第三話:『泥まみれのダブルノックダウン』 第三節:串焼きの宴と、白露の朝帰り
地下闘技場の湿った熱狂と怒号を背に抜け出した二人は、夜風が吹き抜けるスラムの狭い路地を肩を並べて歩いていた。 迷路のようなあばら家の隙間を抜けた先、赤黒い提灯が煤けた軒先を照らす一軒の長屋風の大衆酒場が見えてくる。
煙突から立ち上っていたのは、暴力的なまでに食欲を刺激する濃密な煙だった。 炭火の強烈な熱に晒された肉塊から、滴り落ちた脂がパチパチと爆ぜる音。そこへ東方伝来の大豆と麦を発酵させた濃厚な黒ダレが触れ、ジュウゥッ……と焦げ付く瞬間の、香ばしく甘辛い匂い。
空腹の胃袋を直接鷲掴みにされるようなその芳香は、ただ空気を吸い込んだだけで喉の奥を鳴らさせるほどの破壊力を持っていた。
「オヤジ! 肉串三十本! あと麦飯を山盛りで二つと、冷えた粗搾りの麦酒を二つ持ってきな!」
引き戸をガラリと開け放ち、リンが引き締まった腹筋を無造作に叩きながら丸椅子を引いた。 その隣へ、アリアも泥に汚れた灰褐色の外套を脱ぎ、何食わぬ顔で腰を下ろす。
煙が立ち込めるカウンターの奥、炭バサミを手に串を返していた頑固そうな店主が、不機嫌そうに顔を上げた。
「おいおいリン、今夜は一段と景気が……」
言いかけた店主の言葉が、途中で喉に張り付いた。 炭バサミが、火の粉の舞う焼き台の上へ乾いた音を立てて落下する。
店主の濁った両目が、信じられないものを見るように見開かれていた。 リンの隣に座っている小柄な影――その頭冠から肩へと流れるのは、薄暗いランプの光を浴びてなお透き通る、息を呑むほど美しい白銀の髪。 街中の神殿や大聖堂のステンドグラスに掲げられ、平民なら一生に一度拝めるかどうかという「始祖の血を引く至高の偶像」が、頬を赤く腫らし、服のあちこちにリングの乾いた土をつけた姿で、平然と丸椅子に腰掛けていたのだ。
「……ひ、……ひぃっ!?」
店主の喉から、裏返った短い悲悲鳴が絞り出された。 その異様な声に、安酒の匂いが充満していた店内の喧騒が、潮が引くように一瞬で凍りつく。 ジョッキを傾けていた男が口を開けたまま静止し、サイコロを振っていた荒くれ者たちが息を呑んだ。 店内にいた数十人もの荒くれ者たちの視線が、針のようにただ一点――アリアの横顔へと突き刺さる。
「お、お、お……お姫様ァァーーッ!?」
店主の絶叫が店内に木霊した瞬間、客たちが一斉にガタガタと音を立てて椅子から転がり落ちた。
「な、なんで皇族の姫君がこんなドブ底の店にいるんだよ!?」 「おい嘘だろ、憲兵のガサ入れか!? 異端審問庁の抜き打ち査問かよ!?」
床に額を擦り付けて震え上がる店主と客たちを見回し、リンは心底面倒くさそうに首を振ってため息をついた。
「ビビんなって! 憲兵なんざ連れてねえよ。さっき地下のリングで顔面を思いっきり殴り合って、仲良く引き分けたあたしのダチだ! ほらオヤジ、腹が減って背中とくっつきそうなんだよ。早く肉を焼きな!」
「ダ、ダチぃぃ……!? 皇女様とタイマン張って引き分けたぁ!?」
店内が恐慌と混乱でひっくり返る中、アリアは周囲の動揺を気にする素振りも見せず、腰の革ポーチの留め金を静かに外した。 細い指先でつまみ出されたのは、一枚のずっしりとした重みを持つ硬貨。
ことり。
木製の古びたカウンターの上に、場揚げのない静けさとともに置かれた。 煤けたランプの光を浴びて、鈍く、だが圧倒的な純度で輝きを放ったのは、純金製の大判硬貨――表面に神樹と太陽の威厳ある紋章が浮き彫りにされ、縁には精緻極まる宮廷魔導の防偽彫金が施された、帝国最高額紙幣に匹敵する『特級金貨』だった。
