序章:其の一『祝祭の毒杯、偽りの英雄』
天を衝く白亜の円柱が幾重にも立ち並び、見上げるほど高いドーム天井からは、帝都を覆う天蓋結界の淡い魔導光が幾筋もの光の帯となって降り注いでいた。
アルシリア神聖帝国の心臓部――帝都中央大聖堂。
何千人もの着飾った貴族や高位聖職者たちが大回廊を埋め尽くし、堂内は割れんばかりの歓声と、空気を物理的に揺らすパイプオルガンの重低音に包まれている。 頭上からは、祝祭のために惜しげもなく放たれた銀箔の紙吹雪が、光を乱反射させながら雪のように舞い散っていた。立ち込めるのは、最高級の白檀と聖油の甘ったるい芳香。そして、長年続いた魔王の脅威から解放された人間たちが放つ、狂気にも似た熱狂の熱気だった。
「――全能なる神樹イグニス・アルボルの御名において、救世の奇跡を讃えよ!」
壇上に立つ豪奢な司教が、両腕を広げて神聖術で声を張り上げる。
「東の奈落より這い出でし災厄、始祖古龍レヴィアの首は討ち落とされた! 忌まわしき濃縮排液の濁流は止まり、いま再び、我が帝国に永遠の繁栄が約束されたのである!」
大聖堂を揺るがすほどの地鳴りのような拍手と喝采。貴族たちは立ち上がり、黄金の杯を打ち鳴らし、涙を流して神樹への祈りを捧げている。その熱狂の中心――大聖堂の中央に据えられた主賓席の白磁の長テーブルには、帝国全土からかき集められた山海の珍味と、琥珀色の最高級葡萄酒が溢れんばかりに並べられていた。
だが、銀皿の上に鎮座する肥え太った魚料理の数々へ視線を落としたレンの胸には、食欲どころか言い知れぬ違和感と吐き気ばかりが募っていた。 神樹の汲み上げた清廉な淡水で肥え太らせたという白身魚は、泥臭さを消すための香草バターに溺れ、魚本来の命の張りや筋繊維の弾力を失ってぶよぶよと崩れていた。
血抜きも神経締めも施されず、ただ生きながらえさせられて脂だけを乗せられた肉。
――こんな生気のないものを喰うために、俺たちはあの過酷な泥沼を越えてきたわけじゃない。
過酷な水辺で生きるために命を釣り上げ、締め、その鼓動を余さず喰らってきたアングラーとしての肉体の記憶が、この不自然で爛熟した皿の上の欺瞞を鋭く拒絶していた。
「おい、レン……。周りの視線が痛ぇぞ。貴族の連中、俺たちを珍獣でも見るような目でジロジロ見やがって」
ダンカンが擦り傷だらけの鋼板と、使い古して脂の染み込んだ革鎧を軋ませ、太い腕を組んで低く唸った。
総重量150キロを超す筋肉と無骨な装甲の塊。その足元には、一歩歩くごとに大聖堂の磨き抜かれた大理石を削りそうな八角鉄製金砕棒が、いつでも引き抜けるよう床に立てかけられている。
帝立教会が用意した絹の礼服など、鼻から身につける気すらなく、四人全員が魔境の泥と血煙の匂いを染み込ませた旅装束のままで、この純白の殿堂に乗り込んでいた。
「我慢しろよ、ダン。今日くらいは付き合ってやれって。帝都のお偉いさん方が、どうしても俺たちに礼を言いたいらしいからな」
レンは苦笑しながら、手元の無骨なフォークを皿の端へ置いた。
無属性の落ちこぼれ、辺境のまつろわぬ民の孤児。過酷な水辺で生き延びるために培った釣りと解体の技術だけで、ここまで泥水をすすって生き抜いてきた。そんな自分が、まさか帝国の中枢で「英雄」などと担ぎ上げられる日が来るとは思ってもみなかった。
「ふん、虫唾が走るわね。前線に一歩も出なかった寄生虫どもが、どの口で『帝国の栄光』だか」
レンの隣で、グラスの蒸留酒を一気に煽ったのはエルだった。
煤けたワークウェアの襟元を無造作に緩め、腰には細い腰骨に食い込むガンベルトとツールホルスターを提げたままだ。彼女は早くも二本目の空瓶をテーブルにガツンと叩きつけ、給仕の少年を青ざめさせていた。
