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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第四十七話:『人間へ還る朝露』 第三節:朝露の旅立ち、氷解の空

 光は、天蓋の隙間から差し込んだのではない。二人のすぐ背後から、静かに溢れ出していた。


 大階段の最上段に鎮座していた巨大な魔水晶――百年間、少女の身体を死の穢れから隔離し続けてきた『ステシス・クリスタル』の表面に、微細な亀裂が走る。

 破壊の予兆ではない。

 春の陽気に温められた湖面の薄氷が、静かにほどけて水へと還るような、あまりにも柔らかで清らかな雪解けの合図。


 淡い緑晶の光を放っていた結晶が、音もなく無数の光粒となって虚空へと溶け去っていく。

 解き放たれたのは、百年前のあの日と同じ、傷ひとつなく陶器のように滑らかな白皙の肌と、月光をそのまま紡いだような白銀の髪を湛えた少女の姿。

 だが、その輪郭はもはや質量を持った肉体ではなかった。


 天へと還る光の粒子そのものが少女の形を取り、ふわりと重力を失って、大階段をゆっくりと滑り降りてくる。


「……っ、クラリス、様……」


 フィリアが胸の前で組んでいた手を震わせ、息を呑んで見上げた。

 アリアの首元にある『星彩の首輪(ステラ・チョーカー)』が、共鳴するように七色の燐光を周囲に優しく散らす。


 舞い降りてきた光の少女は、アリアの腕の中で消えゆく青年の前へと、音もなく膝をついた。

 その唇の端には、愛する者を救い切った者だけの、あの日の沼沢地で遺したのと寸分違わぬ、穏やかで優しい微笑みが刻まれている。


 少女の半透明の白い指先が、そっと伸びた。

 そして、青年の泥と煤にまみれた頬へと、温かな光となって重ね合わされる。


「……クレア……」


 青年の掠れた唇から、愛おしい本当の名が零れ落ちた。

 もう、視界を遮る冷たい氷も、怨念の瘴気も存在しない。

 青年が百年間、世界を壊してでも連れ戻すと焦がれ続けた少女が、いま、確かに目の前で自分だけに微笑みかけていた。


 どこからともなく、温かな風が神殿の空気を揺らした。

 泥にまみれ、酒瓶を傾けながら「レンたちと囲んだ飯が一番美味かった」と不敵に笑うエルの悪戯っぽい声。

「前の嬢ちゃんだけ見て走れェッ!」と無骨な金砕棒を構え、豪快に笑い飛ばすダンカンの地鳴りのような咆哮。

 かつて過酷な魔境で、粗末な焚き火を囲みながら笑い合っていた三人の魂の残響が、光の粒子となって青年の周囲を優しく包み込んでいく。


 迎えに来てくれたのだ。

 誰一人として、この不器用な青年を責める者などいなかった。

 百年間、たった一人で暗闇を背負い続けてきた青年を、ただ「おかえり」と抱きしめるために、全員がここに集っていた。


 青年の身体から、光の粉が急速に立ち昇り始めた。

 足先から、指先から、肉体の輪郭が朝露のようにほどけ、金色の光の奔流となってクラリスの光と溶け合っていく。


 レンは震える視線を、アリアへと向けた。

 その双眸には、一片の悔いも、未練も残されていなかった。


「……ああ」


 青年の口元に、二十歳の泥臭い少年の、くしゃりとした満面の笑顔が咲いた。


「……壊れなくて、よかったな」


 足元に転がる、ふたつに折れた素朴な竹竿。

 アリアの手の中でぬくもりを宿し続ける、クラリスの木製ルアー。

 道具も、そして仲間を信じる誰一人見捨てない心も、何ひとつ壊れることなく、新しい世代の温かな手へと受け継がれた。


「……あいつらのところへ、行ってくるよ」


 クラリスの光の手が、青年の右手をぎゅっと包み込んだ。

 二人の光が一つに重なり合い、眩い黄金と朱色の光条となって、神殿の虚空へと真っ直ぐに昇華していく。


「……っ、レンッ!!」


 アリアの叫びとともに、青年の身体は完全に光の粒子となってアリアの腕を抜け、天へと駆け上がった。


 瞬間、神殿の天蓋を閉ざしていた分厚い氷塊が、大気の震動とともに低く重たい軋みを立てた。

 崩壊の響きではない。

 昇華した光の柱が、魔王城ネクロ・アビスの最深部を覆っていた百年の永久凍土を、内側から穏やかに融かし抜いたのだ。


 頭上の氷の天蓋が、清らかな水滴となって雨のように降り注ぐ。

 その向こう側から差し込んできたのは――

 百年間、この呪われた魔大陸を一度たりとも照らすことのなかった、本物の朝日の光芒だった。


 金色の陽光が、暗い玉座の間を白昼のように照らし抜く。

 冷気は完全に消え去り、大気を満たしたのは、エルの残した巨大な循環インフラが汲み上げる、温かで清らかな水のせせらぎの音。

 世界を更地に均すための要塞都市は、いま、未来の民を生かすためのあたたかな大地へと、その呪縛を解かれていた。


 床の上に、残されたものがあった。


 真紅の光を失い、ただの穏やかな朱色の小石となって転がる、魔核の破片。

 中央からふたつに折れ、役目を終えて横たわる、古びた竹の釣り竿。

 そして、アリアが両手で胸元に抱きしめる、小さな木製のルアー。


 アリアは立ち上がり、手の甲で頬の涙を力強く拭った。

 隣では、リンがまだ赤く腫らした目を擦りながら、折れた竹竿を拾い上げ、壊れ物を扱うように両腕でしっかりと抱きかかえている。

 ルシアンは歪んだ眼鏡を丁寧に胸ポケットへと収め、遮るもののない瞳で、眩しそうに天蓋の朝日を見上げていた。

 フィリアは胸の前で両手を合わせ、去っていった光へ向けて、深く、祈りを捧げている。


 誰も、俯いてはいなかった。


「……行くわよ」


 アリアの凛とした声が、光に満ちた神殿に響いた。

 菫色の瞳には、もう迷いなど欠片も存在しない。


「託されたものを持って……あたしたちの、本当の海へ」


 東の空から注ぐ陽光を背に受け、新世代の四人は、約束の地を目指して歩み出した。


(第四十七話 完 / 第四十八話・最終話へ続く)


ここまでお読みいただきありがとうございます。

もし面白かったら、もう一本読んでいただけたら嬉しいです。


またよかったらブックマークや感想もいただけますと幸いです!

引き続きよろしくお願いします!

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