スラムのあばら家なら、土地ごと丸ごと三軒は買い取れる国家予算の塊。
「お腹が空いたわ。これで足りるかしら?」
澄ました顔で首を傾げるアリア。 それを見た店主は、喉からヒュッと引き攣った音を漏らし、泡を吹いて後ろへ倒れかけた。
直後――
ペチンッ! と小気味よい音が店内に響いた。
「バカ! こんなドブ底の店で金貨なんか出す奴があるか! 釣り銭でこの店どころかこの通りごと破産するわ!」
リンの鋭いチョップが、アリアの頭頂部へと容赦なく振り下ろされたのだ。
「いたぁっ……! な、何するのよ! あたしは正当な対価を支払おうとしただけじゃない!」
アリアは両手で頭を押さえ、耳まで真っ赤に染め上げながら、涙目で唇を尖らせてリンをジト目でにらみつけた。 およそ一国の皇女とは思えない、年相応の少女そのものの愛らしい膨れ面。
その光景を目撃した瞬間―― 息を詰めて見守っていた荒くれ者たちの胸の奥で、張り詰めていた糸がプツンと切れた。
「……ぶっ」 「あっははははははッ!!」
客席の隅から上がった小さな吹き出し笑いを皮切りに、大爆笑の嵐が酒場全体を揺るがした。 雲の上にいるはずの尊い姫君が、泥に塗れ、下町の跳ねっ返り娘に頭を小突かれて本気で涙目になって怒っている。
どっと沸き起こった爆笑の渦に、アリアは一瞬ビクッと肩を跳ね上がらせ、目を白黒させた。 宮廷であれば、皇族を前にして笑うなど不敬罪で即座に投獄される重罪だ。だが、男たちの笑い声には侮蔑や嘲りの色は欠片もなく、ただ純粋な可笑しさと親愛に満ち溢れていた。
(な、何よ……! 人が真面目に怒ってるのに、揃いも揃って笑うなんて……!)
アリアは恥ずかしさのあまりキュッと唇を結び、ぷいと横を向いてみせたが、赤くなった耳たぶまでは隠しきれず、照れ隠しのように細い指先でカウンターをトントンと小さく叩いた。
「おいおいおい、マジかよ! 本当にあのパンツァー・ゲイルと素手でやり合ってきたのか!」 「オヤジ、その金貨は仕舞わせとけ! アリアの姫様の串代は、俺がさっきの賭け試合で当てた銀貨から出してやるよ!」
屈強な傭兵が懐から銀貨をカウンターへ放り出すと、他の客たちも我先にと硬貨を叩きつけ始めた。
「俺も出すぜ! 姫様、こっちの肉も食いな!」 「お城を抜け出して殴り込みたぁ、たまげた肝っ玉だ!」 「オヤジ、店にある肉全部出せ! 宴会だァッ!!」
堰を切ったように店中が熱狂の渦へと呑み込まれていく。 焼き台の上では、特製の黒ダレをたっぷりとくぐらせた野獣肉の串が何十本も並べられ、立ち上る白煙と香ばしい脂の匂いが店内に満ち満ちた。
運ばれてきたのは、木の皿に山のように積まれた、タレが艶やかに照り輝く焼きたての串焼き。そして、すり鉢のような深い器に昔話のように高く盛られた、湯気立つ麦飯。
アリアは最初こそ、周囲の狂乱した熱気に圧倒されて戸惑っていたが、リンが手渡してきた串焼きの匂いに抗えず、覚悟を決めたように小さく口を開けた。 そして、泥のついた指先で串を掴むと、熱々の肉塊へ思い切りかぶりつく。
じゅわり、と。 歯を立てた瞬間、香ばしく焦げた甘辛いタレの風味とともに、閉じ込められていた野性味あふれる肉汁が口いっぱいに弾け飛んだ。噛み締めるたびに溢れ出す、力強い肉の旨味。
「……っ! な、何これ……すっごく、美味しい……っ!」
