第四十三話:『永久氷晶宮の対峙』 第二節:更地化の予定表
冷え切った大理石の段上、羊皮紙が指先と擦れ合う微かな気配が、凍りついた空間に落ちた。
玉座に深く沈み込んだままの青年――魔王レンは、身じろぎひとつしない。
光を一切反射しない漆黒の双眸が、手元に広げられた古びた魔導羊皮紙を無造作に見下ろしていた。
その紙片は、かつて魔導技師エルが現場で走り書きしていた作業手帳の紙質そのものだった。
几帳面なインクの文字で書き連ねられた項目には、赤黒いマナの印が冷徹に押印されている。
【火の門閥・ヘパイストス:軍需工場群および高炉解体――更地化完了】
【水の門閥・ヴェネツィア・アルシア:大運河水門および貴族宮殿群解体――更地化完了】
【大学術都市・アレキシア:検閲禁書庫解放、兵器魔導機構の永久機能停止――解体完了】
【土の門閥・アイゼンガルテン:国境防壁および迎撃重火器の武装解除――完了(更地化免除)】
【帝都アルシリア:皇宮、中央軍事要塞、白亜天蓋の破砕――更地化完了】
そして、一番下に記された最後の未完了項目。
【神樹イグニス・アルボル根系伐採、および大水門オロジウムの不可逆解体】
「……貴方は」
静寂を切り裂いたのは、ルシアンの張り詰めた声だった。
青年の額には、フィリアの結界越しですら防ぎきれぬ冷気により、白い霜がうっすらと降りている。
右眼の解析モノクルのレンズをわずかに回し、手帳を抱える指先を強張らせながら、玉座の上の青年を射すくめた。
「四大門閥の拠点をことごとく機能停止させ、帝都の要塞群を一夜で瓦礫に変えた……。その手帳に書かれているのは、西大陸全土を海に沈め、民を皆殺しにするための予定表なのですか」
理知と数理を重んじる学究の青年による、冷徹な詰問。
だが、レンの表情筋は微動だにしなかった。
怒号も嘲笑も漏らさない。
青年は手元の羊皮紙を無造作に指先で弾き、膝の上に置くと、淡々と平熱の声を落とした。
「世界征服などという、下らん欲はない」
乾いた宣告だった。
感情の温度が完全に剥ぎ取られた、冷たい石の肌のような声音。
「虐殺が目的でもない。俺がやっているのは、公害源の元栓を閉め、障害物を平らに削り落とす……ただの土木作業だ」
「土木作業、だと……!?」
リンが八重歯を剥き出しにし、両腕の『緋金剛・砕霊甲』の金属装甲を激しく噛み合わせながら声を荒らげた。
「帝都をあそこまで無茶苦茶にぶっ壊しておいて、作業の一言で片付ける気かい!」
「事実だ」
レンの虚無の視線が、わずかにリンを捉えた。
だが、そこに敵意すら存在しない。
現場監督が作業工程の不備を現場作業員に告げるような、無機質な淡白さだった。
「西の人間どもは、自分たちの庭を白く飾り立てるためだけに、百年もの間、東の海へ猛毒の汚泥を垂れ流し続けてきた。天蓋の外から吸い上げた高圧原水を独占し、濃縮された重金属とマナ毒のヘドロを、すべて東の大陸へ投棄する歪んだ水循環。……その公害によって、東の先住民たちは肺を焼かれ、海溝は窒息死しかけていた」
青年は淡々と、かつて自分が歩んできた百年の観測事実を並べ立てる。
「あの神樹の元栓を閉めねば、この星の水循環そのものが壊死する。そして――あいつに約束した海を見せるために、汚らわしい欺瞞で塗り固められた国家中枢という瓦礫を平らに均す。邪魔な突起物を削り、地盤を水平にする。……予定通り、あと半月で作業は完了する」
「それが、貴方の言い分ですか」
ルシアンが一歩踏み出し、冷たい吐息を吐き捨てた。
