去り、菫色の瞳が鋭く細められる。
泥水の中から眼鏡を拾い上げて掛け直したルシアンもまた、レンズの奥の視線を水門盤へと固定し、顔色を急速に失わせた。
「水門の内圧が……臨界値を超えています! 退避しなさい、早く!!」
ルシアンの叫びと同時に、大地が激しく跳ね上がった。
何十トンもの重量を誇る青銅の水門盤が、下からの暴力的な圧力によってねじ切られ、激しい衝撃波とともに市場の天蓋へ向けて派手に吹き飛んだのだ。
破断した水門から、黒い濁流の柱が天を突くように噴き上がる。
それは帝都の誇る清澄な神水などではなく、高濃度の重金属とマナ残渣がヘドロとなって濃縮された、ドス黒く泡立つ『濃縮排液』だった。
津波となって広がった黒い汚泥が市場の露店を容赦なく押し流し、木組みの屋根を薙ぎ倒しながら四方へ雪崩れ込んでいく。
「うわああああっ!?」「助けてくれ! 水が……水が腐ってる!!」
逃げ惑う民衆の悲悲鳴がこだまする。
吹き飛んだ青銅の破片が石畳をえぐり、飛び散った泥濘が近衛兵たちを襲った。
儀礼用の分厚い甲冑を着込んだ兵士たちは、足元の粘土質の汚泥に足を取られて派手に転倒し、泥濘に沈み込んで身動きを封じられていた。
そして――その噴き上がる汚泥の深淵から、おびただしい数の異形が這いずり出してきた。
黒光りする甲殻をきしませ、鎌首をもたげたのは、体長四メートルから六メートルに及ぶ巨大な百足の魔獣――『濁泥大百足』の群れ。
地下水路の泥底に生息していた生物が、神樹から漏れ出た猛毒のマナを浴びて異常変異を遂げた成れの果てだった。
無数の鋭利な鉤足が石畳を削りながら、逃げ遅れた民衆へ向けて殺到していく。
「これじゃ、近衛兵の手を借りるわけにはいかないわね……!」
アリアは眉をひそめると、動きを妨げていた正礼装のタイトスカートを両手で力任せに引き裂いた。
躊躇なく腰の白銀直剣を抜き放ち、逃げ惑う民衆を背に庇うように、自ら魔獣の前に割って入る。
「民を逃がすわよ! リン、左右を塞いで!」
「へっ、任せときな!」
リンが両拳を打ち合わせると、青白い『蒼気功』が爆発的な熱を帯びて全身を包み込んだ。
身軽な武闘家の足捌きで、崩れ落ちた屋台の梁を蹴り、先頭の魔獣の頭上へと飛び出していく。
「お、お待ち……待ちなさい、お二人とも!」
ルシアンがローブの裾を翻し、魔導杖を構えて叫んだ。
本来の任務は皇女の身を守ることだ。だが、民衆を守る盾となって泥濘の最前線へ身を投じるアリアの背中を見て、ルシアンの計算は激しく軋みを上げた。
(くそっ……! 皇族のくせに、なぜ真っ先に泥濘へ突っ込むのですか!)
