第四十八話:『最果ての水辺』 第二節:最果ての水辺、潮風の墓標
白い塩の砂漠を抜け、なだらかな砂丘の稜線を駆け上がった瞬間、世界のすべてが鮮烈な青へと塗り替えられた。
「……っ!」
アリアの足が、乾いた砂を踏み締めて止まった。
背後から追いついたリンとルシアンが、息を呑んで立ち尽くす。
視界の彼方まで広がっていたのは、絵画でも、大聖堂のステンドグラスでもない。
どこまでも、どこまでも果てしなく広がる、抜けるような蒼穹と、太陽の光の粒を浴びて白銀の鱗のようにきらめく本物の水平線。
寄せては返す白い波頭が、さらさらと清らかな潮騒の音を奏で、吹き抜ける風が四人の頬を、温かく、微かな塩の香りで包み込んでいく。
「……あ……」
フィリアの薄い唇から、震える吐息がこぼれ落ちた。
少女は履いていた旅のサンダルをおずおずと脱ぎ捨て、裸足のまま、陽光に温められた白い砂浜へと一歩を踏み出した。
指先から伝わってくる、太陽の熱と砂粒の柔らかな感触。
両手を胸元でぎゅっと合わせ、潤んだエメラルドの瞳をこれ以上ないほど見開く。
「これが……海……。青くて、広くて……こんなにも、あたたかいのですね……っ」
大聖堂の地下深く、冷たい無菌室の檻で十六年間、死ぬことだけを待たされていた少女の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちて、白い砂の上へと吸い込まれていく。
だが、その顔にはもう、哀しい諦めの笑みなどどこにもなかった。
生まれて初めて世界の美しさに触れ、自分の足で大地を踏み締めた、年相応の少女の、満ち足りた感動の涙。
「おいおい、すっげえな……! 水の端っこが見えねえぞ!」
リンが歓声を上げ、草履を蹴飛ばして波打ち際へと駆け出した。
寄せる白波に素足を浸し、水飛沫を跳ね上げながら、無邪気に笑い転げる。
自由都市の港で譲り受け、アリアが両手で胸元に抱きしめる……。
そして、砂浜で立ち尽くしていた青年の元へとつむじ風のように駆け戻ると、その細身の手首をごく自然に、迷いなくぎゅっと掴んで引っ張った。
「ルシアン、早く来いよ! 水がすっげえ気持ちいいぜ!」
「ちょっ、走るなリン! 濡れた砂に足を取られて転びますよ……ああもう、靴の中に砂が……!」
ルシアンは眉根を寄せて小言を並べ立てながらも、その手から逃れようとはしなかった。
掴まれたリンの小さな手を、骨張った指先でそっと包み込むように、温かく、ごく自然体に握り返す。
遮るもののない澄み渡るネイビーブルーの瞳には、目の前の壮大な水平線と、波打ち際で笑う少女の姿が、眩しそうに映し出されていた。
アリアは優しく目を細め、胸元に手を当てた。
探していた本物の最果ての景色。
そして、波の届かない小高い砂丘の頂へと、ゆっくりと歩みを進める。
海が一望できる、世界でいちばん陽当たりのいい特等席。
「リン、ルシアン、フィリア。……こっちにきて」
アリアの柔らかく透き通る呼びかけに、三人が砂を払いながら集まってきた。
リンが背負っていた布包みを解き、ふたつに折れた素朴な竹竿を両手で差し出す。
過酷な水辺で四人が笑い合い、ダンカンが持ち帰り、エルがリールを合わせ、クラリスが水色の飾り糸を結んだ、泥臭い原点。
リンは膝をつき、その折れた竿を、ふたつ並べるようにして白い砂深くへと真っ直ぐに突き立てた。
アリアが歩み寄り、腰のポーチから取り出した木製ルアーの糸を、竿の先端へと丁寧に結びつける。
クラリスが旅の合間に小さな筆で描いた、丸くて愛らしい黒い瞳。
百年間、青年が胸の奥で握りしめ続けてきた体温を宿す木片が、潮風を受けて小さく揺れた。
そして、アリアはポケットから、透き通る朱色の小石を取り出した。
呪縛を解かれ、悪意の一欠片も残さずに砕け散った、『真紅の魔核』の清らかな結晶片。
アリアはその破片を、竹竿の根元、砂の温もりの中へとそっと埋めた。
さらさらと、心地よい潮風が砂丘を吹き抜けていく。
竿に結ばれた色褪せた水色の飾り糸がパタパタとたなびき、木製のルアーがカチリと音を立てて波の光を弾いた。
そこに、悲壮な気配はなかった。
まるで、焚き火の煙を煙たがっていたエルと、
大盾を背負って豪快に笑っていたダンカンと、
青年に寄り添って微笑んでいたクラリスが、
ようやく辿り着いたこの渚で、肩を並べて座り、青い海を眺めながら他愛ない冗談を交わし合っているかのような、あたたかな静けさ。
「……連れてきたわよ」
アリアは砂浜に立ち、水平線へ向けて、静かに語りかけた。
「レン。クラリス。ダンカン、エル。……あんたたちの、海よ」
四人は静かに目を閉じ、胸の前で深く頭を垂れた。
百年の孤独と、理不尽に抗い続けた先代勇者たちの魂へ捧げる、心からの手向け。
風がふわりとアリアの白銀の髪を揺らし、去っていった。
それはまるで、「ありがとう」と、遠い友から囁かれたような気がした。
(第三節へ続く)




