第四十三話:『永久氷晶宮の対峙』 第一節:凍てる玉座の怪異
開かれた黒氷の大扉をくぐり抜けた瞬間、世界の音という音がことごとく消失した。
そこは、天井高数十メートルに達する広大な氷の神殿だった。
足元に広がるのは、外海から吸い上げられた濁水が高圧下で凝固した、青黒く磨き抜かれた氷晶の鏡面。
壁面を伝う無数の真鍮配管からは、かつて魔導技師エルが描いた生活循環インフラの設計図そのままに、青白いマナ蒸気が規則正しく脈打つように噴き出している。
だが、そこに人々の生活を温めるぬくもりは微塵も存在しない。
直後、四人を襲ったのは、これまでの過酷な吹雪すら生温く思えるほどの、異様な「冷気の質量」だった。
「……っ!? な、にこれ……っ!?」
リンが息を呑んだ瞬間、肺胞の奥まで一気に凍りつき、激しい咳き込みが喉を突いた。
四人が身に纏う『決戦用装束』は、黒氷峡谷の氷点下数十度や過酷な吹雪を完璧に遮断する特殊耐寒繊維で編み上げられていたはずだった。
だが――その最高峰の防寒装甲すら、神殿の大気に触れたコンマ数秒で、ピキピキと音を立てて表面が凍結硬化していったのだ。
空間全体の大気から水分が完全に消滅し、分子の熱運動そのものが死滅した【領域】。
ただ立っているだけで、四肢を巡る血液すら外側から急速に凝固させられようとしていた。
「ルシアン……っ! これ、ただの寒さじゃないよ……っ!」
「大気中のマナが、完全に停止しています……! 熱力学の法則そのものが凍りついている……! フィリア、展開を!」
「――神樹の凍てを退け、命の芽吹きをここに……!」
フィリアが右手中指の『祈誓の翠玉環』を天へと掲げた。
腰帯のスロットから射出された六基の『リリィ・ファンネル』が、四人の足元と頭上を高速で旋回し、正八面体のプリズム結界を展開する。
『八華光嶺結界』。
同時に、ルシアンが左耳の『深紺の魔力貯蔵ピアス』から最小限の補助熱マナを流し込み、結界の幾何学面へ同期させた。
翠玉の光膜が絶対零度の侵食をカチリと外側へ反らし、四人の決戦用装束が熱量を完全に密閉する。
互いの装備と魔導を連動させることで、過剰な消耗を強いることなく、四人はこの死の世界において確固たる平熱の足場を確立した。
そして――四人の視線は、広大な氷殿の中央、高くそびえる蒼黒の階段の上へと吸い寄せられた。
そこには、巨大な黒鉄の玉座が鎮座していた。
だが、四人の呼吸を奪ったのは、玉座そのものではなかった。
玉座の真後ろ。
神殿の天井を突き抜けるかのようにそびえ立つ、淡い緑晶の光を放つ巨大な『永久氷晶』。
その透明な氷の深奥に、安置されていたのは。
「……あ……」
フィリアの口から、掠れた吐息が漏れた。
氷晶の中に眠っていたのは、純白の薄絹を纏い、両手を胸の前で重ね合わせた一人の少女だった。
陶器のように滑らかで血の気の失せた白皙の肌。
乱れひとつなく広がる、透き通るような白銀の長髪。
そして――愛する人を守り抜き、自らの命を燃やし尽くした者だけが浮かべる、哀しく、どこまでも穏やかな微笑み。
「……大聖堂の肖像画に描かれていた、初代聖女クラリス様……? そんな……どうして百年前のお姿のまま、眠っておられるのですか……?」
フィリアの声が震えていた。
少女の胸元で、クラリスの遺骸から漂う神聖なマナと呼応するように、『祈誓の翠玉環』が淡く瞬いている。
だが――隣に立つアリアの胸を去来していた感情は、それよりも遥かに深く、痛烈だった。
アリアの首元の『星彩の首輪』が、激しく熱を帯びて七色に脈動していた。
皮膚の奥の聖痕が、トクン、トクンと激しく鼓動を打つ。
夢の中で。
そして先刻の回廊の記憶の中で。
アリアは何度も、この少女の五感そのものと同調し、その魂の歓喜も、激痛も、青年レンへの不変の愛も、すべてを自らの心で味わってきたのだ。
他人であるはずがなかった。
肖像画の聖女などという記号では、到底片付けられない。
アリアの菫色の瞳から、自覚することすらなく、ポロリと一筋の透き通った涙が零れ落ちた。
唇が、無意識に震える。
「……やっと、会えたね……クレア」
決して口にしてはならないはずの、百年前のあの人たちだけが呼んでいた愛称が、少女の口から自然とこぼれ落ちていた。
「……来たか」
その涙の落ちる音すら聞き届けるように、頭上から乾いた声が落ちてきた。
玉座の上。
深々と身を沈めていた黒衣の青年が、手元の魔導羊皮紙から、ゆっくりと視線を上げた。
魔王、レン。
肉体年齢二十歳のまま、時を止められた青年。
肩口まで無造作に伸ばされた漆黒の長髪。
肌は死人のように青白く、感情の起伏を示すはずの表情筋の動きは完全に死に絶えている。
光を一切反射しない虚無の漆黒眼。
首筋から両の手の甲にかけて走る、原初の魔族の刺青――クラリスの血を吸い上げた黒赤の幾何学模様が、冷気のなかで鈍く明滅していた。
青年が座す玉座の周囲には、全長二・五メートルを超える漆黒の重金属柱――『黒骸の断罪柱』が、重力を嘲笑うかのように斜めに傾ぎ、静かに自律浮遊している。
最外殻はダンカンの金砕棒を鍛え直した装甲。
その深部から、エルが命と引き換えに遺した超高精度魔導リールが、微かに「チチチ……チチチ……」と乾いた金属クリック音を刻み、魔王の暴走する怨念を精密に調律し続けていた。
両腕を包むのは、エルの手甲が生体金属化し、鋭利な黒金の鉤爪へと変異した『禍刻の十指魔手甲』。
そして――その禍々しい魔王装束の腰元で、ただひとつだけ酷く不釣り合いに提げられていたのは、擦り切れて色褪せた小さな革ポーチだった。
中には、百年前、クラリスが優しい「瞳」を描き込んでくれた木製ルアーが、あの日のぬくもりを宿したまま眠っている。
だが、何よりも四人の視線を釘付けにしたのは、青年の胸元だった。
心臓の真上に埋め込まれた宝石――『真紅の魔核』。
それは、先代魔王レヴィアが遺した世界への呪悪を、クラリスが命懸けの祈りで調律・浄化し切った証。
邪悪な黒や濁りは微塵もない。
世界の誰よりも冷酷な破壊者の胸郭で、息を呑むほど透き通った、痛切なまでに清らかな「真紅」が、ドクン、ドクンと静かに脈打っていた。
アリアの頬を伝う涙を一瞥した魔王は、しかし、眉一つ動かさなかった。
怒ることも、嘲笑うこともない。
手にした魔導羊皮紙――更地化工程表を無造作に指先で払うと、ただ淡々と、事務的な平熱の声で告げた。
「……外門の部族長たちを殺さずに突破したか」
世界を終わらせる絶対零度の災厄と、救済を誓う新星の勇者。
二つの時代のカルテットが、ついに凍てつく玉座の前で交錯した。
(第二節へ続く)




