第四話:『不憫なる演算者とお目付役』 第一節:冷徹なる演算者と、じゃじゃ馬の洗礼
カシャリ、と。
薄暗い私室の奥から落ちたのは、精緻な時計仕掛けが噛み合うような、冷徹で硬質な金属音だった。 テラスの縁から音もなく床へと滑り込んだばかりのアリアの背筋を、氷の刃で撫でられたような戦慄が駆け抜ける。
ゆっくりと視線を巡らせた先――部屋の隅、普段はアリアが脱ぎ捨てたドレスの仮置き場になっている豪奢な安楽椅子に、深く背を預けて足を組む人影があった。
背中で低く束ねられた、艶やかな群青色の長髪。 薄暗がりの中でも際立つ、彫刻のように無駄のない端正な横顔。 すらりと伸びた手足を包むのは、アイボリーと金糸の微細刺繍で仕立てられた、帝立魔導アカデミーの首席礼装ローブだった。
青年は手元に広げていた羊皮紙を音もなく畳むと、銀縁スクエア眼鏡の奥から、冷淡なネイビーブルーの瞳をスッとアリアへ向けた。
「……朝露に濡れた泥だらけの靴底で、どちらへ散歩に行かれていたのですか。第七皇女殿下」
知性と美貌を冷たい毒舌でコーティングしたような声が、夜明け前の空気を切り裂く。
「……なっ、誰よアンタ! なんであたしの部屋に勝手に入り込んでるのよ!」
アリアは泥に汚れた外套を咄嗟に後ろ手に隠し、警戒露わに身構えた。
だが、青年は眉一つ動かさず、優雅に指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「枢密軍事院より特命を拝命いたしました、ルシアン・ド・アイテールです。本朝より、殿下の専属参謀兼生活監督官を務めさせていただきます」
「監督官……? 頼んだ覚えなんてないわよ!」
「ええ、殿下が頼むはずもありません。……何せ、来たる神樹降誕祭において、教会の神聖なる象徴として清らかに祈りを捧げていただくはずの皇女殿下が、夜な夜な城を抜け出しては下町を徘徊しているという不穏な報告が、すでに軍事院の卓上に山積みになっておりましたからね」
ルシアンは立ち上がると、すらりとした長身を揺らし、足音もなくアリアの前へと歩み寄った。 その冷ややかな視線が、アリアの頭から爪先までを、まるで実験台の標本を改めるように観察していく。
「先週の水曜日には第三水門の裏路地、一昨日の夜には南東の穀物市場……そして今夜。外套の裾にこびりついた粘土質の赤泥は、外郭低地――スラムの土壌特有の成分比率です。つま先に付着した微細な木片と鉄錆の摩耗痕から察するに、非合法な闘技場へ足を踏み入れたと見るのが妥当でしょう。……さらには、その口元から微かに漂う、安酒と焦げた肉の脂の匂い。おまけに、打撲の熱を急造で散らすための、下品な民間薬の強烈なハッカ臭まで漂わせている」
「うぐっ……」
図星を寸分の狂いもなく突かれ、アリアの喉から詰まったような声が漏れる。
ルシアンの淡々とした指摘が続く間、アリアの表情は目まぐるしく変化していた。 最初は「バレた!」と気まずそうに目を泳がせ、次に「なんでそこまで分かるのよ」と頬を引き攣らせ、やがて言い訳の余地が完全に塞がれると、耳たぶまで真っ赤にして唇をへの字に曲げ、あからさまにふてくされたジト目でルシアンを睨みつけた。
その百面相を一瞥し、ルシアンは心底面倒くさそうに深いため息を落とした。
「出歩いた時間はおよそ二刻半。泥の跳ね上がり方から逆算するに、尋常ではない運動量をこなしてきたご様子。……中央の門閥貴族の方々が、揃いも揃ってこの役目を押し付け合って逃げ出した理由がよく分かりましたよ。なるほど、噂以上のじゃじゃ馬だ。ですが――」
ルシアンは懐から取り出した手帳を軽く叩き、冷ややかに告げた。
「門閥の無能どもが匙を投げたからといって、僕まで投げ出すとは思わないでいただきたい。学府の理論と数理を用いれば、どれほど奔放な相手であれ、行動を規律と秩序のもとに導くことなど造作もない課題です。……今日から、殿下の勝手な夜間外出は一切禁じさせていただきます」
その、慇懃無礼で理知的な物言いに、アリアの胸の奥底でパチリと火花が散った。
誰かの言いなりになることへの激しい拒絶。 言葉による反論の代わりに、アリアの全身からふわりと、肌をピリつかせるような鋭利な気配が立ち上る。 床を踏みしめる足指に力が篭もり、無意識に右手の親指が、腰の革ベルトの留め金を弾いた。 宮廷の貴族たちが見れば震え上がるであろう、路地裏の野獣にも似た、研ぎ澄まされた戦士の殺気。
「……へえ。あたしの部屋を勝手に調べて、ペラペラと講釈垂れるのが学者様の特技ってわけ? アンタに何が分かるのよ。……口先だけなら何とでも言えるわよね」
「……何が仰りたいのですか」
「アンタのその立派な理屈が、どれだけ現場で役に立つのか試してあげるって言ってんのよ! 表へ出なさい、眼鏡! その貧弱な体で、どこまで動けるか見せてもらうわ!」