ルシアンは手帳を広げ、戦術演算を起動した。
【思考加速・戦術幾何学展開】。
レンズの奥に青白い数式モデルが濁流のように立ち並び、戦場の全事象がミリ単位のベクトルとなって可視化される。
「『土壌隆起・防護壁』!」
逃げ遅れた商人たちの前に分厚い岩石の防壁をせり上がらせ、退路を確保する。
続けて二人の援護に入ろうとするルシアンだったが――その計算は、数合も経たぬうちに崩壊を始めた。
「なっ……何という無茶な軌道を走るのですか、あなたたちは!」
アリアはルシアンが引いた安全な迎撃ラインを無視して泥濘を滑り、魔獣の懐へ神速で潜り込んでいる。
リンに至っては、ルシアンが風で牽制しようとした射線を平然と横切り、空中で身体を捻って掌底で外骨格を叩き割っていた。
「予測しきれない! 僕の計算の枠に収まりなさい! 連携という概念をご存じないのですか、この猪武者どもはッ!」
怒鳴り散らしながら、必死に二人の死角へ障壁を滑り込ませるルシアン。
だが――その混乱の最中、広場の遥か彼方から、細い悲鳴が落ちた。
「――っ、おかあ、さん……!」
百メートル近く離れた市場の北西区画。
崩壊した石造りのアーチの下、瓦礫に足を挟まれた幼い少女がへたり込んでいた。
探して、その少女の眼前――汚泥の中から這い出た最大の一体、全長六メートルを超える濁泥大百足の主が、猛毒の粘液を滴らせながら、巨大な鎌首をゆっくりともたげていた。
狙いを定め、少女を大顎で両断しにかかるまでの猶予は、およそ三秒から四秒。
「しまっ……!」
アリアが弾かれたように顔を向け、足元の泥濘を蹴り割る。
だが――距離が遠すぎる。
粘土質の重い泥濘に足を取られ、どれほど『蒼血』で筋力を跳ね上げようとも、百メートルの距離を詰めるには最低でも五秒を要する。
リンもまた、目前の二体を相手に足止めされており、即座には動けない。
(間に合わない……っ!)
アリアの奥歯がきしりと鳴り、焦燥の色が瞳を掠めた。 その時――
ルシアンの眼鏡の奥で、青白い数式モデルが爆発的な速度で組み換わった。
(個々の速度では届かない。だが――三人の運動ベクトルを直列に繋ぎ合わせれば、到達時間を二・四秒まで短縮できる!)
冷徹な数理が、絶望の隙間に一本の極細い勝利の糸を手繰り寄せた。
ルシアンは迷いを捨て、喉が張り裂けんばかりの声で指示を飛ばした。
「リン! 右前方の屋根へ跳びなさい! 踏み台を作ります!」
「……あァ!? おうよッ!」
リンは理屈を問うこともなく、ルシアンの声を信じて地を蹴った。
ルシアンのワンドが空を指す。
「第一連鎖――『圧縮突風』!」
空中に、目に見えない高密度の空気の足場が現出する。
リンはその気圧の塊を踏み抜き、放物線を描いて魔獣の頭上へと弾丸のように肉薄した。
「ぶっ飛べやァッ! 『浸透勁・砕霊掌』!!」
空中からの渾身の掌底が、大百足の側頭部へ炸裂する。
甲殻の内側で骨格が砕け散る鈍い衝撃が走り、振り下ろされようとしていた大顎が、強烈な打撃によって真横へと強引にへし折られた。
直撃は逸れた。だが、巨躯の質量は止まらず、魔獣は怒り狂って暴れ回ろうと身をくねらせる。
「アリア殿下、跳びなさい! ベクトルを繋ぎます!」
「任せなさいッ!」
アリアが泥濘を蹴り出した瞬間、ルシアンの左指から青白い光の軌道が伸びた。
「第二連鎖――『風の加速回廊』!」
「第三連鎖――『超高圧水流反発』!」
アリアの背後から吹き荒れたのは、空気抵抗をゼロへと削ぎ落とす真空の追い風。
さらに靴底を、足元から噴出した高圧水膜が強烈に弾き出した。
二重の加速を受けた白銀の影が、音速を置き去りにして魔獣の眉間へと突き刺さる。
「終わりよ――ッ!!」
閃いた白銀直剣が、魔獣の頭頂部から中枢核を寸分の狂いもなく両断した。
巨躯がバランスを失い、泥濘の中へと激しい地響きを立てて崩れ落ちる。
「第四連鎖――『火炎圧縮消滅』」
着地したアリアの背後で、撒き散らされた汚泥と有毒ガスを、ルシアンが放った極小の火炎球が完全に焼き尽くし、清浄な白煙へと還元した。
静まり返った市場の瓦礫の上、風だけが静かに吹き抜けていく。
アリアは息を整えながら剣を納め、瓦礫の下から震える少女を助け出して優しく抱きしめた。