「確かに、神樹の排液投棄は帝国の犯した許されざる大罪です。僕もアレキシアの禁書庫でその真実を知り、反吐が出ましたよ。……ですが! アイゼンガルテンの民を守り抜いたアイゼン公爵のように、その欺瞞に抗い、人々を守ろうとした者たちも、西大陸には大勢生きている! 貴方のやっていることは、公害を理由にした世界の無理心中ではありませんか!」
ルシアンの鋭利な反論。
だが、レンはその言葉にすら動じなかった。
「だからこそ、アイゼンの街は更地にせず、防壁の解体のみで済ませた。……手帳に記した通りにな」
「っ……」
ルシアンの喉が詰まる。
魔王の進軍において、私利私欲に溺れたブラントやローゼンベルクの拠点は徹底的に均されたが、領民のために頭を下げ続けたアイゼンの街と民は、ただの一人も殺されていなかった。
盲目的な破壊者ではない。
すべてを見通し、理不尽の根源だけを寸分の狂いもなく切り分ける、絶対的な選別と機能美。
その冷徹なまでの完成度に、ルシアンは戦慄を覚えずにはいられなかった。
そして――レンの虚無の視線が、アリアの隣に佇む、もう一人の少女へと静かに移った。
桜金色の髪を冷気に揺らし、必死に『リリィ・ファンネル』の結界を維持しながら、緑の双眸を潤ませて立っていたフィリア。
その姿を捉えた瞬間。
百年間、大理石のように張り付き、一度たりとも動くことのなかったレンの表情筋が、わずかに引き攣った。
虚無の漆黒眼の奥底で、瞳孔が痛烈に収縮する。
「……お前が」
レンの口から漏れたのは、先刻までの事務的な平熱ではない。
胸の底を引き裂くような、掠れた呟きだった。
「……教会は、また同じことをしたのか。あいつを使い潰しておきながら……お前のような年端もいかぬ子供を地下へ幽閉し、生贄にして神水を絞り出していたのか」
青年の胸元に埋め込まれた『真紅の魔核』が、熱応力に耐えかねたように激しい紅光を爆ぜさせた。
濁りのない透き通るような真紅の奥底から、かつて沼沢地で最愛の少女を奪われた瞬間の絶望と、生贄を再生産し続ける人間社会への底なしの激痛が、目に見える光の波紋となって神殿全体へ広がっていく。
背後に自律浮遊する『黒骸の断罪柱』の内部で、エルの遺した超精密魔導リールが限界摩擦に達し、金属の軋みと摩擦熱の白煙を噴き上げた。
青年の心臓から奔流となって溢れ出す百年の怨嗟と哀傷を、極限のドラグ機構が必死に調律し、抑え込もうと軋んでいるのだ。
神殿全体の空間が歪み、床の黒氷に白い亀裂が蜘蛛の巣のように走り抜けていく。
痛々しいまでの、剥き出しの純愛と憎悪。
その身を焦がすような激痛の波動を前にして、フィリアは退かなかった。
少女は震える足で、一歩前へと踏み出した。
胸元の『祈誓の翠玉環』を強く抱きしめ、大粒の涙を瞳に溜めながら、玉座の魔王を見上げて叫んだ。
「はい……! 私は、クラリス様の代用品として、地下で命を吸われ続けていました……!」
フィリアの声が、氷殿の冷気を震わせる。
母神の揺籃のような柔らかな声音に、いまは決して折れぬ芯が通っていた。
「ですが私は、絶望の底で終わらなかった……! アリアさんたちが私の手を取って、あの冷たい檻を壊してくれたんです! 私を一人の人間として抱きしめて、一緒に世界を生きようと言ってくれたんです!」
フィリアは涙を拭い、両手を真っ直ぐにレンへと差し伸べた。
「だから……今度は私たちが、貴方を救いに来たんです、レン様! 貴方が百年間、一人で凍りつかせてきたその心を……溶かすためにここへ来たんです!!」
生贄として使い潰されるはずだった少女が放った、渾身の叫び。
その真っ直ぐな光を前に、玉座の青年は――再び、深い沈黙へと沈んでいった。
(第三節へ続く)