アリアの菫色の瞳が、夜明けの光を受けたようにキラキラと輝いた。 宮廷の晩餐会で出される、貴族の舌を麻痺させるような香草バターと薬品の味とはまるで違う。大地を駆け回る命をそのまま喰らい、己の血肉へと変えていくような、力強く濁りのない本物の味。
「だろ? ここのタレはスラム一番なんだよ!」 リンが誇らしげに胸を張り、大ジョッキに注がれた黄金色の粗搾り麦酒を喉を鳴らして豪快に呷る。
その横で、アリアも運ばれてきた木製カップを手に取った。 肉を食べる時は野性児のように無我夢中で頬張りながらも、飲み物を口にするその所作は、驚くほど優美だった。 背筋をすっと垂直に伸ばし、滑らかな指先でカップの底を支え、喉仏を一切鳴らさずに静かに液体を喉へと滑り込ませる。 何千回もの過酷な宮廷作法によって骨の髄まで刻み込まれた、高貴なる血筋の気品。
「……ぷはっ、冷たくて美味しいわ」
唇を拭い、ふわりと満足げに微笑むアリア。 その「泥だらけの食いっぷり」と「隠しきれない王族の気品」の凄まじいギャップに、周囲の荒くれ者たちは完全に骨抜きにされていた。
「がははっ! 最高だぜ、アリアの姫様!」 「おいリン、もっと肉を食わせてやれ! お城の飯よりウチの飯のほうが美味いってよ!」 「言われなくても食わせるよ! ほらアリア、この脂の乗ったところも食いな!」
リンが笑いながら串を次々とアリアの皿へ放り込み、山盛りの麦飯を突き出す。 アリアもまた、頰をリスのように膨らませながら、次々と運ばれる肉と飯を平らげていった。
身分を偽る必要も、誰かの思惑を気にして愛想笑いを浮かべる必要もない。 ただ美味しいものを美味いと言い、拳を交わした者同士で肩を並べて笑い合う。 一刻、二刻――時間が経つのも忘れ、酒場の中では笑い声と乾杯の音が絶え間なく響き続けた。 夜が最も深まり、やがて東の空の闇がかすかに薄れ始める頃には、店内の屈強な男たちの半分は床や机に突っ伏して幸せそうに高いイビキをかいていた。
宴がようやくお開きとなり、冷え込んできた店の裏路地に出たところで、リンが懐から小さな素焼きの壺を取り出した。
「ほらアリア、ちょっと顔貸しな」
「え? なに、それ」
「道場秘伝の泥草膏だよ。裏山に生える氷苔と薬草をすり潰した特効薬だ。打撲の熱と腫れを一発で引かせるんだよ」
言うが早いか、リンは指先ですくい取った深緑色の冷たい軟膏を、アリアの赤く腫れていた右頬へペタリと無造作に塗りたくった。
「ひゃうっ!? つ、冷たっ……! な、何これ、すごくスースーする……!」
アリアが驚きのあまり猫のように背筋をピンと伸ばし、目をまん丸にして顔をクシャクシャに歪める。 その慌てぶりを見て、リンは八重歯を剥き出しにしてゲラゲラと吹き出した。
「あははっ! なんだよそのツラ、鳩が豆鉄砲食らったみたいになってんぞ! 動くなって、しっかり塗り込まねえと効かねえんだから」
リンの指先が、荒っぽく、だが丁寧にアリアの肌の上で軟膏を伸ばしていく。 ひんやりとした薬効成分が皮膚の奥へと浸透し、ズキズキと疼いていた打撲の熱が、急速に引いていくのが分かった。 アリアの体内に流れる『蒼血』の驚異的な生体代謝も手伝い、数分もしないうちに、腫れは目に見えて引き始めていた。
薬を塗り終え、満足そうに手を拭くリンの横顔を、アリアはじっと見つめた。
(……温かいな)
宮廷の豪奢な離宮には、数え切れないほどの侍女や護衛がいた。だが、彼らが傅いていたのは「クラリスに瓜二つの白銀の皇女」という偶像であり、アリアという生身の人間ではなかった。 父帝は自分を道具として値踏みし、教会の枢機卿は欲情と計算の混ざった下卑た目で品定めしてくる。 誰も、泥に塗れた自分自身を見てくれたことなどなかった。
