第四十八話:『最果ての水辺』 第一節:更地の芽吹きと、開かれた門
玉座の間の大扉をくぐり抜けた瞬間、頬を撫でたのは凍てつく吹雪ではなかった。
湿り気を帯びた、どこまでも穏やかで生温かい風。
かつて永久凍土と黒曜石の冷気によって閉ざされていた魔王城『深淵海宮 ネクロ・アビス』の回廊は、いまや天井から降り注ぐ金色の朝日に白く照らし抜かれていた。
壁面を覆っていた黒氷がさらさらと滴となって解け落ち、エルの遺した巨大な循環インフラが、低く規則正しい脈動を刻みながら、大地から汲み上げた清廉な温水を各区画へと滑らかに送り届けている。
それは破壊と拒絶の城から、命を生かすための巨大な都市へと、世界が呼吸を取り戻した証そのものだった。
長い大階段を降りきった広場。
そこには、武装を解いた六大部族の戦士たちが、息を呑んで立ち尽くしていた。
先頭に立っていたのは、淵鱗族の潜水工作隊長、ナディアだった。
濡れた漆黒の長髪を肩に垂らし、強靭な蛇尾をしなやかに巻いて佇む戦士の双眸には、警戒も敵意もなかった。
ただ、神殿の奥から現れた四人の姿を、驚愕と、深い哀悼の滲む眼差しで見つめている。
四人の表情には、激闘を生き延びた疲労と、それ以上に深い情愛が刻まれていた。
アリアの白皙の頬には戦塵の跡がかすかに残り、菫色の瞳は先刻までの涙を拭い去り、静かで澄み切った光を宿している。
その隣で、ふたつに折れた竹竿を抱えるリンは、まだ赤く腫れた目元を時折手甲の甲で擦りながらも、唇を一文字に引き締め、戦士としての静かな敬意をその面持ちに湛えていた。
ルシアンは歪んで片方のレンズを失った眼鏡を胸ポケットへと仕舞い込み、生身のネイビーブルーの瞳を伏せ、知性ある若者らしい厳粛な痛惜を眉間に滲ませている。
そしてフィリアは、胸の前で両手を固く祈るように組み、エメラルドの瞳を潤ませながら、消え去った魂の平安を祈り続ける聖母のような柔らかな痛切さを唇に浮かべていた。
「……主の気配が、消えました」
静寂の中、水底の残響を思わせる冷涼な声が落ちた。
「ですが……城を満たしているのは、あの凍てつくような怨嗟の毒気ではありません。……我が主は、最期にいかなる裁定を下されたのですか」
アリアは足を止め、真っ直ぐにナディアを見据えた。
胸元のポーチから、クラリスが瞳を描き込んだ木製ルアーの温もりが、服越しに確かに伝わってくる。
アリアの口元が、わずかに緩んだ。
哀しみを乗り越え、温もりを分かち合えた者だけが浮かべる、慈愛の混ざった泣き笑いのような表情。
「裁定なんて、大層なものじゃないわよ」
アリアの声は、どこまでも澄み渡っていた。
「あいつは……レンは、ただ仲間たちとの約束を果たすために、百年間たった一人で耐え抜いていただけだった。……あいつらのところへ帰っていったわ。笑ってね」
その言葉を紡ぐアリアの瞳の奥、星の勇者としての覚悟が、朝日の光を反射して琥珀のように温かく瞬いていた。
隣のリンが、鼻を小さく鳴らして八重歯を覗かせ、誇らしげに顎を引く。
ナディアの深緑の双眸が、かすかに震えた。
背後に控える潮殻族のカルノスや白骨族のバウルたちも、言葉を失って息を呑む。
ルシアンが一歩進み出た。
青年の涼やかな横顔には、かつてアカデミーの象牙の塔で浮かべていた冷笑など微塵もない。
仲間と共に泥水を啜り、世界の実相を解き明かした若き参謀の、威厳と矜持に満ちた眼差しで羊皮紙を軽く掲げた。
「ポルト・ヴェルデの巨石水門が両断されたことで、西大陸から東の海へ強制投棄されていた神樹の猛毒排液は、完全にその元栓を断たれました。エルの循環炉が正常稼働を始めた今、この魔大陸の水脈は、数か月を待たずに本来の自浄能力を取り戻します。……貴方たちが毒に怯え、飢えに苦しむ時代は、今日この日をもって終わったのです」
その整然とした宣告に、フィリアがそっと顔を上げ、花が綻ぶような清らかな微笑みをナディアへ向けた。
「もう、誰も生贄になる必要はありません。……レン様が、命を懸けて繋いでくださったのです」
「……そう、ですか」
ナディアは目を伏せ、胸元に手を当てた。
その口元に刻まれていたのは、深い喪失の哀傷と、それを遥かに超える暖かな敬慕の念だった。
「我が主は……自らの命を燃やし尽くしてなお、最後まで我ら六部族の生きる道を均してくださったのですね」
ナディアが静かに頭を垂れると、広場を埋め尽くしていた戦士たちが、一斉に武器の石突を床へと下ろし、新世代の四人へ向けて道をあけた。
それは侵入者に対する恐れではない。
魔王の孤独を終わらせ、その魂を救い上げた者たちへ捧げる、最大の礼節。
「……お行きなさい、新星の勇者たちよ」
ナディアが顔を上げ、南東の空――光り輝く水平線の彼方を指し示した。
「この回廊を抜け、塩漠の果てを越えれば、かつて我が主が目指し、そして人間どもの都合によって塞がれたという『誰も知らない最果ての水辺』が広がっております。……主の遺志を、どうかあの海へ」
「ええ。任せなさい」
アリアは、凛とした強い眼差しで頷いた。
リンが背中の折れた竹竿を抱き直してニヤリと不敵に笑い、ルシアンが確信に満ちた面持ちで頷き、フィリアが温かな眼差しで一礼する。
開かれた巨大な黒鉄の門扉をくぐり抜け、四人は、約束の地を目指して歩み出した。
(第二節へ続く)




