第二話:『地下闘技場の無敗王者』 第三節:白銀の乱入者、激突のゴング
巨漢が一撃で沈み、リングの周りを取り囲む男たちが完全に気圧されていた、その静寂の隙間だった。客席の最前列から、ふわりと重力を置き去りにするように一つの影が宙を舞った。丸太と鉄柵で組まれた防護柵の天頂に、音もなく片足の爪先を乗せ、そのままリングの土埃の上へと軽やかに舞い降りる。灰褐色のフード付き外套を目深に被り、腰には無骨な鉄剣をぶら下げた小柄な影――アリアだった。
「……あァ?」観客席から、呆気にとられた声が漏れる。 先ほど巨漢を吹き飛ばした『パンツァー・ゲイル』の前に立ち塞がったのが、筋骨隆々の賞金稼ぎではなく、華奢な背丈の小柄な影だったからだ。
「おいおい、なんだあのチビは!?」 「身の程知らずが! 死に場所を間違えてんぞ!」 「パンツァー・ゲイルの拳を一発食らったら、吹き飛んで終わりだぞ!」
下卑た野次と嘲笑が四方から浴びせられる。 だが、リングの中央に立つリンは、観客の野次など耳に入っていないかのように、ピクリとも動かなかった。 琥珀色の瞳を鋭く細め、眼前のフードの人物だけをじっと射すくめている。
「……おいおい」リンの唇から、獲物を見据える野獣のような低い唸りが漏れた。 「周りの連中は節穴ばっかりだが……アンタ、さっきのゴロツキどもとは芯の通り方がまるで違うな。そのしなやかな足腰、どこの道場の仕込みだ?」
立ち姿ひとつで、重心のブレのなさと、外套の下に隠された華奢な骨格――それが自分と同年代の少女であることまで看破する天性の身体知。 アリアはフードの奥で、楽しげに口角を吊り上げた。
「ただの通りすがりよ。……あんたの拳があんまり気持ち良さそうだったから、ちょっと相手をしてもらおうと思ってね」
凛と通り、鈴を転がしたように澄み渡るその声が地下の熱気を突き抜けた瞬間――リングを取り囲む男たちの空気が一変した。
「なっ……女だァ!?」 「おいおい嘘だろ、女のガキじゃねえか!」 「キャットファイトだ! おい、賭け金上乗せしろ! どっちが先に泣き叫ぶか賭けだァッ!」
怒号に混ざる下品な興奮と歓声が、地下空間の天井をビリビリと震わせる。だが、相対する二人の少女にとっては、外野の狂乱などただの背景音に過ぎなかった。
「へっ、やっぱり女か。よく言うぜ」リンは八重歯を覗かせ、ニッと笑った。 「あたしの拳を受けて、ただで済むと思ってんのか?」
「さあ? やってみなきゃ分からないじゃない」アリアは腰の鉄剣の柄に手を伸ばしたが――抜刀はしなかった。革ベルトから鞘ごと引き抜き、黒塗りの頑丈な鞘の腹を、左手の手のひらでトントンと軽く叩いて構える。
「……抜かねえのかよ。舐められたもんだな」 「本気を出させるだけの拳か、確かめさせてもらうわ」 「言ったな、口の減らねえ嬢ちゃんがッ!」
甲高い金属音が、空気を引き裂くように鳴り響いた。リング脇の胴元が打ち鳴らした、試合開始の合図。その余韻が消え切るより早く――リンの姿が掻き消えた。初手からトップギア。
『瞬歩・飛燕脚』による地を這うような超低空の踏み込み。 リングの土埃を放射状に吹き飛ばしながら、リンは瞬き一つの間にアリアの懐へと潜り込んでいた。
「まずは挨拶代わりに――一発ッ!」
鋭利な右のストレート。風を切り裂く拳が、アリアのフードの先端をかすめる。 だが、アリアの首筋は紙一重の傾きでそれを躱していた。 直後、リンの左から繰り出された鋭利な掌底がアリアの鳩尾を狙って突き出されるが、アリアは一切後退しなかった。
硬質な激突音が炸裂する。アリアが横に滑らせた鉄剣の『鞘』が、リンの掌底の軌道を斜めから捉え、火花を散らしながら受け止めていた。鞘を通してアリアの手首に伝わってくるのは、小柄な体躯からは信じがたい、鉛の塊を叩きつけられたような重厚な質量。だが、アリアはその衝撃を腕で殺さず、鞘の傾斜と柔らかなスナップだけで、破壊力を横の虚空へと綺麗に滑り落とす。始祖原水流――激流に逆らわず、水流の向きを変える『転導の歩法』。
受け流されたリンの体勢が一瞬前へ流れる。 その刹那、アリアの身体がコマのように回転し、鞘の先端がリンの側頭部へ向けて疾風のように薙ぎ払われた。
だが、リンの野生の勘もまた規格外だった。 リンは前傾した体勢を力任せにねじ伏せ、身を沈めながら両腕のバンデージを交差させて強引に割り込ませる。
鈍い衝撃が空気を震わせ、周囲の土埃が一気に円状へ吹き飛んだ。 鞘の強烈な横薙ぎを受け止めたリンの全身は、靴底でリングの乾いた土を深くえぐり、砂煙を舞い上げながら数メートル後方へと押し流される。
だが――そこで止まるリンではなかった。
「甘ぇよッ!」