今夜、初めて拳を本気でぶつけ合い、痛みを分かち合い、笑いながら同じ飯を食った。 胸の奥に灯ったこの温かい火を、どうしても手放したくなかった。
アリアはギュッと自分の拳を握りしめ、少しだけ上目遣いに、震える声を紡いだ。
「……リン。あたし……また、ここに来ていい?」
恐る恐る尋ねられたその問いに、リンは一瞬だけきょとんと目を丸くした。 そして次の瞬間、吹き出すように快活に笑い、親指でツンと自らの胸を叩いてみせた。
「当たり前だろ! 何言ってんだよ」
琥珀色の瞳を三日月形に細め、どこまでも屈託のない笑顔を向けてくる。
「アンタが退屈なお城の檻に嫌気が差した時は、いつでも抜け出して来なよ。あたしのリングと拳は、いつでも貸してやるからさ!」
「……っ。ふふ、うん……! 約束よ!」
二人は笑い合い、夜明け前の路地で小さく拳と拳を打ち鳴らした。
――それから、半刻後。 薄藍色から乳白色へと移ろいゆく夜明けの空の下、帝都の中央に聳える白亜の巨塔――水水晶の離宮。
テラスの縁にふわりと舞い降りたアリアは、音もなくガラス扉の隙間から私室の床へと滑り込んだ。 リンの泥草膏と『蒼血』の代謝のおかげで、顔の腫れや赤みは完全に消え去り、陶器のように白い素肌を取り戻している。
(ふぅ……っ! なんとか朝の鐘が鳴る前に戻れたわね。急いでお風呂で泥を流して、何食わぬ顔でドレスに着替えれば――)
ほっと胸を撫で下ろし、忍び足でベッドへと向かおうとした、その刹那。
カシャリ。
薄暗い部屋の奥から、冷徹で硬質な、時計仕掛けの金属音があ静かに落ちた。
「……朝露に濡れた泥だらけの靴底で、どちらへ散歩に行かれていたのですか。第七皇女殿下」
「――っ!?」
アリアの心臓が、跳ね上がった。 声が響いたのは、部屋の隅に置かれた豪奢な安楽椅子。 そこには、深く背を預けて足を組み、冷ややかにこちらを見据える一人の青年の姿があった。
息を呑むほど整った、彫刻のように端正な顔立ち。 背中で低く束ねられた艶やかな群青色の長髪が、薄暗がりの中で微かな光沢を放っている。 すらりと伸びた手足と180センチ近い長身を包むのは、アイボリーと金糸の微細刺繍で仕立てられた、帝立魔導アカデミーの首席礼装ローブ。首元のクラバットや指ぬきの手袋に至るまで、寸分の乱れもなく完璧に着こなされたその佇まいは、まるで宮廷画家の描く麗しい貴公子の肖像画そのものだった。 だが、その涼しげな目元に掛けられた銀縁スクエアの魔導具眼鏡の奥に宿る瞳は、甘さなど微塵も感じさせない。 冷徹な理知と精密な分析眼を湛えたネイビーブルーの双眸が、氷のような光を放ってアリアを射すくめていた。
青年は指先で静かに眼鏡のブリッジを押し上げると、手元に広げていた羊皮紙――枢密軍事院から下された『第七皇女専属参謀兼生活監督官』の特命辞令を、膝の上で軽く畳んだ。
早朝の定例報告のために筆頭侍女の案内で訪れたものの、部屋はもぬけの殻であり、開け放たれたテラスの床に微かな泥の足跡を見つけたことで、取り乱して城内へ捜索に走った侍女たちを他所に、一人冷徹に待ち伏せていたのだ。
「開け放たれた窓、ベッドに残された抜け殻、そしてその……漂う安酒と焦げた肉の凄まじい悪臭。……言い訳を聞かせていただきましょうか」
知性と美貌を冷たい毒舌でコーティングしたような声で、青年は深いため息を落とした。 帝立魔導アカデミーを歴代最年少で首席卒業した秀才――ルシアン・ド・アイテールだった。
(第三話 完 / 第四話へ続く)