アリアが壁の木刀へ手を伸ばしかけた、その時だった。
「お断りします」
ルシアンはにべもなく言い捨て、懐中時計の蓋をパチンと閉じた。
「……はぁ!? 逃げる気!?」
「逃げる? 滅相もない。徹夜で泥遊びをして疲弊した相手を叩きのめしたところで、僕の術式計算の正確性が証明されたことにはなりませんからね。……それに、いま中庭で騒ぎを起こせば、城内の侍女たちが押し寄せて大騒ぎになる。そうなれば殿下の脱走劇も白日の下に晒されますよ」
ルシアンは眼鏡の奥の瞳で、アリアの目の下にわずかに残る疲労の色を冷徹に見透かしていた。
憎たらしいほどの正論と、皮肉の裏に隠された、あまりに合理的な配慮。
「模擬戦は、本日の午後――日課の訓練時間に執り行います。侍女たちにも立ち会わせ、逃げも隠れもできない公の場でお相手いたしましょう。……それまでに、泥を洗い流して仮眠を取っておくことです。万全の状態でなければ、言い訳をされるだけですからね」
ルシアンは優雅に一礼すると、一度も振り返ることなく私室の扉を開け、静かに去っていった。
残されたアリアは、悔しそうにギュッと拳を握りしめ、その背中を睨みつけることしかできなかった。
◇
同日の午後。水水晶の離宮、専用訓練場。
昼下がりの澄み渡る陽光が、白大理石の敷石を白く照らし出していた。
訓練場の外周、日除けのアーチの下には、離宮に仕える専属侍女たちがずらりと控えている。 その空気は、なんとも奇妙な緊張とざわめきに包まれていた。
筆頭侍女をはじめとする年長組は、普段から木刀を振り回しては生傷を作ってくる末の姫君が、今度こそ大怪我を負うのではないかと胸元でハンカチを固く握りしめ、胃の痛むような面持ちで祈るように見つめている。
一方で、後ろに控える若い侍女たちの視線は、別の熱を孕んで落ち着きなく揺れていた。 宮廷に蔓延る肥え太った貴族や好戦的な軍人たちとはまるで毛色の違う、あの彫刻のように涼しげな横顔と、知性を湛えた長身の美男子――学府の若き首席魔導士が、まさか離宮に常駐することになるとは。
「怪我のないように」という建前を瞳の端に滲ませつつも、彼女たちの頬はどこか上気し、アリアの豪快な踏み込みとルシアンの優雅な身のこなしの交錯に、時折小さな吐息を漏らしていた。
訓練場の中央、アリアは身軽な訓練用チュニックに身を包み、使い込まれた黒塗りの木刀を両手で正眼に構えていた。
睡眠を取り、泥を落としたその姿は、朝方の薄暗がりで見た時とはまるで違っていた。
陽光を浴びてキラキラと輝く、月光を紡いだような白銀のポニーテール。 陶器のように滑らかな白皙の肌と、強い意志を宿した夜明けの菫色の瞳。
対峙したルシアンは、手にした細身の儀礼用魔導杖を構えながら――ほんの一瞬、コンマ数秒だけ、その思考を停止させていた。
(……成程。教会や聖帝陛下が、躍起になってプロパガダス(プロパガンダ)の神輿に担ぎ上げたがるわけだ)
絵画の中の『始祖の聖女』がそのまま命を得て抜け出してきたような、息を呑むほどの造形美。
だが、ルシアンは瞬時に自らの脳内に冷水を浴びせ、思考を平熱へと引き戻した。
(……いけないな。容姿の美醜など、生体遺伝子の偶発的な出力結果に過ぎない。思考のノイズだ、排除しろ)
ルシアンは眼鏡のブリッジを押し上げ、冷徹な分析眼でアリアを射すくめた。
「始めましょうか、殿下。いつでもどうぞ」
「後悔しなさいッ!」
アリアの爪先が、敷石を鋭く爆ぜさせた。
地を滑るような超低空の踏み込み。
始祖原水流――初動のタメを完全に消し去った、音速を置き去りにする神速の刺突。
常人の動体視力であれば、踏み込んだ瞬間に切っ先が喉元へめり込んでいる必殺の一撃。
だが――その瞬間、ルシアンの銀縁眼鏡のレンズの内側に、無数の青白い幾何学数式が濁流のように走り抜けた。
【思考加速・戦術幾何学展開】。
レンズの奥で発光した青きマナの余剰光が、ルシアンの瞳を冷徹に染め、彼の周囲の空間へと微細な方眼状の光のグリッドとなって放射状に展開される。
アリアの踏み込んだ右足の親指の角度、大理石の摩擦係数、背筋の筋肉の収縮率、そして木刀が切り裂く空気の流線が、ミリ単位でリアルタイムに空間へ可視化されていく。
(初速、秒速三十四メートル。刺突角、下段から喉元への仰角十二度。――未来軌道、予測完了)
ルシアンは半歩も下がらない。
アリアの木刀が胸元へ到達するわずか〇・一秒前、手元のワンドをミリ単位で傾けた。
「第一連鎖――『風の断層』」
カシュッ、と空気が圧縮される音が響く。
アリアの踏み込んだ前足の直前に、突如として局所的な超高圧の気圧の壁が出現した。
神速の突進が目に見えない空気の断層に激突し、木刀の推進力が物理的に殺がれる。
(なっ……風の壁!? だけど、この程度――!)
