第四話:『不憫なる演算者とお目付役』 第二節:数理の探求と、夜風の愚痴茶会
あの模擬戦から数日、水水晶の離宮の空気は、それまでとは明らかに変わっていた。
「ねえ、聞いた? 昨日もルシアン様、中庭の噴水修復の術式計算を一瞬で終わらせてしまわれたらしいわよ」 「ええ、見たわ! 涼しいお顔で手帳を開いて、眼鏡のブリッジをこう……クイッと上げられてね」 「歩くお姿もまるで絵画みたいだし……お話される時のあの冷たいお声も、なんだかゾクゾクしちゃうわよねぇ」
ひそひそと弾むような囁き声に続いて、小走りに跳ねる軽やかな足音と、互いに肩を寄せ合って身悶えする絹の衣擦れの音が廊下に響く。最後には、口元を手巾で押さえた「キャッ」という甘い忍び笑いが、遠ざかる足音と共に微かに木霊していた。 私室のソファで木刀の手入れをしていたアリアは、布を握る手にぐっと力を込めた。
こめかみをピクリと引き攣らせ、むっと頬をリスのように膨らませると、への字に曲げた唇を尖らせてジト目を宙に向ける。愛らしい怒り顔のまま、八つ当たりするように黒塗りの刀身をゴシゴシと乱暴に擦り上げた。
(……チッ、どいつもこいつも『ルシアン様、ルシアン様』って! あのスカした嫌味眼鏡のどこがいいのよ!)
ぷりぷりと不満を漏らすアリアだったが、胸の奥底では苦々しく認めざるを得ない事実があった。 侍女たちの噂話に混ざって聞こえてくる、学府での彼の異名――『万象の演算者』。
本来、人間が同時に扱える元素魔導はせいぜい二つが限界であり、火と水、風と土のような相反する現象をミリ秒単位で連鎖させるなど、教会の高位神官ですら不可能な神業だという。
それをあの青年は、自らの頭脳の中で数理幾何学として解体し、一人で軽々と統率して見せたのだ。
(……確かに、あの魔導の繋ぎ方は異常だったわ)
突進の威力を風で殺し、足元を泥に変え、水流の反動で木刀を弾く。
ただのガリ勉の机上の空論などではない。己の理論を極限まで研ぎ澄まし、現場の暴力に対抗しうる本物の技術として昇華させた腕前。
だが――相手の実力に唸っていたのは、アリアだけではなかった。
◇
同じ頃、離宮の一角に割り当てられた執務室。
ルシアン・ド・アイテールは、机の上に山積みにされた古代王朝の羊皮紙と医学書に囲まれ、眉間を固く揉みほぐしていた。 机の端には、あの模擬戦でアリアの木刀がかすめ、わずかにフレームの歪んだ銀縁眼鏡が置かれている。
鼻筋の皮膚一枚を切り裂かんばかりに吹き抜けた、あの神速の風圧。
目を閉じれば、今でも心臓が嫌な拍動を跳ね上げる。
「……あり得ないな。あの踏み込みの初速と、遠心力だけで体勢を反転させた異常な筋力伝達は、生物学的な筋繊維の限界出力を完全に逸脱している」
ルシアンは手元の分厚い古文書を指先でめくった。 紐解かれていたのは、アルシリア皇室の禁足記録――初代聖帝の血筋にのみ発現するという原初無属性マナ血液、『蒼血』に関する極秘論文だった。
「火でも、水でも、風でも、土でもない。神樹が汲み上げる原初の生体マナと直接同期し、体内の全細胞の代謝速度を跳ね上げる不可視の血流……か」
どれほど完璧な物理演算を組み上げようとも、それを力づくで超えてくる規格外の生命力。
門閥貴族の軟弱な若造たちとは根本から違う、路地裏の野獣のように剥き出しの闘争本能。
「なるほど、面白い。門閥の無能どもが匙を投げるわけだ」
ルシアンは歪んだ眼鏡をカシャリと掛け直すと、不敵に口角を吊り上げた。
