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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第三話:『泥まみれのダブルノックダウン』 第一節:露わになった白銀と、剥き出しの牙

 剥き出しの鋼鉄刃が、地下の淀んだランプの光を吸って白く閃いた。 互いの間合いは、わずか数歩。 だが、そのわずかな空間に充満する殺気の密度は、先ほどまでの探り合いとは次元を異にしていた。 観客席の荒くれ者たちから、下卑た野次がピタリと途絶える。 誰もが息を詰まらせ、喉仏を上下させながら、リングの上に立つ二人の小柄な怪物を見つめていた。

 先に仕掛けたのは、リンだった。 足の親指が土を噛み、体内の生体気流が一瞬にして臨界まで跳ね上がる。 全身を覆う青白い闘気――『蒼気功』が、彼女の小麦色の肌の上で細い火花となって弾け散った。 踏み込みの一歩。 大地がへこみ、リングの乾いた砂煙が爆発的な円環を描いて後方へ吹き飛ぶ。

 目にも留まらぬ低空突進。 だが、アリアの菫色(すみれいろ)の双眸(そうぼう)は、その神速の踏み込みを完全に捉えていた。

(――速い。けど、直線的すぎるわ!)

アリアは抜き身の鉄剣を右脇へと引き絞り、初代聖帝の血筋にのみ流れる『蒼血(ヘモ・エーテル)』を全身の筋繊維へと巡らせた。 始祖原水流――神速の抜刀突進。 鋭利な切っ先が、空気を真空の線で切り裂きながら、突進してくるリンの肩口を正確無比に捉えて突き出される。 直撃すれば、生身の肩を骨ごと刺し貫く必殺の一刺し。

 だが、リンの野生の勘は、その白銀の切っ先が放つ死線すらも紙一重で嗅ぎ取っていた。 身をわずかに捻り、刃先がベストの布地をかすめる刹那――リンは逃げるどころか、自らその切っ先の内側へと肉薄(にくはく)した。 空いた左手でアリアの手首の腱(けん)を外側から強引に叩き落とし、刺突の軌道を僅かに狂わせる。

「甘ぇよッ!」 懐に入り込んだリンの右掌底が、アリアの無防備な胸元へ向けて爆砕するように突き出された。 装甲を透過し、内臓を直接破砕する必殺の一撃――『浸透勁・砕霊掌(しんとうけい・さいれいしょう)』。

 アリアの背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走る。

(喰らったら、骨が砕ける……!)

アリアは瞬時に剣を両手で引き戻し、腹筋を極限まで収縮させながら、鋼鉄の刀身を胸の前へと割り込ませた。 次の瞬間、リンの掌底が、アリアの鉄剣の腹へ真正面から叩き込まれる。 衝撃波が空間を押し潰し、リングの中心から強烈な突風が巻き起こった。 刀身を通して伝わってきたのは、物理的な質量を遥かに凌駕する、内側から細胞を揺るがすような破壊の波動。 キリキリと金属がきしむ悲鳴を上げ、アリアの身体が後方へと激しく吹き飛ばされる。

「くっ……!」

だが、アリアはただ吹き飛ばされはしなかった。 後方へ押し流される水平の衝撃を、猫のように背骨をしならせて上空への跳躍へと反転させる。 空中で勢いよく縦回転の宙返りを打ち、遠心力と落下の全質量を乗せた左足の鋭利な踵(かかと)落としを、追撃のために飛び込んできたリンの脳天へ向けて垂直に叩き落とした。

「うおっ!?」

咄嗟に交差させて頭上を塞いだリンの両腕に、アリアの踵が深くめり込む。 落下の衝撃を受け止めきれず、リングの乾いた土が二人の足元で激しく陥没した。 二人の身体が激しい反発力で同時に弾け飛び、リングの土を削りながら左右へと距離を取って着地する。