アリアは即座に手首を返し、力づくで気圧を切り裂こうとした。
だが、ルシアンの演算はその先をすでに織り込み済みだった。
「第二連鎖――『土壌液状化』」
ルシアンの左指が大地を指した瞬間、アリアの軸足の下の敷石が、マナの超高周波振動によって一瞬で泥水のごとくドロドロに液状化した。
踏ん張るべき足場を奪われ、アリアの強靭な体幹がわずかに前のめりへと傾ぐ。
「第三連鎖――『流体偏向』」
ルシアンのワンドから噴出した高圧の薄い水膜が、斜めからアリアの木刀の腹を叩いた。
体勢を崩していたアリアの木刀は、完璧な物理ベクトルの誘導によって、ルシアンの首筋からわずか数センチ外れた虚空へと滑り落ちていく。
「……チェックメイトです」
ルシアンの唇が、勝利を確信してわずかに緩んだ。
体勢を崩し、武器を逸らされ、足元を取られた。
完全なる詰み。
ルシアンはワンドの切っ先を、無防備になったアリアの胸元へ突きつけようとした――
だが。
(――しまっ……た!?)
ルシアンの思考が、初めて凍りついた。
アリアは、倒れかけた姿勢のまま――なんと、泥濘化した地面に自らの左手の平を力任せに叩きつけたのだ。
宮廷剣術の教科書には絶対に存在しない、下町の泥試合で身につけた野良犬のリカバリー。
左手を軸にしたアクロバティックな旋回。
泥を顔面に浴びることも厭わず、アリアは回転の遠心力だけで強引に体勢を立て直すと、逸らされたはずの木刀を、下から上へと強烈に跳ね上げた。
「舐めるなぁッ!!」
計算の外側から飛来した、野生の一撃。
レンズの奥に展開されていた青白い数式モデルが、ノイズを撒き散らして一瞬で弾け飛ぶ。
「くっ……!?」
ルシアンは反射的に上体を仰け反らせた。
ガリッ、と乾いた衝撃音が耳元で鳴る。
アリアの木刀の切っ先が、ルシアンの銀縁眼鏡の右フレームを鋭く跳ね上げ、その端正な鼻筋をかすめて眼鏡を派手に斜めへとズレさせたのだ。
風圧がルシアンの群青色の前髪を激しく巻き上げる。
直後――
「硬化ッ!」
冷汗を噴き出させたルシアンが、半ばパニック状態で叫びながら地面へ魔力を叩き込んだ。
液状化していた足元の泥が瞬時に岩石へと硬化し、アリアの両足首をガチリと拘束する。
同時に、ズレた眼鏡を押さえ直したルシアンのワンドが、アリアの喉元寸前でピタリと静止した。
静寂が、訓練場を支配した。
遠巻きに見守っていた侍女たちが、息を呑んで固まっている。
アリアの木刀は、ルシアンの喉笛まであと十センチのところで止まり、足元は完全に石で固められていた。
一方のルシアンは、息を乱さないよう必死に取り繕ってはいるものの、その額には冷たい汗が一筋伝い、眼鏡は歪み、胸元のクラバットはアリアの木刀が巻き起こした風圧で乱れ切っていた。
心臓が早鐘のように鳴っている。あと一瞬、反応が遅れていれば、鼻骨を粉砕されていたのは自分の方だった。
「……っ、ふぅ……」
ルシアンは震えそうになる指先で、歪んだ眼鏡をカシャリと押し直した。
「……判定は、僕の勝ちですね。足を固められれば、刺突は届きません」
努めて冷静を装った声。だが、その声には先刻までの傲慢な余裕は消え失せていた。
対するアリアは、拘束された足元を見下ろし、それから目の前の青年の顔を、忌々しそうに睨みつけた。
「……チッ。計算ばかりの頭でっかちかと思ったら、案外しぶといじゃないの。次は、そのスカした眼鏡ごと叩き割ってやるわ」
「……二度目はありませんよ。次は初手で完全に無力化します」
互いに譲らぬ、火花散る視線の交錯。
だが、二人の胸の奥底には、確実に先ほどとは違う感情が芽生えていた。
アリアは「口先だけではない本物の魔導の腕」を、そしてルシアンは「理屈を力づくで超えてくる、この皇女の規格外の生命力」を、互いに認めざるを得なくなっていたのだ。
(第二節へ続く)
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初登場のルシアンのイメージイラストです!