その隣へ、屋根からふわりと着地したリンが、目を丸くしてルシアンをまじまじと見つめた。
「おいおいおい……」
リンは八重歯を剥き出しにし、感嘆の吐息を漏らしながらルシアンの肩をパシッと叩いた。
「すっげえじゃねえか、眼鏡! 空中に足場を作った上に、アリアの突進に完璧にタイミングを合わせやがった! アンタ、ただのモヤシじゃねえな!」
「……っ、痛い、叩かないでください! 僕の計算に狂いがないのは当然Resultです!」
ルシアンは歪んだ眼鏡を押し直しながら冷淡に言い返したが、その耳たぶはわずかに赤くなっていた。
アリアもまた、菫色の瞳に柔らかな笑みを浮かべてルシアンを見つめる。
「……助かったわ、ルシアン。アンタの頭脳、本物ね」
「殿下たちが僕の指示通りに動いたからですよ。……二度とあのような無茶はしないでいただきたい」
そっぽを向くルシアンに、リンが「照れてやんの!」とからかい、アリアがくすくすと笑い声を漏らす。
泥にまみれながらも、三人の間に確かな連帯感が生まれ落ちていた。
――だが。
その安らかな空気を、冷徹に踏みにじる硬質な足音が近づいてきた。
一定の間隔で敷石を打つ、感情を削ぎ落とした規則正しい革靴の響き。
市場の入り口を塞ぐように現れたのは、近衛兵でも、負傷者を救うための医師団でもなかった。
漆黒の修道服を目深に被り、胸元に銀の異端審問十字を掲げた集団――神樹聖教・教皇庁直属の秘密警察組織、『断罪異端審問庁』の執行部隊だった。
数十名の黒服の審問官たちが、無言のまま市場を取り囲んでいく。
その手には救護具ではなく、何十本もの分厚い鉛の封印杭と、汚泥を密閉するための特殊な魔導コンテナが握られていた。
「……異端審問官? なんであいつらが……」
リンが警戒を露わにして低く唸る。
審問官たちの先頭に立つ男――血の気の引いた灰色の肌をした審問官長が、瓦礫の山を検分しながら、感情の抜け落ちた声で部下たちへ命じた。
「第一種汚染区域として現場を完全封鎖せよ。飛散した排液、および魔獣の死骸を一片残らず鉛コンテナへ回収。……目撃した平民どもは全員、典礼院の地下査問所へ連行し、記憶処置の洗礼を施せ」
「――っ!? 待ちなさい!」
アリアの鋭い声が、黒服の男の歩みを止めた。
「怪我人が大勢出ているのよ! まずは手当てと避難が先でしょう! なぜ民を捕縛しようとするの!」
アリアの激昂に対し、審問官長はゆっくりと首を巡らせた。
その濁った灰色の双眸は、皇女であるアリアに対しても敬意など微塵も払わず、ただ冷徹に値踏みするように細められた。
「これは第七皇女殿下。……お飾りのお人形が泥遊びに興じるのは勝手ですが、教会の神聖なる秩序に口を挟むことは許されません」
「な……っ!?」
「此度の事態は、下層の愚民どもが神水の恩寵に感謝を忘れ、不敬な生活排水によって局所的な穢れを引き起こした『自業自得の天罰』に過ぎません」
舌先三寸で事実を歪曲する審問官長。
男の手元の指先が、黒い袖口の奥で不気味に蠢いていた。植物の蔦のように変異した皮膚の隙間から、青白い不快な光が微かに漏れている――『洗罪執行隊』の生体兵器の兆候だった。
「殿下は余計な詮索をなさらず、白亜の離宮でおとなしくしていればよいのです。……明日、神樹大聖堂の天蓋バルコニーにて、真なる救世の奇跡が執り行われます」
「真なる……奇跡?」
「左様。教皇猊下により選定された、汚れなき二代目の生贄――いえ、『二代目聖女・フィリア様』による大浄化の祈りです」
男の口元が、冷酷な嘲笑の形に歪んだ。
「貴女様のような出来損ないの看板娘に、民を救う奇跡など起こせぬことは、聖帝陛下も教皇猊下も重々承知しておられるのですよ。……撤収せよ」
黒服の部隊は、泣き叫ぶ民衆を強引に縄で縛り上げ、汚泥の痕跡を急速冷凍の結界で覆い隠しながら、嵐のように去っていった。
残されたのは、荒れ果てた市場と、冷たい静寂だけだった。
「……っ、ふざけないでよ……!」
アリアの握りしめた拳が、白く血の気を失って激しく震えていた。
爪が手のひらに食い込み、微かな血が滲む。
自業自得の天罰? 出来損ないの看板娘?
