第四話:『不憫なる演算者とお目付役』 第三節:数理の限界、そして尾行するインテリ
翌朝、水水晶の離宮の一室。
ルシアン・ド・アイテールは、白磁のティーカップに胃薬の粉末をどさりと落とし、スプーンで乱暴にかき混ぜていた。
カチャカチャと銀器が神経質に擦れ合う音だけが、豪奢な執務室に響く。
目の前のテラスの窓枠には、昨日彼が完璧を期して張り巡らせたはずの『音波振動感知式・多重幾何学結界』の残骸があった。
破壊された痕跡はない。
魔力の暴発による焦げ跡も、無理やり引き千切られたようなマナの断裂もない。
ただ、そこに編まれていたはずの術式の張力と幾何学構造が、まるで朝露が陽光に溶けるように、綺麗さっぱり『消失』していたのだ。
「……あり得ない」
ルシアンは濁った声で呟き、苦い薬湯を一気に喉へ流し込んだ。
指先で眉間を強く揉みほぐす。こめかみの血管がドクドクと不快な拍動を刻んでいた。
「警報の励起回路すら反応しないだと……? 術式の解呪ではない。解体でもない。数式のテンションそのものを物理的にゼロへ回帰させただと……? こんな事象、アカデミーの門外不出の大図書館にすら一行の記録もないぞ……!」
学府の歴史上、歴代最高得点で首席を勝ち取った若き天才のプライドが、音を立てて軋みを上げていた。
そこへ、ノックの音とともに朝食の銀盆を抱えた筆頭侍女が入室してくる。
「ルシアン様、アリア様の朝のご様子はいかがで……あら? お顔の色が優れませんわね」
「……いえ、何でもありません。少々、難解な古代数理の命題に頭を悩ませていただけです」
ルシアンは瞬時に氷のようなポーカーフェイスを取り繕い、手元の羊皮紙をサッと覆い隠した。
まさか「昨夜も皇女殿下に手玉に取られて脱走を許しました」などと口が裂けても言えるはずがない。地方の学者貴族として門閥を見返すどころか、即座に失脚して物笑いの種になるのが関の山だ。
侍女が部屋を辞した瞬間、ルシアンは手帳を机へピシャリと叩きつけた。
「……こうなったら意地です。現象である以上、原因と変数は必ず数理で解明できる」
◇
そして、その日の夜。
三度目の脱走の気配を、ルシアンの鋭敏な知覚は察知していた。
だが、ルシアンはもはや結界でアリアの足を止めようとはしなかった。
あの皇女が放つ不可思議な『無負荷化の波紋』の前では、どんな防壁を編もうと無意味だ。
必要なのは、阻止ではなく『観測』――すなわち尾行だった。
(問題は……僕の極めて限定的な身体能力だな)
ルシアンは自室の姿見の前で、深いため息をこぼした。
すらりと伸びた百七十九センチの長身。仕立ての良い礼装ローブを脱ぎ捨て、目立たない濃紺のフード付き外套を羽織る。
だが、そのローブの下にあるのは、研究室に十年間籠もりきりで培われた、一般兵士すら下回る貧汚なインテリの筋肉だった。
(あの野生のサルを走って追いかけるなど、自殺行為に等しい)
アリアの初速は秒速三十四メートルを超す。全力疾走された瞬間、ルシアンの心肺機能は三十秒で破綻し、路地裏で酸欠になって野垂れ死ぬのがオチだ。
走っては追いつけない。
ならば――頭脳で追いつくまでのこと。
カシャリ。
ルシアンは銀縁眼鏡の右フレームを指先で弾き、精密計測用の単眼照準器を展開した。
レンズの内側に、帝都外郭の配水図、排水シャフトの勾配、路地の高低差、そして過去三日間のアリアの移動軌跡が青白い幾何学マップとなって網の目のように投射される。
「離宮テラスからの垂直落差、および彼女の身体跳躍の平均ストライドから逆算する着地予測地点は三箇所……」
