第三話:『泥まみれのダブルノックダウン』 第二節:クロスカウンター ―泥まみれの交差―
リングの土埃を濛々(もうもう)と巻き上げ、二つの華奢な影が正面から激突した。 金属の刃も、魔導の詠唱もない。
ただ純粋に鍛え上げられた骨と筋肉、そして剥き出しの闘志だけを乗せた肉弾の応酬。 リンが低く身を沈め、踏み込みざまに放ったのは、カミソリのように鋭い左のジャブ。
風を裂く拳がアリアの鼻先をかすめるが、アリアは首をわずかに傾けただけで紙一重に見切り、間髪を容れずに右のストレートを突き返した。
咄嗟にリンが左の前腕を立てて受け止める。
接触面から小柄な少女同士とは思えない重い衝撃波が弾け、周囲の砂煙を丸く吹き飛ばした。 腕を痺れさせながらも、リンは琥珀色の瞳孔を三日月形に細め、八重歯を覗かせてニッと相好を崩した。
「へっ、いい突きじゃねえか、お姫様!」
「あんたの挨拶代わりよりはマシでしょ!」
アリアもまた、乱れた白銀の前髪の隙間から、勝ち気な笑みを浮かべて菫色の双眸を輝かせる。 城の窮屈な作法などどこへやら、全身の血が歓喜に沸き立っていた。 言葉が交錯する合間にも、拳と脚は止まらない。
リンの足元がぶれ、体内の生体気流を爆発的に循環させる『瞬歩・飛燕脚』がリングの床板を激しく軋ませた。
地を滑るような超低空からの右ローキック。
アリアはそれを跳んで躱すのではなく、泥濘を踏みしめて軸足を固め、左の脛を斜めに立てて真正面から迎撃した。 鈍い骨の衝突音が、地下の熱狂を切り裂く。
脛と脛が噛み合い、互いの眉根が痛みにピクリと跳ね上がる。
だが、二人とも一歩も退かない。痛みに怯むどころか、獲物を見つけた子猫のように、互いに唇を吊り上げて楽しげに目を細め合った。 リンが即座に軸足を入れ替え、至近距離から左の掌底を繰り出す。
青白い闘気――『蒼気功』を圧縮した、装甲貫通の浸透打撃。
対するアリアも、初代聖帝の血筋に眠る『蒼血』を全身の筋繊維へ一気に滾らせた。
始祖原水流の無駄を削ぎ落とした拳骨が、リンの掌底と真正面から衝突する。 足元の土が同心円状に深くえぐれ、衝撃波をまともに喰らった二人は、数歩よろめいて距離を開いた。
だが、息を整える暇すら惜しむように、二人は再び大地を蹴った。
「うおおおおおおおおっ!!」
「どっちも一歩も引かねえぞ!」
「やれ! 殴り倒せェッ!!」
観客席の荒くれ者たちは、もはや身代金だの皇族への恨みだのといった浅ましい計算を完全に忘れ去っていた。
目の前で繰り広げられているのは、小細工一切なしの、互いの全存在をぶつけ合うような純粋な殴り合い。
その凄まじい熱量に呑まれ、数百人の男たちが喉を引き裂くように叫び、リングを囲む鉄柵を激しく打ち鳴らしている。
リング中央、もはや綺麗な型など存在しなかった。
アリアの右ストレートがリンの頬を浅くかすめ、オレンジ色の毛先を激しく散らす。
リンの返しの左フックがアリアの顎をかすめ、結い上げた白銀のポニーテールが宙に舞う。
互いの額から汗が飛び散り、陶器のように白い頬や小麦色の肌に、薄い擦り傷と打撲の赤みが淡く滲んでいく。 息が荒い。肺腑が焼けるように熱い。
だが、殴られるたび、打ち返すたびに、二人の口元からは笑みが零れ落ちて止まらなかった。
(楽しい……っ! 誰の思惑も関係ない、あたし自身の命がここにある!)
(あはっ、最高だ! こんなに真っ向からぶつかり合える相手、生まれて初めてだぜ!)
視線がカチリと噛み合った。 言葉など要らなかった。
互いに残された体力のすべて、魂の最後の一滴までを右の拳に込め、全身のバネを極限まで引き絞る。 リンの右拳に、青白い『蒼気功』の光が針のように収束する。
アリアの右拳に、研ぎ澄まされた『蒼血』の脈動が神速の推進力を宿す。 フェイントも、ガードもない。
ただ相手の顔面を真っ直ぐに捉えた、渾身のクロスカウンター。
刹那―― 二人の拳が、互いの頬へと寸分の狂いもなく同時に突き刺さった。
空間が軋むような打撃の圧力が、二人の華奢な体躯を容赦なく揺さぶる。 衝撃で互いの首が真横へ跳ね上がり、瞳の奥の光が一瞬だけ真っ白に弾け飛んだ。
静止。 そして、二つの身体は同時にふわりと宙に浮き、力なく後方へと崩れ落ちた。
バタン、と。 リングの乾いた土埃の上へ、二人は仲良く大の字になって倒れ込んだ。
互いに頬を薄く腫らし、乱れた前髪が汗ばんだ額に張り付いている。 だが、その表情は痛みに歪むどころか、全力を出し尽くした至福の脱力感に満たされ、唇にはどこか満足げな微かな笑みが浮かんでいた。
完全な、ダブルノックダウン。
狂乱していた地下闘技場が、水を打ったような静寂に包まれた。 誰もが息を呑み、土煙が薄れゆくリングの中心、倒れ伏した二人の美少女を呆気にとられて見つめている。
天井の暗がりから、ひんやりとした冷気が頬を撫でる。 静まり返ったリングの上に、二人の肩が上下する荒い呼吸の音だけが重なり合っていた。
やがて―― 「……っ、ふ……」
リンの唇から、堪えきれないような微かな吐息が漏れた。 それに呼応するように、隣で倒れていたアリアの喉からも、小さな息が零れる。
「……くすっ……」
一度零れ出た感情の波は、もう止められなかった。 肩が震え、胸が波打ち、やがてその小さな忍び笑いは、互いの耳に届くと同時に一気に弾け飛んだ。
「……あはっ、あははははっ! いってぇ……! マジで顎が外れるかと思ったぜ……!」
リンが天を仰ぎ、喉を鳴らしてケラケラと腹の底から笑い声を響かせた。 その隣で、アリアも赤くなった頬を手で押さえながら、涙目になって大声で吹き出した。
「ふふっ……あははっ! あんたこそ、女の子の顔をあんな力任せに殴るなんて、とんでもない野蛮人ね!」
「へっ、先に武器で斬りかかってきたのはどこのどいつだよ!」
二人は痛む体を押して、同時に上半身をぐらりと起こした。 泥と土埃にまみれ、髪をめちゃくちゃに乱した二人の少女。
どちらが勝者で、どちらが敗者かすら分からない無様な姿。 だが、目が合った瞬間、二人は示し合わせたかのように再び破顔し、晴れやかに笑い合った。
「引き分け、ね」
「ああ、引き分けだ! ……アンタ、名前は?」
「アリア。アリア・フォン・アルシリアよ」
「あたしはリン。下町のリンだ」
差し出されたリンのバンデージまみれの右手を、アリアは躊躇なく小さな掌で握り返した。 泥と汗に濡れた二人の手のひらが、力強く結びつく。
その瞬間、息を詰めて見守っていた観客席から、割れんばかりの地鳴りのような拍手と歓声が爆発した。 地下闘技場を揺るがす狂乱の熱狂の中、二人の少女の間に、身分も立場も超えた唯一無二の絆が産声を上げていた。
(第三話 第三節へ続く)