彼がこの厄介極まりないお目付役を引き受けたのは、家名への忠誠などではない。
地方の貧乏学者貴族と侮り、血統だけでふんぞり返る中央の門閥連中に、「僕の数理理論こそがこの国を動かす」と見せつけてやるための絶好の足がかりだからだ。
「どれほど非常識な血脈であろうと、現象である以上は数式で解明できる。……今夜こそ、完璧に秩序の檻に閉じ込めてみせましょう」
ルシアンは几帳面な筆致で分刻みの行動管理表を書き上げると、自ら席を立った。
彼は手帳を片手に、静まり返った夜の離宮へと足を運ぶ。
アリアの私室へと続く廊下の敷石、扉の蝶番、そして外壁へと通じるテラスの窓枠に至るまで、自らの足で歩き回って入念に確認して回った。
敷設したのは『音波振動感知式・多重幾何学結界』。
指先で魔導杖を振るい、壁と敷石の継ぎ目にマナの微細な光の糸を張り巡らせる。
「感知感度、誤差〇・一ミリ秒以内。共振周波数のズレ、なし」
各所の結界が完璧に励起していることを一つひとつ指差しで点検し、満足げに手帳にチェックを入れ、カシャリと眼鏡を押し上げる。
学府の最高理論を注ぎ込んだ、文字通りの鉄壁の監視網。これを破れる者など、宮廷の暗殺者であっても存在するはずがない――そう確信し、ルシアンは自室へと戻っていった。
◇
だが、そのわずか半刻後。
「――ふん、誰が大人しく檻に入っててやるもんですか」
夜の帳が降りた水水晶の離宮。
私室のテラスの前で、アリアはフード付きの外套を羽織り、不敵に笑っていた。 目の前の窓枠には、ルシアンが張り巡らせた青白い幾何学の結界線が、隙間なく幾重にも光の網を編んでいる。
触れた瞬間に警報が鳴り響き、侵入者を拘束する完璧なトラップ。
だが、アリアは焦る素振りすら見せなかった。 右手の手のひらをすっと前へかざす。
その刹那、アリアの全身からふわりと立ち上ったのは、常世の魔導とは一線を画す、透き通るような淡い波紋だった。
どこか遠い外海の潮騒を思わせる、静謐で、抗いがたい平穏の光。
触れるもののあらゆる緊張、敵意、そして張り詰めた魔力の張力を、そっと慈しむように解きほぐし、絶対の『ゼロ』へと還す原初の奇跡。
シャラリ、と。
目に見えない鈴の音が落ちるように、アリアの指先が結界に触れた瞬間――ルシアンが完璧を期して編み上げた幾何学の数式は、警報を鳴らすことすら許されず、まるで水底に溶けゆく砂糖のように音もなく解け去った。
アリアは軽やかにテラスの手すりに飛び乗ると、ルシアンの執務室がある方角へ向けて振り返った。人差し指で下まぶたをぐっと引き下げ、可愛らしく舌をペロッと突き出す。
「頭でっかちの学者様、おやすみなさーい!」
あっかんべーを置き土産に残し、アリアは数十メートルの排気シャフトの闇へ向けて、猫のように音もなくダイブした。
風を切り、闇を裂き、スラムのヘドロと熱気が渦巻く夜の街へ。
完璧な秀才を出し抜いた圧倒的な爽快感に、胸がすくような笑いが込み上げて止まらなかった。
◇
ガラガラッ! と勢いよく引き戸が開いたのは、スラムの裏通りで赤提灯を揺らす、あの大衆酒場だった。
煙突から立ち上る香ばしい脂と黒ダレの煙の中、店内にひしめき合っていた荒くれ者たちが一斉に入り口へと視線を向け――直後、割れんばかりの歓声が爆発した。
「おおっ! アリアの姫様のお出ましだァッ!」 「いよっ、待ってました! 姫様、こっちの席空いてるぜ!」 「オヤジ、姫様にいつもの焼き立ての肉串持ってきな!」
拍手と口笛で迎えられ、アリアは外套のフードを脱ぎながら、満面の笑みで片手を挙げた。