「風下への気流、およびスラムの雑踏の密度勾配を考慮すると、彼女が向かう確率は――ここだ」
ルシアンは懐中時計の針を確認すると、音もなく離宮の通用門から外へと滑り出した。
息を切らし、膝を震わせながらも、最短の近道を数理計算で割り出し、先回りして待ち伏せる。
◇
帝都外郭低地、スラムの狭隘な裏通り。
夜の帳が降りた路地には、生活排水の饐えた臭気と、どこかの屋台から漂う安い油煙が立ち込めていた。
崩れかけたレンガ塀の暗がり。
ルシアンは外套を深く被り、壁に背を預けて荒い息を必死に整えていた。すでに太腿の筋肉がピクピクと痙攣し、心臓が痛いほど早鐘を打っている。
だが――その苦労は、寸分の狂いもなく報われた。
パタパタ、と。
軽やかな足音が、路地の向こうから近づいてくる。
暗がりの隙間から眼鏡の照準器を覗き込んだルシアンの視界に、灰褐色の外套を翻して駆け抜けていく白銀の髪の少女――アリアの姿が捉えられた。
(……来た。計算通りだ)
ルシアンは歪んだ眼鏡を指先でそっと押し直すと、息を殺して距離を保ち、彼女の背中を追った。
アリアが向かったのは、赤提灯が揺れるあの大衆酒場の前だった。
店先には、道着姿の跳ねっ返り娘――リンが待っていた。
「遅ぇぞ、アリア! ほら、オヤジが焼き立ての串を皿に盛って待ってんだからよ!」
「ごめんごめん! ちょっとあの眼鏡の様子を窺うのに時間がかかっちゃって!」
引き戸を開けて店の中へと転がり込んでいく二人の少女。
直後、店の中から割れんばかりの地鳴りのような歓声が爆発した。
『いよっ! アリアの姫様のお出ましだァッ!』
『姫様、こっちの串も食いな!』
開け放たれた窓の隙間から漏れ聞こえる、粗野で、温かく、底抜けに陽気な男たちの笑い声。
路地裏の影からそっと店内を覗き込んだルシアンのネイビーブルーの瞳が、驚きに見開かれた。
そこにいたのは、皇宮の中で見せる「冷徹に感情を殺した人形」としてのアリアではなかった。
ましてや、木刀を握って牙を剥き出しにする獰猛な野良犬でもない。
油で汚れた指先で熱々の肉串を頬張り、タレを口元につけながら、満面の笑顔で足をパタパタと揺らしている。
隣で豪快に笑うリンと大ジョッキを打ち鳴らし、下町の荒くれ者たちの他愛ない冗談に混ざって、喉を鳴らして腹の底から笑い転げる一人の少女。
(……あんな顔で、笑うのか)
ルシアンの胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
宮廷にいる誰もが彼女を「百年前の悲劇の聖女の身代わり」としてしか見ていない。
父帝は自らの延命と権威の道具として値踏みし、教皇庁は民を欺くための神輿として利用しようとしている。
その息詰まる檻の中で、彼女はずっと、たった一人で窒息しかけていたのだ。
理不尽な血統の檻に縛られながらも、泥に塗れて自らの魂の呼吸を取り戻そうと足掻く姿。
それは、地方の零細学者貴族と侮られ、門閥の傲慢に抗うために血の滲むような数理に縋り付いてきた、自分自身の姿とどこか重なって見えた。
「……やれやれ」
ルシアンは自嘲するように小さく息を吐き、手帳の表紙を静かに閉じた。
「実に、非論理的で面倒な方だ……」
冷たい夜風が、青年の群青色の前髪を揺らす。
踵を返し、闇の中を離宮へと引き返すルシアンの背中には、先刻までの刺々しい棘はもう消え失せていた。
――そして翌日。
二人の運命を大きく揺るがすことになる、外郭低地の「公務視察」の朝が訪れようとしていた。
(第四節へ続く)




