第四十七話:『人間へ還る朝露』 第一節:ぬくもりの輪
肌を刺していた絶対零度の冷気が、嘘のように消え去っていた。
神殿の空気を支配していたのは、凍りつくような殺意でも、万象を干からびさせる怨念の風でもない。
泥濘の草むらに降り注ぐ、夜明けの柔らかな朝露のような、微かな湿度を帯びたあたたかい静寂だった。
大階段の壇下、冷たい黒氷の床に膝をついたアリアの腕の中で、青年の身体は驚くほど軽かった。
世界を更地に均すと恐れられた魔王の質量など、どこにもない。
ただ過酷な水辺を生き延びるため、粗末な飯を食い、泥水をすすりながら糸を引いていた、どこにでもいる二十歳の少年の骨張った重み。
「……重ぇだろ」
青年の口から零れ落ちたのは、掠れた、だがどこか懐かしい響きを宿した声だった。
百年間、世界を凍結させてきた冷酷な平熱ではない。
辺境のまつろわぬ民の孤児として、泥臭く笑い合っていた頃の、飾らない青年の口調。
「……降ろしてくれよ、勇者様。……床で、充分だ」
「重かないわよ、馬鹿」
アリアの目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、青年の煤けた黒髪を濡らした。
鼻の奥をツンと突く痛みに耐えながら、少女は泣き笑いのような顔で、その華奢な両腕にさらに力を込めて抱きしめ直す。
「あたしを誰だと思ってんのよ。……スラムの地下闘技場でリンと顔面殴り合って、引き分けた女よ? あんた一人抱えるくらい、どうってことないわよ……ッ」
その言葉に、レンの口元がかすかに綻んだ。
漆黒の前髪の隙間から覗くその瞳は、もはや光を呑み込む虚無ではない。
ただ愛する者を喪い、痛みに耐えかねて凍りついていた少年が、ようやくあたたかい部屋へ戻ってきたかのような、柔らかな光を宿していた。
コツン、コツン、と。
痛々しく足を引きずる音が、静まり返る神殿に響いた。
血塗れの橙髪を揺らし、足首を引きずりながら歩み寄ってきたリン。
折れた魔導杖を杖代わりに、肩で息をしながら進み出るルシアン。
そして、砕けたファンネルの破片を踏み越え、胸元で両手をぎゅっと組みながら涙を浮かべるフィリア。
満身創痍の三人が、アリアとレンの周りへと膝をつき、静かな輪を作った。
レンはゆっくりと首を巡らせ、まずリンの右腕に視線の留めた。
外装装甲を吹き飛ばされ、生体腱ダンパーが焼け焦げ、それでもなお固く握りしめられている『緋金剛・砕霊甲』。
「……ダンカンみてぇな、いい拳だ」
青年の掠れた声が、リンの鼓膜を震わせた。
「あいつの八角金砕棒……お前みたいな頑丈で、真っ直ぐな奴の拳に受け止められて……きっと喜んでるよ」
地下闘技場で泥水をすすっても、国家の騎士団に囲まれても、どんな絶望的な戦場でも決して涙を見せなかった少女の顔が、くしゃりと歪んだ。
「っ……あ……」
これまで一度も弱音を吐かなかったリンの琥珀色の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。
真鍮の破片が刺さったままの痛々しい手甲の甲で、少女は力任せに目元をゴシゴシと擦る。
だが、拭っても、拭っても、熱い雫は止まらない。
「……バカ言んじゃないよッ……! あたしは……アンタに褒められる筋合いなんて、これっぽっちも……っ!」
リンは赤くなった鼻をすすり、歯を食いしばって嗚咽をねじ伏せようとした。
だが、喉の奥から込み上げる震えを抑えきれず、ぼろぼろと大粒の涙を床に落としながら、子供のように肩を震わせて泣き崩れた。
ダンカンが守りたかったもの。
死んだ後まで仲間を守る壁になろうとした、あの不器用な大男の魂。
それを最も深く理解していたこの青年から投げかけられた一言が、戦士として張っていた心の糸を、跡形もなく決壊させていた。
レンは静かに目を細め、次にルシアンへと視線を向けた。
ルシアンは、血と煤で汚れた指先を伸ばすと、歪んで片方のレンズが割れていた愛用の銀縁眼鏡を、静かに自らの手で外した。
いつも冷徹な数理の裏に隠していた素顔――知性と誇りに満ちたネイビーブルーの瞳を露わにし、青年は静かにレンを見つめ返した。
「……エルのリール、見事に調律したな」
レンの口元に、苦笑のような温もりが浮かぶ。
「あいつ、難しい数式なんか大嫌いでさ……『現場で噛み合えばそれでいいのよ!』って、いつも工房で油だらけになって怒鳴ってたっけな」
ルシアンの喉仏が、小さく上下した。
潤んだ両の瞳を伏せ、青年は深く、胸元に手を当てて一礼した。
「……ええ。現場の泥臭さを知り尽くした、至高の……そして、世界で最もあたたかい設計でしたよ」
言葉を詰まらせながら絞り出されたその返答には、もはや最高学府の秀才としての冷たい気取りなど欠片もなかった。
机上の空論を捨て、仲間の命を守るために知性を振るう覚悟をくれた天才技師の遺産へ、一人の若き魔導士として捧げる、最大の敬意。
そして、レンの視線は、最後にフィリアへと注がれた。
純白の巡礼衣を泥で汚し、祈るように両手を胸の前で固く握りしめている、桜金色の少女。
レンの泥に汚れた指先が、微かな震えを伴いながら、ゆっくりと持ち上げられた。
その指先が、そっとフィリアの柔らかい髪に触れた。
「……お前が、二代目か」
青年の声は、あまりにも優しかった。
「……良かった。あいつの身代わりにならなくて……本当に、良かったよ……」
「レン、様……っ」
フィリアのエメラルドの双眸から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
少女は両手で、レンの骨張った手を大切そうに包み込み、自分の額へと押し当てた。
大聖堂の地下深く、ただ使い潰されるためだけの生贄として生きてきた自分。
その理不尽な世界の欺瞞を更地に均すため、百年間たった一人で戦い続けてきた男の冷え切った手が、いま、父親のようにあたたかく自分の頭を撫でている。
四人の涙が、神殿の冷たい床に落ちていく。
討伐ではない。
憎悪でもない。
傷だらけの若者たちが、かつて世界に裏切られた一人の青年を囲み、その百年の孤独を自分たちの体温で包み込む、あまりにもあたたかい救済の輪。
レンは天を仰ぎ、深く、静かに息を吐いた。
「……ああ」
その唇から漏れたのは、百年間、誰も彼に与えてやれなかった、安らかな吐息だった。
(第二節へ続く)
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