民が血を流し、恐怖に怯えているというのに、あの男たちはただ自分たちの嘘と権力を守るためだけに、人々の口を塞ぎ、泥を隠して立ち去ったのだ。
「あいつら……民の命なんて、最初から一つも見てない……っ!」
アリアの震える肩の横で、ルシアンもまた、青ざめた顔で水門の亀裂を見つめていた。
拾い上げた黒い汚泥の結晶を、指先で震えながら擦り合わせる。
「……生活排水などという嘘に騙されるものか。この結晶の重金属濃度とマナの壊死波長は……常軌を逸している。この水路の奥で、何かが致命的に狂っているんだ。教会は……一体何を隠している……?」
学者としての純粋な知性が、国家の欺瞞という巨大な闇の輪郭を捉え始めていた。
そこへ、拳のバンデージを力任せに締め直したリンが、二人の前に仁王立ちとなった。
その琥珀色の瞳には、かつてないほどの激しい義憤の炎が燃え盛っていた。
「おい、アリア! 眼鏡!」
リンは二人を真っ直ぐに見据え、親指で天を衝く神樹大聖堂の方角をビシッと指差した。
「あいつら、明日あの大聖堂で新しい聖女をお披露目するって言ったよな?……あんな腐れ切った連中が祭り上げる聖女だ、どうせろくな目に遭わされてねえに決まってる! それに、あいつらが隠そうとしたこのドブ泥の正体も、あそこに行けば絶対に手がかりがあるはずだ!」
リンの言葉に、アリアがハッと顔を上げる。
「あたしたちの街をドブ底扱いして、人を虫ケラみたいに縛り上げていくあんな奴らを、このまま野放しにしておけるかよ! 乗り込むぞ、大聖堂! 白亜の仮面ごと、あの生臭坊主どものツラを引っぺがしてやるんだ!」
下町の野良犬の、真っ直ぐで力強い怒り。
その言葉を受けたアリアの胸の奥で、燻っていた感情が、澄み渡る熱い光となって激しく燃え上がった。
誰かの言いなりになるお人形の時間は、もう終わりだ。
自らの足で立ち、理不尽に踏みにじられる者たちのために剣を抜く。
「……ええ。行きましょう、リン」
「ちょっ……待ちなさい! 大聖堂への無断侵入など完全な反逆罪ですよ!? それに相手は教皇庁の総本山です、無策で突撃するなど非論理的にも程が――ああもう、僕の胃が……!」
頭を抱えて悲鳴を上げるルシアンを他所に、二人の少女は夕暮れの空の下、神樹の頂を見据えて不敵に笑い合った。
欺瞞に満ちた帝国の中枢を揺るがす、新世代の反逆の火蓋が、いま切って落とされようとしていた。
(第四話 完 / 第五話へ続く)