カウンターの特等席で、すでに大ジョッキのエールを半分空けていたリンが、八重歯を覗かせて手招きする。
「遅かったじゃねえか、アリア! ほら、こっち座りな!」 「ちょっと脱出に手間取っちゃってね!」
アリアはリンの隣の丸椅子へドカッと腰を下ろすと、運ばれてきた冷たい果実水を喉を鳴らして一気に飲み干し、ドンと器を置いて愚痴を炸裂させた。
「もう、聞いてよリン! 新しく来た生活監督官とかいう眼鏡! 朝から晩までペラペラ講釈垂れて、部屋の周りに罠まで張り巡らせて『一歩も出るな』って言うのよ! 顔立ちは無駄に整ってるくせに、口を開けば『非論理的だ』『野生児だ』って、人をまるで珍獣みたいに扱って!」
「ぶはっ! ぎゃははははッ!」
リンは膝を叩いて大爆笑した。周囲の荒くれ者たちも、肉にかぶりつきながら笑い声を響かせている。
「あのアリアが、面と向かって小言食らってんのかよ! そいつ最高じゃねえか! で、そのあとどうしたんだ? ぶっ飛ばしたのか?」 「昼にちょっとわからせてやろうと思って模擬戦を挑んだのよ! ……そしたらあいつ、手元で風の壁を作って突進を止めたと思ったら、足元の敷石を泥にして、鋭い水弾で木刀を弾いてきたのよ!」
「……あァ?」
リンの琥珀色の瞳が、ピクリと跳ね上がった。
笑い飛ばしていた表情からふっと軽薄さが消え、武闘家特有の鋭い光が宿る。
「風で止めて、土で崩して、水で弾いた……? おいおいアリア、そいつ、詠唱も魔法陣もなしでそんな芸当やったのか?」 「ええ。手帳とワンドをちょっと動かしただけで、三つの魔法をコンマ何秒かで繋げてきたわ。……結局、あたしが下から強引に木刀を跳ね上げて眼鏡をズラしてやったけど、最後は足を石で固められて引き分けよ」
「へぇ……!」
リンは八重歯を剥き出しにし、両拳の指関節をボキボキと小気味よく鳴らした。
「そいつはただの机上のモヤシじゃねえな。アリアのあの神速の突きを初見でいなすなんざ、相当肝が据わってねえとできねえ芸当だぜ。……いいねぇ、面白ぇ! あたしもそのスカした眼鏡、一発全力でぶん殴ってみたいぜ!」 「はぁ……」
アリアは両手を広げて大仰に肩をすくめ、あきれ果てたように天を仰いだ。
「やめなさいって! 絶対に合わせたくないわ、余計に話がややこしくなるもの」
口ではそう愚痴りながらも、アリアの菫色の瞳は夜空の星のようにキラキラと輝いていた。
差し出された熱々の肉串を両手で掴み、ハフハフと息を吹きかけながら思い切りかぶりつく。甘辛いタレの香ばしさと溢れ出す肉汁に頬を落としそうになりながら、アリアは足をパタパタと揺らし、満面の笑顔を咲かせた。
「んーっ! やっぱりこの店の串焼きは最高ね! ねえオヤジ、おかわりもう十本ちょうだい!」 「へいよっ、アリアの姫様! どんどん食ってきな!」
隣で豪快に笑うリンとジョッキをコツンと打ち鳴らし、周囲の荒くれ者たちの他愛ない冗談に混ざって声を上げて笑い転げる。
窮屈な礼儀作法も、冷たい打算もない。ただ美味しいものを美味いと言い、気の置けない仲間たちと笑い合えるこの場所が、たまらなく愛おしかった。
こうして下町の熱気に浸っているだけで、宮廷の息苦しさは綺麗さっぱり消し飛んでいく。
――その頃。
水水晶の離宮、完璧に解体された感知結界の残骸と、もぬけの殻になったベッドを見つめ、青筋を立てて激しい胃痛に悶絶しているルシアンがいることなど、二人は知る由もなかった。
(第三節へ続く)