後方へ流された勢いを殺すどころか、リンは大地に両手をついてバック転の要領で勢いを反転させると、バネのように縮んだ両脚で土を蹴り直した。 姿勢を低く地を這うような、カミソリのごとき下段足払い。 土煙のカーテンを裂いて足首を刈りにきた鋭利な一撃に対し、アリアは垂直にふわりと宙へと跳躍した。
「跳んだな!」
リンの琥珀色の瞳が爛々と輝く。 空中に逃げた相手は、足場を失い回避ができない――格闘のセオリー通り、リンは下半身の反動をそのまま天翔ける跳躍へと繋げ、空中へと身を投げ出した。 真下からアリアの胸元へ向けて突き刺さる、弾丸のような跳び蹴り。
直撃すればリングの天井まで跳ね上げられる一撃。だが、空中のアリアは驚くほど冷静だった。両手で水平に構えた鉄剣の鞘を、胸の前へピタリと差し入れる。靴底と鋼鉄の鞘が噛み合い、衝撃の波紋が空中で弾け飛ぶ。アリアはその強烈な蹴りの運動エネルギーを、自らの落下を押し戻す推進力へと利用した。空中で猫のようにくるりと身を翻し、ふわりと軽やかにリングの端へと着地を決める。ほぼ同時に着地したリンと、アリアの距離はわずか数歩。間合いを取り直す間すら、惜しいとばかりに――二人は同時に前へと踏み込んだ。
「あはっ、最高だアンタ!」 「そっちこそ、いい反応ね!」
刹那、リング中央で繰り広げられたのは、常人の動体視力を完全に置き去りにした超高密度のインファイトだった。 リンの拳が唸りを上げる。 鋭利なワンツー、顎を狙うアッパー、死角から刈り取る肘打ち、そして鋭く踏み込む膝蹴り。 野生児の身体能力を極限まで絞り出した連撃の嵐が、アリアの四方を埋め尽くす。
それに対し、アリアは抜刀すらしていない鞘一本で、狂乱の連打を完全に迎え撃っていた。鞘の両端を両手で保持し、ある時は斜めに滑らせて拳の芯を逸らし、ある時はリンの手首の腱を鞘の角で鋭く弾き、ある時は膝蹴りの軌道を鞘の腹で押さえ込む。甲高い衝突音と火花が、まるで鍛冶屋の金床のように途切れなく散り乱れる。互いの前髪が風圧で激しく跳ね上がり、頬の皮膚一枚を衝撃波がかすめていく。
「くそっ、なんで当たらねえッ!」 「当たるわけないでしょ、大振りが多すぎるわ!」
最後の一撃。リンの渾身の右ストレートと、アリアの直線的な鞘の突きが正面から激突した。火花が眼前に激しく爆ぜ散り、互いの拳と鉄鞘がミリ単位で噛み合ったまま押し合う。圧縮された衝撃波が足元の土埃を同心円状に吹き飛ばし、二人の顔面が至近距離でピタリと静止した。互いの荒い息遣いが、肌に触れるほどの距離。
鞘を押し込むアリアの腕と、バンデージを軋ませて押し返すリンの腕から、ギリギリと筋肉の擦れ合う音が響く。 観客の荒くれ者たちは、もはや声を出すことすら忘れ、ただ息を呑んで二人の小柄な怪物を見つめていた。これまでの地下闘技場で行われてきたどんな試合よりも、速く、重く、美しい暴力の応酬。
「……っは」至近距離で目を合わせたリンの口角が、引き攣るように、だが嬉しそうに吊り上がった。 琥珀色の瞳の奥に宿るのは、これまで誰にも引き出されなかった、底なしの闘志。
「……決めたぜ。アンタ、あたしの本気を受け取る資格がある」 「ふふっ……奇遇ね。あたしも、そろそろ退屈しのぎの枠を越えようと思ってたところよ」
同時に力を込め、互いを弾き飛ばすようにバックステップを踏む。靴底が土を擦り、リングの両端へと距離を取った。二人の肩が、心地よい疲労と高揚感で小さく上下している。 鞘を握るアリアの手には、これまで宮廷の木刀素振りでは決して得られなかった痺れるような充実感が宿っていた。 リンもまた、首を左右に鳴らし、手首のバンデージをきつく巻き直す。
二人の間に漂う熱量が、臨界点を突破した。探り合いの前哨戦は、これでおしまいだ。
「おい、フードの嬢ちゃん! 次からは手加減なしだぞ! 骨の一本や二本、折れたって泣き叫ぶんじゃねえぞッ!」
リンが両拳を胸の前で打ち合わせると、パチリと青白い闘気――『蒼気功』が全身を包み込むように渦を巻いた。 それを見たアリアも、フードの奥で菫色の瞳を爛々と輝かせ、不敵に笑う。
「ふふっ、望むところよ。……あたしの骨が折れるか、あんたの拳が砕けるか、試してみる?」
言うや否や、アリアは左手で握り締めていた鉄鞘の留め金を親指で静かに跳ね上げた。シャリ、と研ぎ澄まされた金属の擦過音が地下の熱気を冷徹に切り裂く。鞘から滑り出た剥き出しの鋼鉄刃が、地下闘技場の薄暗いランプの光を浴びて冷たくぎらついた。峰打ちの構えすら取らない、研ぎ澄まされた切っ先をリンの眉間へと真っ直ぐに突きつける。
激突の熱気の中、二人は同時に、本気の殺界へと身を沈めた。
(第二話 完 / 第三話へ続く)