「エルさん、お酒が進みすぎていますよ……。あとで胃が痛くなります」
そう言って、困ったように柔らかく微笑んだのはクラリスだ。
白銀の長い髪に、深い瑠璃色のリボン。
その細い首筋には、教会の冷たい金属ロザリオではなく、素朴な青い小石の首飾りが掛けられていた。
かつて過酷な渓谷の野営地で、教会の『聖別印(焼印)』に触れられるのを恥じて俯いていた彼女に、レンが焚き火の明かりの下、傷だらけの指で鋼糸を編み込んで仕立ててやったものだ。
「綺麗です、レンさん」と涙を浮かべて笑ったあの夜の温もりを確かめるように、クラリスの白い指先が、胸元の青い鉱石をそっと慈しむように撫でていた。
「いいのよクラリス! あたしたちがドロドロの泥水と毒を被って龍を仕留めてきたってのに、こいつらのツラ見てると酒でも流し込まなきゃやってらんないわよ!」
「もう……エルさんったら」
ため息をつくクラリスの横顔は、大聖堂のステンドグラスの光を受けて透き通るように美しい。
だが、レンはその華奢な指先が、微かに震えているのを見逃さなかった。 仲間を癒やす『奇跡』を使うたび、彼女の魂と寿命は激しく削り取られてきた。
肌の白さは陶器のようだが、それは同時に、生命の灯火が限界まで薄くなっている証拠でもあった。 レンはテーブルの下で、そっとクラリスの小さな手を握りしめた。
クラリスがびくっと肩を揺らし、菫色の瞳をレンへ向ける。
「……大丈夫か?」
「……はい。レンさんが、手を握ってくださっているなら」
クラリスの頬に、ほんのりと朱が差す。
彼女は青い首飾りの奥に隠したもう一つの石――虹色の光彩を放つ『星彩の誓石』にそっと指先を滑らせた。
「レンさん。……約束、覚えていてくださっていますか?」
「忘れるわけないだろ。この茶番が終わったら、すぐに帝都を出る」
レンは彼女だけに聞こえる囁き声で、静かに、だが熱を持って告げた。
「誰も俺たちのことを知らない、ずっと遠い海へ行こう。ダンには道場付きの孤児院を開かせて、エルには工房を持たせてさ。俺は毎日美味い魚を釣って、お前に食わせてやる。……全部終わったんだ、クラリス。もうお前は、誰かのために命を削らなくていい」
「海……」
クラリスの瞳が、朝焼けのような黄金の光を帯びて潤む。
「青くて、広くて、どこまでも続いていて……塩の匂いがするんですよね? レンさんと、二人で……」
「ああ。絶対に見せてやる」
二人が微笑み合い、指を絡め合わせた――その時だった。カツン、カツンと、冷たく乾いた足音が絨毯を踏みしめて近づいてきた。広間の歓談が一瞬にして静まり返る。現れたのは、豪奢な純白の法衣をまとった帝立教会の枢機卿たち、そして豪奢な毛皮のマントを羽織った壮年の貴族――クラリスの実父、シルフィード伯爵だった。
五十を疾走しているはずの伯爵の肌には、皺の一つも見当たらない。娘の肉体を削って精製させた『神樹の神水』を浴びるように貪り、不老延命を謳歌している者特有の、蝋人形のように油じみた不自然な艶と生気が顔面に張り付いていた。
そのぎらつく瞳の濁りが、レンの胸に冷たい警戒の針を突き立てる。
「大儀であったな、下民の勇者よ」
シルフィード伯爵は、レンを一瞥すらしようとせず、傲慢な笑みを口元に貼り付けていた。
「龍母レヴィアの心臓は破壊され、東の排液は止まった。これで神樹イグニス・アルボルは、再び帝国に無限の神水をもたらすであろう。……貴様らのような泥にまみれた猟犬にしては、上出来な働きであった」
「……何が言いたい、伯爵」
レンが冷たく視線を据えると、ダンカンが手元の金砕棒に無言で手を伸ばし、いつでも割って入れるよう間合いを詰めた。エルもまた、酒気を一瞬で消し去り、ホルスターの留め金を親指で静かに外す。
