第四十四話:『四重奏の攻防』 第一節:不可視の死角
青年の両手が、わずかに後方へと引かれた。
ただそれだけの所作だった。
大振りな構えも、魔導を励起させる詠唱のタメもない。
水辺の釣り人が、風を孕んだ細いラインのたるみを指先で拾い上げるような、日常に溶け込んだ極小の筋肉の収縮。
だが、その瞬間――空間の理そのものが、内側から破断した。
音が消えた。
風が裂ける音も、石が擦れる音すら存在しない、完全なる無音の処刑線。
四人の網膜が捉えたのは、神殿の大気そのものが断層を起こし、天井を支える数十本もの黒氷柱が一斉にサイコロのように滑らかに斜めへ滑落していく光景だった。
切断面は鏡面のように磨き抜かれ、摩擦熱すら帯びていない。
人差し指【断の糸】と親指【結の糸】が編み上げた、絶対切断の不可視格子網――
『百式断髄』。
「っ……認識不能……ッ!」
ルシアンが絶叫を上げた。
右眼のアナライザー・モノクルのレンズが、空間座標の強制消失を示す膨大な青白い警告数式に耐えかね、中央からピシリと微小な亀裂を走らせる。
「結界の展開速度を……完全に上回っている……! 張った瞬間に術式の基点ごと切り刻まれるぞ……ッ!」
切断線はすでに四人の頸椎と四肢の結節点を捉えていた。
踏み出すことも、後ろへ跳ぶことも許されない。
ただ首を数ミリ傾けただけで、頭部が胴体から滑り落ちる死の檻。
「フィリアッ!!」
アリアの悲鳴のような合図が響いた瞬間、フィリアは躊躇なく自身の全霊を解き放った。
「――すべてを退け、咲き誇れッ!」
『祈誓の翠玉環』から奔流となって溢れ出た神聖マナが、六基の『リリィ・ファンネル』を四人の周囲へ弾丸のように射出する。
八面体の結界を四方へ展開するのではない。
フィリアはファンネルそのものを、四人を囲む切断線の直線上へと物理的に割り込ませたのだ。
接触の刹那。
無色透明だった空間に、まるで大気に走る生々しい切り傷のような、鮮烈な【真紅の閃光ライン】が網の目のように浮かび上がった。
硬質な破砕音が重なる。
新星カルテットの防御の要たるファンネルのうち二基が、不可視の糸と接触したコンマ数秒後、外殻の耐魔装甲ごと真っ二つに両断され、内部の結晶マナを青白い粉雪のように吹き散らしながら、黒氷の床石へと弾け飛んだ。
「う、ぁ……っ!!」
フィリアの喉から、血の混ざった短い呻きが漏れる。
端末の損壊に伴う激しいマナの逆流が少女の神経系を直撃し、白皙の唇からひとすじの鮮血が垂れ落ちた。
だが、その二基の犠牲が、ほんのコンマ一秒――糸の張力が跳ね返る極小の隙間を抉り出していた。
「リンッ、左だ!!」
ルシアンの叫びと同時に、リンの身体が弾かれたように動いた。
思考を捨て、野性の直感だけで地を蹴る。
踵部スラスターのピストンが圧縮空気を爆発させ、リンは崩落する黒氷の破片を足場にして低空を滑走した。
残る糸の隙間を潜り抜け、リンはアリアの襟首を力任せに掴んで背後へ突き飛ばした。
直後、アリアが立っていた空間を、遅れて収縮した真紅の切断線が薙ぎ払う。
アリアの白銀の長い前髪が数筋、ハラハラと虚空へ散った。
「アリア、ぼさっとすんなッ! 一呼吸でも遅れたらミンチにされるよッ!」
怒鳴り散らすリンの左腕――『緋金剛・砕霊甲』の外装フレームが、切断線をかすめた反動で深くえぐり取られ、真鍮の破片を撒き散らしていた。
超耐熱・高密度合金で鋳造された装甲すら、バターのように削ぎ落とされている。
リンの剥き出しになった前腕の皮膚から、赤い血が滲み出し、凍てつく大気の中で黒ずんで凍りついていく。
初手から、完全なる劣勢。
新装備の機能美を惜しみなく連動させ、二重の犠牲を払って、ようやく「全員の即死」を免れたに過ぎない。
だが――。
吹き荒れる氷煙の向こう、階段の上の玉座を見上げた四人の息が、再び凍りついた。
青年は、立っていた。
黒衣の裾をわずかに冷気に揺らし、両手の鉤爪を前へ垂らしたまま。
玉座の前から、「ただの一歩」も動いていなかった。
息の乱れすらない。
踏み込みすらしていない。
四人が満身創痍で死線をくぐり抜けたそのすべてが、青年にとっては、椅子から立ち上がって軽く糸を払っただけの余戯に過ぎなかったのだ。
光を一切反射しない漆黒の双眸が、血を流す四人を冷徹に見下ろしている。
青年は感情の起伏を示すことなく、左手の鉤爪をほんの数ミリ、小刻みに跳ねさせた。
ルアーに微細な生命を吹き込む、釣り師の指先のスナップ――トゥイッチング。
その所作ひとつで、神殿の大気全体に張り巡らされた無数の糸が、生き物のように震動を始めた。
空間そのものが、深海一万メートルの水圧を孕んで軋み、四人の肺を容赦なく圧殺しにかかる。
「……来るぞ」
ルシアンが血を吐くような声を絞り出した。
「いなす事すら出来ません……! 次の一撃、間違いなく僕たちを挽肉に変えに来ますよ……ッ!」
青年の背後で、自律浮遊する『黒骸の断罪柱』が、重力場を跳ね上げて水平へと旋回を開始していた。
(第二節へ続く)




