第四十七話:『人間へ還る朝露』第二節:託された想い
青年の身体の輪郭が、足元からかすかに揺らぎ始めていた。
『真紅の魔核』という唯一の楔を失った肉体は、百年の呪縛から解き放たれ、朝霧が陽光を浴びて淡く透き通っていくように、微小な光の粉を散らし始めている。
消滅の刻限が刻一刻と迫っていることは、誰の目にも明らかだった。
レンは震える素手の指先を腰元へと這わせた。
黒魔の外套の裾をめくると、そこには百年前の逃避行から肌身離さず提げ続けてきた、擦り切れた古びた革ポーチがあった。 冷え切った指先で留め金を外すと、青年は中からひとつの小さな木片を取り出し、アリアの掌の上へとそっと押し当てた。
アリアは息を呑み、手のひらを見つめた。
それは、粗末な木を小刀で削り出しただけの、小さなルアーだった。
水辺の泥や魚の牙に削られた無数の小傷。 背には誰かが細い筆で描いた、丸くて愛らしい黒い瞳。 何より、受け取ったアリアの掌をじわりと温めたのは、金属のような冷たさではなく、青年が百年間、孤独の暗闇の中で幾万度となく握りしめ続けてきた「生身の執念と祈りの体温」そのものだった。
「……これ、持って行ってくれ」
レンは、床に転がっているふたつに折れた竹竿へと、慈しむような視線を投げた。
過酷な水辺で四人が笑い合い、ダンカンが持ち帰り、エルがリールを合わせ、クラリスが飾り糸を結んだ、あの泥臭い原点。
「百年前……俺たちみたいな不器用な連中のそばにさ、お前みたいな真っ直ぐな馬鹿が一人でもいれば……何かが、違ってたのかな」
青年の口から零れたのは、自嘲ではなかった。 泥にまみれ、国家や教会という巨大な理不尽を前にしても、仲間を一人も生贄に捧げず、手を取り合ってここまで辿り着いた新星勇者たちへの、飾り気のない敬意。
「……悪かったな。後の掃除を、全部押し付けちまって」
青年の瞳が、かすかに曇った。 更地に均された帝都の街並み。
恐怖と混乱に叩き落とされた大陸の傷跡。 世界を壊した責任は、どれほど魂を救われようとも消えることはない。
「……俺にはもう、この世界を直す資格なんざ残ってねぇよ」
「謝るんじゃないわよッ!!」
アリアの鋭い一喝が、神殿の空気を揺らした。 少女は握りしめた木製ルアーを胸元へと抱え込み、レンの薄汚れた手を、自らの両手でぎゅっと力任せに握り返す。 菫色の瞳から大粒の涙を零しながらも、その眼差しには一片の迷いも曇りもなかった。
「あんたが残した爪痕も、更地になった世界の未来も、あたしたちが全部引き受けてやるわよ! あんたが壊してくれたおかげで……あの腐った老人たちの生贄の連鎖は、完全に断ち切られたんじゃないのッ! だから……」
アリアは鼻をすすり、八重歯を噛み締めながら、力強く言い放った。
「胸を張りなさいよ! あんたは最後まで、あいつらのために戦い抜いたのよ! あたしが……星の勇者アリアが、あんたの百年間を絶対に無駄になんかさせないんだから!!」
その叫びを聞いた瞬間、レンの口元が、ふっと泣き笑いのように歪んだ。
(――ああ。本当に、どこまでも眩しい連中だ)
自分たちが果たせなかったすべてを、この四人はその泥だらけの足で泥臭く掴み取ってみせたのだ。
「……頼むよ、新星勇者」
レンは、透き通るような穏やかな眼差しでアリアを見つめ、静かに告げた。
「この折れた竿と……クレアのルアーを、連れて行ってやってくれ。……俺たちの行けなかった、あの広くて、青い……本当の海へ」
「約束する!!」
アリアは喉を引き裂かんばかりに叫び、力強く頷いた。
「絶対に連れて行く! あんたたちの魂も、ダンカンも、エルも、クラリスの想いも全部抱えて……誰も犠牲にしない、あたしたちの海へ行ってやるんだからッ!!」
アリアの背後で、リンが涙を拭いながら拳を握りしめ、ルシアンが眼鏡を外したまま静かに頷き、フィリアが祈りを捧げるように両手を胸に当てていた。 約束の言葉が神殿に満ちたその時、大階段の上―― 『ステシス・クリスタル』の深奥から、あたたかな光の波紋が、静かに溢れ出し始めた。
(第三節へ続く)