「言葉の通りだ。貴様らの役目は終わった」
伯爵の背後から、教皇庁の枢機卿が銀の盆を掲げて進み出た。盆の上には、美しく透き通った琥珀色の祝杯が四つ、並んでいる。
「神樹の加護を讃え、救世の宴を締めくくろうではないか。……さあ、受け取るがよい。帝国が下賜する、至高の美酒だ」
慇懃無礼に差し出されたグラス。
レンが警戒して眉をひそめた瞬間、クラリスがすっと立ち上がった。
「父上。……教会の方々。私は、この祝杯をお受けしたくありません」
凛とした、毅然たる声だった。
かつて教会の籠の鳥として、ただ言われるがままに祈り、搾取されるだけだった少女の面影はどこにもなかった。
「私はもう、教会の操り人形には戻りません。魔王を倒した今、私は一人の人間として――レンさんと共に歩むと決めました」
堂々たる絶縁宣言。大聖堂に集まった貴族たちの間に、ざわりと息を呑む動揺が走る。だが、娘の言葉を受けたシルフィード伯爵の眉は、微塵も動かなかった。
激昂するでも、狼狽えるでもない。ただ、長年飼い慣らした家畜が聞き分けのない鳴き声を上げた時のような、底冷えする侮蔑の薄笑いを口元に刻むだけだった。
「共に歩む、だと? ……くく、思い上がるなよ、卑しい妾腹の落胤が」
「……っ」
レンの喉から、掠れた息が漏れた。
その言葉が向けられた瞬間、クラリスの背中が、まるで氷水を背骨に流し込まれたかのように硬直する。
凛としていたはずの少女の指先が、目に見えて血の気を失い、震えながら自らの胸元を握りしめていた。どれほど強い意志で前を向こうとしても、幼少期から魂に刻み込まれた「出来損ないの生贄」という呪縛の冷たさが、父親の冷徹な一言で瞬時に彼女の息の根を止めにかかっていた。
「おい、クソ貴族……今、なんて言った」
エルの低い声が、テーブルの上のグラスを微かに震わせた。
額に掛けたゴーグルの真鍮ダイヤルに無意識に指を掛け、噛み締めた奥歯がきしりと音を立てる。かつて自身を籠の鳥として弄び、研究を奪おうとしたアカデミーの腐敗した上層部――それと寸分違わぬ悪臭を放つ男へ向けられたその瞳は、酒気など一欠片も残さず、殺意を帯びて細められていた。 一方、ダンカンは金砕棒の柄に手を掛けたまま、ピクリとも動かなかった。
だが、その視線は伯爵ではなく、回廊の柱の陰、天井のアーチ、給仕たちの重心の傾きを値踏みするように舐めていた。数々の死線をくぐり抜けてきた歴戦の兵ならではの直感が、空気に混ざり始めた「包囲網の鉄の匂い」を、レンたちよりも早く正確に嗅ぎ取っていた。 ――何かがおかしい。レンの思考が、冷たい泥沼に足を取られるように減速していく。世界を救ったのだ。
あの過酷極まる魔大陸で、泥水をすすり、内臓を焼き爛れさせながら、命懸けで龍母レヴィアを仕留めてきたのだ。
この大聖堂に鳴り響く歓声も、頭上から降り注ぐ銀の紙吹雪も、すべては自分たちが勝ち取った平和を祝福するもののはずだった。 それなのに、なぜ目の前の男たちは、まるで屠殺場の家畜を検分するような目をしているのか。
「神樹が吸い上げる毒の濾過は、龍が死のうが終わらぬのだよ」
伯爵は、レンたちの張り詰めた空気を楽しむように、ゆっくりと喉を鳴らした。
「これより帝国が更なる繁栄を謳歌するためには、クラリス、貴様のその特異な肉体が不可欠なのだ。……平民上がりの雑兵どもに、我が帝国の至宝を連れ出させる道理がどこにあると思うかね?」
乾いたパチンという音が、静寂に落ちた。伯爵が親指と中指を鳴らした、そのわずかな合図。大聖堂の分厚い扉が、ゴゴゴ……と地鳴りのような鈍い音を立てて内側から閉ざされていく。賛美歌を歌っていたはずの聖歌隊の少年たちが無言で後退し、周囲の給仕たちがトレイを投げ捨てて、一斉に抜き身の魔導剣を鞘走らせた。