 その、凄まじい風圧の余波だった。 激しい攻防の摩擦と突風に煽られ、アリアの頭を覆っていた灰褐色のフードが、後方へと派手にめくれ上がった。

 地下闘技場の薄暗いランプの光の下。 ふわりと宙に舞い広がったのは、月光をそのまま紡ぎ出したかのように透き通る、息を呑むほど美しい【白銀の髪】だった。 肩口で弾むアクティブなポニーテール。 汗を浮かべた滑らかな白皙(はくせき)の肌。 朝焼けの光芒を宿した、深く澄み渡る菫色の双眸。 剥き出しになったのは、スラムの薄汚れなど欠片も似合わない、神話の絵画から抜け出してきたかのような絶世の美少女の素顔だった。

「……っ!?」

一瞬、リングを取り囲む何百人もの荒くれ者たちの呼吸が完全に止まった。 その顔立ち。その白銀の髪。 たとえ下層のスラムに生きる者であっても、街中の至る所に掲げられた教会の肖像画や、大聖堂のステンドグラスに刻まれた「始祖の血を引く象徴」を知らぬ者はいなかったからだ。

 静寂が、地下空間を押し包む。 だが、その凍りついた沈黙は、瞬く間に狂乱のざわめきとなって爆発した。

「な……んだ、あの髪……!?」

「おいおい嘘だろ……!? まさか、クラリス様の……いや、本物の皇族の姫君じゃねえのか!?」

「なんでそんな雲の上のガキが、こんなドブ底のリングに立ってんだよ!」

 どよめきは波紋のように広がり、やがてスラムの荒くれ者たち特有の、体制への反骨と飢えた下卑た熱狂へと姿を変えていく。

「おい、待てよ……! 本物の皇族の小娘なら、身代金はいくらになる!?」

「馬鹿言え! 皇宮の連中なんざ、俺たちから水を奪って肥え太ってるブタ共だぞ!」

「そうだ! 皇族だろうがお姫様だろうが関係ねえッ!」

「やっちまえ、パンツァー・ゲイル! その生意気なお姫様の顔面を、リングの泥に沈めてやれェッ!!」

 四方から叩きつけられる、血に飢えた下層民たちの怒号と狂乱。 だが――その外野の濁流を、誰よりも早く真っ向から笑い飛ばしたのは、他ならぬリンだった。

 リンは目を見張り、眼前の少女の顔を検分するようにまじまじと見つめた後―― 琥珀色の瞳をこれ以上ないほど爛々(らんらん)と輝かせ、八重歯を剥き出しにして、腹の底から快活に破顔したのだ。

「あはっ! なんだよそのツラ! お城から抜け出してきた、とびきり上等なお姫様じゃねえか!」

「……だったら、何よ」 アリアは乱れた前髪を手の甲で無造作に払うと、菫色の瞳でリンを真っ直ぐに射すくめた。 客席の野次など最初から耳に入っていない。冷徹な声の奥に宿るのは、身分を盾にする気など微塵もない、純粋な戦士のプライド。

「お姫様だからって、手加減でもしてくれる気?」

「手加減だァ!?」

リンは両拳を胸の前でガツンと打ち鳴らし、鼻先でせせら笑った。

「ふざけんな! 外野のゴロツキ共の言う通りだ! あたしのリングに上がった以上、お姫様だろうが神様だろうが関係ねえよ! むしろ最高だ――骨の髄まで、容赦なくぶっ飛ばしてやるッ!!」

「……ふふっ、あははっ! 言ったわね!」

アリアの口から、抑えきれない歓喜の笑い声が零れ落ちた。 そうだ。この下町には、退屈な礼儀作法も、大人たちの浅ましい計算も存在しない。 ただ、互いの魂と肉体をぶつけ合うだけの、純度百パーセントの自由。

 アリアは手にした鉄剣を、無造作に横のリング外へと放り投げた。 硬質な金属音を立てて、土埃の上へ転がる剣。

「……武器を捨てるのかよ?」

リンが眉を跳ね上げると、アリアは両腕を胸の前に掲げ、細く引き締まった指先をグッと握り込んで、小さな拳を作った。

「あんたが素手なのに、あたしだけ刃物を持ってるなんて不公平でしょ? ――拳なら拳で、真っ向から叩き潰してあげるわ!」

「へっ……最高だ、アンタ!」

 互いの野生が、臨界点を完全に突破した。 もはや技も理屈もいらない。 二人の少女は大地を蹴り、剥き出しの拳を構えて正面から激突した。

(第三話 第二節へ続く)


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