「伏兵……ッ!」
レンの心臓が早鐘を打つ。怒りよりも先に、信じがたい裏切りの冷気と、自らが連れ帰ってしまった仲間たちへの責任が、胃の腑を鋭く締め上げた。
「……ハ、冗談だろ。救世の英雄に配備する近衛兵にしちゃ、えらく刃が尖ってやがるじゃねえか」
ダンカンの掠れた笑い声が落ちる。しかし、その口角の引きつりは、ここが退路のない袋小路であることを雄弁に物語っていた。
「レン! 空間の魔力濃度が上がってる! この空気――何か仕込まれてるわよ!」
エルの悲鳴のような叫びが木霊した、まさにその瞬間だった。
「――っ、あ、……ぁ、ぐ……っ!?」
隣で、細い糸が切れるような音がした。振り返ったレンの視界が、信じられない光景を捉える。クラリスが、自らの喉元を両手で激しく掻きむしり、崩れ落ちていた。
純白の巡礼衣を、口端から溢れ出たどす黒い鮮血が容赦なく汚していく。
「クラリス……!?」
膝をつき、倒れ込む彼女の身体を抱き止めたレンの腕に、おびただしい悪寒が走る。
温かかったはずの肌が、触れた端から氷のように冷たくなっていく。
喉仏の下、鎖骨の間に刻まれた教会の『聖別印』――そこからまるで毒虫の足のような黒紫色の血管が、彼女の白皙の肌を侵食しながら四方へと這い広がっていた。
「ごほっ、げほっ……! は、あ……れ、ん……さん……息、が……っ」
「酒に毒を盛るなどという古典的な手を警戒していたようだが……甘いな」
伯爵の背後から歩み出た枢機卿が、手にした銀の香炉を優雅に揺らした。
そこから立ち上っていた甘ったるい白煙が、大聖堂のドーム天井を淀ませていた。
「大聖堂の香油に仕込ませておいたのだよ。生贄の体内でマナを凝固させ、神聖術の脈動を破壊する『聖毒』の煙をな。……己を癒やす『奇跡』すら、今のその娘には毒となろう」
「……てめえら」
レンの視界が、真っ赤に染まった。
血抜きをする魚の目を覗き込むように、冷たく、計算され尽くした手際で少女を壊しにかかる教会と国家の悪意。
自分たちが信じ、命を預け、世界のために捧げてきた時間のすべてが、この男たちの傲慢な保身と欲望の餌でしかなかったという現実が、レンの胸を焼き尽くす。
「神樹の生贄を回収せよ。……残る三人の薄汚い猟犬どもは、大逆の反逆者として首を刎ねろ」
伯爵の冷酷な宣告と同時に、数十の魔導兵が一斉に地を蹴った。
「喋るな、クラリス! 今、傷を……っ!」
「だめ、です……レン、さん……逃げ、て……」
吐血に濡れた唇で、クラリスは震える指先をレンの袖に絡め、弱々しく首を横に振る。
自分を救うためにレンがここで死ぬことだけを、死の淵にあっても彼女の魂は拒絶していた。
「逃げるわけねえだろ……! 二人で海へ行くって、約束したじゃねえか!!」
レンが十指の魔導手甲を構え、不可視の鋼糸を張ろうとした刹那――
「退けェッ、ガキ共ッ!!」
大気を破裂させるような咆哮とともに、ダンカンの巨躯が二人の前に割り込んだ。
振り下ろされた八角鉄製金砕棒が、大理石の床ごと最前列の魔導兵を粉砕し、強烈な衝撃波で敵陣を吹き飛ばす。
「ダン……!?」
「レン、その嬢ちゃんを抱えて走れ! ここは袋小路だ、エルの工房へ逃げ込むぞ!」
「言われなくても道は開けるわよ! ――全員、頭を下げなさいッ!!」
エルがホルスターからパイルランチャーを引き抜き、大聖堂の側面のステンドグラスへ向けて圧縮信管をぶち込んだ。
轟音と共に美しい聖画が爆砕し、帝都の冷たい夜風が堂内へ雪崩れ込んでくる。 かつて世界を救った四人の、血と泥に塗れた逃避行の幕が切って落とされた。
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